第十一話 浅瀬船中学校⑤
用務員室は、北棟から少し離れた場所にあった。僕も菅原も市岡凛子さんも無言だった。
用務員室の鍵も預かっていた。菅原が「坊ちゃん」と手を差し出すから、鍵の束を渡した。菅原が鍵を、そして扉を開ける。
小さな部屋だった。狭い玄関。入ってすぐに畳敷きの和室が見える。右手には小さな台所。和室にはちゃぶ台と座布団。
そこに、遠藤侑帆が倒れていた。
菅原が大股で近付いて、両方の頬を叩いた。結構力を入れていたようなのだが、遠藤侑帆は目を覚さない。
「呼吸は?」
「止まってます」
死んでるのか。だが、それにしては顔色も良いし、ただ気を失っているようにも見える。
と、市岡凛子さんが大きく溜息を吐いた。
そして、
「錆殻くん、菅原くん、もう戻って」
と言った。
「はい?」
「彼のことは引き受けます。だから」
「引き受け……え?」
何を言われているのか分からない。ただぽかんとするしかない僕の首根っこを、菅原が強く掴んで引っ張った。一瞬息が止まる。何すんだ。
「狐ですね」
菅原の目がギラギラと光っている。薄暗闇に包まれていた用務員室のLEDが一瞬強く光り、それから割れた。
市岡凛子さんは遠藤侑帆の傍らに膝を付き、彼の顔の上に手をかざしている。
良くないことが起きると思った。
「菅原!」
「はい!」
菅原はもう人間じゃなかった。どろりと黒いヘドロのような存在が、市岡凛子さんの手元を弾いた。「ぎっ!」と声を上げたのは市岡凛子さんではなく、菅原だった。人間の姿に戻った菅原が畳の上に倒れている。右手の甲が赤く爛れている。
市岡凛子さんが嘆息する。
「戻って、って言ったでしょう」
「いや……でも!」
そこで不意に思い出す。僕と菅原は光臣の代理人で、光臣はいじめ加害者の親から依頼を受けている。市岡凛子さんはいじめ被害者の苅谷夜明さんのご両親を含む家族と親交が深くて、「憑かれやすい」夜明さんにお守りを持たせるほどで──
「出て行って」
市岡凛子さんの声が凄みを増す。菅原が再びその手に挑み、そして弾かれる。気付けば僕の周りを、無数の鬼火が囲んでいた。
「何を」
声が震える。
「するんですか」
市岡凛子さんは本物だ。
僕と菅原と同じぐらい、本物だ。
市岡凛子さんは口の端を上げて笑い、
「きつね」
と小さく呟いた。
先ほど職員室前に現れたのとは別の──いや同じ?──真っ白い毛皮の狐が現れて、菅原に飛びかかった。
「なんっ……坊ちゃん! 坊ちゃんは外に!」
「いや無理! なんなんですかこれ! 市岡さん!!」
狐に喉笛を狙われる菅原がまた姿を変える。けものだ。犬でも狼でも狐でも虎でもない、真っ黒い毛並みの巨大なけもの。大きく開かれた口の中にはびっしりと鋭い牙が生えており、白い狐を押さえ付けてその首筋に歯を立てる。
「っと……」
菅原が白い狐を制圧した瞬間、市岡凛子さんが遠藤侑帆から手を引く。遠藤侑帆の体がビクビクと痙攣しているのが分かる。生きてる。たぶん!
勢いを付けて市岡凛子さんの手の下に飛び込んだ。そのまま遠藤侑帆の体を抱えて、玄関の方に放り投げる。僕もすぐに畳から飛び降り、遠藤侑帆を背中で庇うような格好になる。市岡凛子さんは何も言わずに僕のことをじっと見詰め、それから、
「きつね」
「あーっ! いっぱい出てきた!」
今度は僕がターゲットだ。それも一頭や二頭ではない。真っ白い毛皮の狐が僕の周りを囲んで唸り声を上げ──これ、アレだ。さっきの鬼火だ。鬼火が全部狐だったんだ。
「坊ちゃんに触るな!」
菅原がこちらに向かおうとするが、たくさんの鬼火と狐に足止めをされて叶わない。こんなに狭い部屋の中なのに。なんでこんなに広いんだ。あの夜の錆殻邸みたいだ。
──錆殻邸?
従妹の言葉を思い出す。
──この家はね、どんどん大きく広ーくなってるから。
異界だ。
丑寅の方角だとか、この建物の下に供養されなかった遺体が埋まっているとか、理由は色々あるんだと思う。ただ、この、用務員室は。
異界に繋がることができる。
錆殻邸がそうであったように。
入り口を開ける。
「そんなに賢いのに、どうして錆殻光臣の助手なんか引き受けているんだろう?」
市岡凛子さんが不思議そうに呟いて、立ち上がる。
足元にたくさんの狐が集って、畳から僕と遠藤侑帆までの橋を作る。
「結局のところ、浅瀬船の本丸はここ」
畳の隅っこにけものの姿の菅原が縫い付けられている。たくさんの狐の牙によって。
「よっちゃんがここに逃げ込んだのは、偶然だったと思うのだけど。それでもあの子は憑かれやすいから、じゅうぶんに機能してしまったんでしょうね」
「なに、が……」
考えろ。
考えろ考えろ考えろ。
焼き切れるまで考えろ。
今僕の腕の中にいるいじめ加害野郎も含めて、全員まとめてこの部屋から脱出する方法を。
『──み・ず』
耳元で、誰かが囁いた。
従妹の声だった。
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