155 お姉ちゃん



 モフモフした頭をなでさせてもらっている間に、フィンはいなくなってしまった。


(逃げたか、フィン・シャンドレン)


 しかも、幸せそのものに浸りきったレンカを、後に残して。


 服こそ着ているがあのときのオティリーと大差ない、ぐんにゃりとゆるみきった体を、日暮れが迫る中で地べたに放置しておくことは――今日の早朝に、ぴったり隣にくっついて寒さをやわらげてくれたことを思うと、とてもできず。


 もしかするとあの外道なご主人さまは、カルナリアのそういう気分につけこんで、レンカの世話を押しつけて逃げたのかもしれなかった。


(人間の敵め)


 男は魅了する、女は周りにはべらせる、ついにはどちらでもないレンカまで。


 本人には罪のないレンカの体を抱え起こした。

 体は小さいが、左右の剣を始め色々身につけているため、割と重い。


「ゴーチェさん、この子を運んでください。……あの辺りへ」


 背中を預けさせる壁どころかある程度の高さのある瓦礫すらろくにないので、仕方なく、人のいない湖畔の、波打ち際の斜面に座らせ、自分も隣に腰を下ろして、支えることにした。


 ゴーチェにはそのまま背後を警戒してもらう。


(温かい……)


 ファラが「大爆発」を引き起こしたあの時、雨の中で恐怖にやられて抱き合ったことを思い出す。

 あの時、この体にしがみつくことができていなかったら、あの後フィンを助けに汚泥の海に突入することなどとてもできなかっただろう。


「ん…………」


 レンカが小さくうめいた。

 骨の髄から貴族を憎み殺意の塊だった鋭い顔つきも、あのに徹底的にほぐされ溶かされゆるみきったせいだろう、年齢相応のあどけないものになっている。

 整った顔をじっと見ていると、おかしな気分になりそうだ。

 成長したら、どのような方向であれ、他人を魅了する美形になることは間違いない。


「うにゅう……」


 また、小さくうめいた。


 カルナリアは不意打ちを食らって、心が宙へ舞い上がった。


(かっ、ですっ!)


 第七子、末っ子なので、自分より幼い子供というものを相手にしたことがなかった。

 これか。

 こういうものなのか。


 むにゃむにゃ、口元をゆるませながら、レンカの手が空中をさまよう。

 小さな、ゆるい握り拳。指が動いている。


「…………」


 その隙間に、自分の指を差しいれてみた。


 きゅっ。

 握られて……。


(ふあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!)


 わけのわからない昂揚感と幸福感に再び吹っ飛ばされた。


「おっ、おおっ、おっ…………」


 口が勝手に動く。頬が引きつっている。笑いの形。ひくひく。感情が強すぎて上手く声が出せない。


「お姉さまと、呼んで、いいのですよ……!」


 ようやく、言えた。


 言ってから、恥ずかしさに顔面が燃えあがり、レンカを支えていなかったらすぐそこの地面を転げ回っていたかもしれなかった。


 その代わりに頭頂と両耳から激しい蒸気を噴いた。


 両方の足で地面をぺたぺたぺたぺた小刻みに叩いた。


「むにゃ…………」


 またレンカが、どうしようもなく可愛らしい声を漏らして。


 カルナリアの指を握っていた手を、開いて、動かして。


 首に、しがみついてきた。


「!!!!!!」


 そして、頼りなく、言われた。


「おかあちゃん…………」


「……………………!」


 ぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞく。

 全身に鳥肌が立ちものすごいものが背筋を駆け上がり脳髄から脳天へ突き抜けて空へ駆け上がっていった。


 平民の下卑た表現だが意味はわかり、わかったからこそ余計にそうなった。


「ん……」


 感動を超えた何かに目覚めたカルナリアの硬直をよそに、レンカは口元を細かくうごめかせて。


 さらに手を動かして、唇をすぼめて、を求めて、本能的だろう動きで首より下にある盛り上がるものを見つけ出し……。


 カルナリアはもうこの際はだけられて吸いつかれてもいい自分もどこかで誰かにそうしたような気がするからここで自分がやられるのは仕方ないしむしろやらせてあげたい…………と、この相手以外なら絶対に拒絶する行為を受け入れたのだが。


「…………ん?」


 服の上から、ふくらみを、二度、三度と、揉まれ、確かめられた次の瞬間。


「んっ!?」


 レンカが目を見開いた。


「わあっ!? ! !?」


 叫び、本来のすさまじい身体能力そのままに飛び上がり、距離を取り、身構える。


 ――それから。


「……………………え?」


 カルナリアを認めて、きょとんとした。


「何でお前が!?」


「……………………………………」


 カルナリアは、投擲とうてきされた槍に貫かれたような感覚をおぼえ、よろめいていた。


 あれほどにふにゃふにゃになっていた相手が目覚めてしまうほどの衝撃を与えてしまった――なのか自分のこれは、と屈辱に打ち据えられ、失望と哀しみの泥沼に沈みこんだ。


「おい。どういうことだ。何だよこれ。どうなってんだ」


「……おはようございます……お元気なようで……何より……」


 支えるものがなくなって、カルナリアの方がへたりこんだ。






 食事だ、という声がした。


 レンカが目覚めてカルナリアの安全を確保できるようになったため、ゴーチェが食事を受け取りに行く。


 色々思い出したらしいレンカは、耳を赤くしながら、カルナリアを起こしてくれた。

 隣に座ってくれたが、密着はしてくれない。


「ううう………………恥ずい…………」


「こちらも……失礼いたしました……」


 そこから、しばらくの沈黙。


 細波の立つ湖面が、夕空の色にきらめいて、美しい。


「……それで………………あの…………フィン様は?」


 レンカが訊ねてきた。

 その声音に、隠そうともしない深い思慕の情がこもっている。


 カルナリアの頬がふくらんだ。


「何を、されたのですか?」



 割とあっさり、レンカは言った。

 いや、自慢するように言った。


「ほぐされ…………!」


 ふつふつと、胸のうちをどす黒いものが満たしてゆく。


「お前を助けた礼をするからと、連れ出されて、山に入った」


「…………」


 それを持ち出されるとカルナリアは何も言えない。


「体は治っているが、礼として、もっとよく動くようにすると――」


 ちらりとカルナリアを見て、恥ずかしそうに目を逸らす。

 その仕草も表情も、これまでのこの恐るべき殺戮者が一度も見せたことのない、弱々しい、そして悩ましげなもので。


「まず、ように言われて……」

……」


 カルナリアの口角がつり上がる。

 牙があるなら全力でいている。


「あのひとが、絡みついてきて」

「絡み」


「…………


「!?」


 意外な言葉にカルナリアはぎょっとした。


「痛かった。痛みには慣れていたけど、それでも耐えられないことを、次から次へとやられた。アイラ流とか言っていた」


「…………!」


 アイラ。タランドンの、あの女戦士。

 あれに絡みつかれた後の激痛、苦痛、号泣、屈服、哀願、死の確信、絶望……。

「拷問」を体が思い出して硬直し、節々に痛みがよみがえる。


「耐えられなくて、反射的に、殺そうともしたんだけど――まったく通じなくて、さらにやられて、負けた、死んだって、本当に思って……このまま殺されるって……」


「…………」


 自分も通った道だ。


「そうしたら…………今度は、だんだん……その………………気持ちよく、なってきて…………!」


「はぁぁぁぁぁ!?」


 思わず声が出た。出てしまった。


 レンカは、赤くなり、はにかみながらも――笑みを浮かべる。

 どろりとした笑み。

 これも見たことがある。ラーバイで、オティリーにこの顔で迫られた。


…………!」


 レンカは座ったまま、体を細かく痙攣させた。


「痛いのが、あるところから、何をされても気持ちいいだけになって……骨を折っていい、体を壊していい、もっとしてって……噛みちぎって、切り刻んで……このまま殺してって、心から、望んだ………………あんなの、初めて…………!」


「……………………」


 おぞましさにカルナリアもまた身震いする――が。

 胸が、異様な高鳴りを示してもいた。


「気がついたら終わってて……生きてて、幸せで、体がものすごく軽くなっていて……」


「……」


「少し休んだあと、今度は、技を教えてくれた」


「…………はい?」


「まだ未熟なところがあるからって……あのひとと、を使われて」


「………………!」


 知っている。

 傀儡かいらい息吹。


 あれの、使い方は。


 カルナリアはギギギと首をきしませつつレンカに向いた。


「あれを、使ったのですね?」

「お、おい?」

「あれを、使う前に、を、したのですね?」


 レンカの両肩に手を置いた。

 ぐ、ぐ、ぐ。力がこもる。どんどんこもる。


「ま、待てっ、お前っ、変だぞっ! うげっ、何だ、この力っ……外せないって、何でだ!?」


 あとからあとから力が湧いてくる。

 ファラは、自分の体には自分も知らない、王族としての色々なものが仕込まれていると言っていた。この力もそれに違いない。


「お、おい、うそだろ、やめろ、や、やめ…………ひぃっ!」


 ああ、レンカがおびえている。

 初めて見る顔だ。

 なんてかわいらしい。

 そのくちびる。自分以外にを経験した、ふっくらした美しいそれを、噛みちぎってやりたい。


「…………いえ、あなたは、悪くありませんね…………悪いのは、あのひとです。

 ええ、あのひとが、、悪い」


 おのれフィン・シャンドレン。

 極悪非道、淫乱奸知かんちたるご主人さまよ。

 膝の上の「あ~ん」といいこれといい、どこまで、自分だけのもののはずだった貴い思い出を、台無しにしてくれやがるのか。


「それで………………技を教わった、その後は?」


 震え上がったレンカだったが、問われると、また顔つきがとろけた。


 これは、似た顔をいくつも見たことがあった。


「最後に、からって……優しく揉まれて……体中、全部…………じっくりと……何もかも、溶かされて…………真っ白…………好きって気持ちだけになって…………なにも、考えられなくなって…………」


 夢見るような、きらめく、恋慕の瞳――恋に落ちた、とされた者の顔つき。


「それで、気がついたら、あのひとじゃなく、お前がいたんだ……」


「なるほど。わかりました。よくわかりました」


 恥ずかしがり、かつ恐れて、カルナリアから身を遠ざけようと、斜めに体を傾けるレンカ。

 その妙に煽情的なポーズに気を取られることもなく、カルナリアは周囲を見回した。


 滑らかに立ち上がる。

 達人の動き。自分はその動き方を知っている。


 さて、どこにいらっしゃいますか、ご主人さま?

 どこに隠れようとも見つけ出してさしあげますよ?

 今の私は、ご主人さまを『検索』できる気しかしませんよ?


 逆にレンカが、疲れ果てたように、女王にひれ伏すように、地面に這いつくばった。


 ――違った。


「……ん!?」


 その体に、緊張がはしった。

 空気が変わる。


「どうしました」


「誰か、近づいてくるぞ。ひとりじゃない、けっこう多い。普通のやつじゃない」


 地面に耳をあてる小さな体から、甘いものが消え、殺気が放たれ始めた。


「……どういうことですか?」


「オレがいない間に、何かなかったか? ここを狙ってきそうなやつらが現れた、みたいな」


「あっ……山師、とかいう人たちが来ました!」


 急いで、フィンに警告されたことと、その通りに人が来たことを説明する。


 そして、説明している間に――。


「あっ! そういえばっ!」


 彼らに対する違和感に、今になって、気がついた。


「足元、危なくって、案内人さんでも転んでたのに、あの人たち、普通に走ってました!」


「…………なるほど。あの状態の地面を動くことに慣れてるんだな」


「慣れてる、ということは?」


「話は後だ。しゃがんで、隠れてろ。何かあったらワタシが守る」


 レンカがそう言った、まさにその時。


「襲撃!」


 声が飛び、悲鳴が上がり、絶叫が続いた。

 争闘の気配が湧き起こった。







【後書き】

事案発生。年齢的、性別的、内容的、様々な意味で。

そして何者かが襲ってきた。次回、第156話「水中からの襲撃」。初めてあの人物が武器を手にする。


【解説】

「傀儡息吹」は第64話参照。

実はフィンは急いでレンカを回復し強化しようとかなり強引にやってます。カルナリアは危険が迫っていることに気づいていないのでむくれていますが。その結果は次話にて。

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