第九話 浅瀬船中学校③

「始まった」


 市岡凛子さんが呟く。それは、僕にもなんとなく分かった。「昼間じゃないですか」と言いながら長い廊下を見回している菅原だけが途方に暮れている──ように見える。


「次はどこだっけ、錆殻くん?」

「北棟です」


 七不思議の三つ目は一旦飛ばす。『悪魔に取り憑かれた生徒は、対価を支払わなければならない』という内容だが、今ここには僕と菅原と市岡凛子さんしかいない。悪魔に取り憑かれているかどうかの判断もできないし、対価をどうやって払えばいいのかも謎なのでパスだ。代わりに四つ目。『北棟にある理科室の標本資料置き場には、悪魔から逃れられなかった生徒の遺骨が納められている』を確認に行く。

 理科室は北棟の一階にある。今いる保健室は南棟の一階。理科室に移動するためには、


「中央棟を通りますよね。ついでに、職員室を確認しませんか?」


 菅原の提案を「ダメ」と市岡凛子さんが一蹴する。


「『ついで』はダメよ、菅原くん。錆殻くん、あなたは分かってるね?」


 市岡凛子さんは、僕の父親より少し上ぐらいの世代だろうか。光臣よりは間違いなく年上。これぐらいの年頃の女性と喋る機会が、僕にも菅原にも滅多にない。いや、僕にはあるといえばあるのだけど、大学の教授とか、だけど彼女たちはあくまで教授、教員であって、市岡凛子さんはまるで違う。彼女は、なのだ。単に母親という属性だけで良ければ、先日の会談の際に言葉を交わしたいじめ加害児童たちの母親たちとだって口を利いたじゃないか、と思いはする。けれど、市岡凛子さんは、そうではなくて──


「分かります」

「よろしい」

「えっよっよろしくないですよ! 坊ちゃん! どういう……!」


 先陣を切って歩き始める市岡凛子さんの背中を追う僕に、菅原が縋り付く。重い。市岡凛子さんは南棟と中央棟を繋ぐ渡り廊下を目指している。浅瀬船中学校の内部はそうややこしい作りにはなっていない。南棟、中央棟、北棟の三つの校舎を渡り廊下で繋ぎ、南棟側には体育館、北棟側には図書室と用務員室がある。以前は中央棟の裏手に西棟と呼ばれる木造の建物があったそうなのだが、老朽化を理由に既に解体されている。。浅瀬船中学校自体開校してから27年しか経っていないのに、と思うと奇妙な響きだけど。


「菅原、七不思議を巡るならきちんと順番を守らないと」

「はい……? いや、でも……」


 この七不思議は作られたものであり、本物ではないと。菅原はそう言いたいのだろう。気持ちは分かる。だが。


「少なくとも①から④には何らかの繋がりがある。ですよね、市岡さん?」

「その通り、おっと……」


 煌々と僕たちを照らす電灯の下で、市岡凛子さんが足を止める。途端、電灯が激しくまばたきを始めた。「ひゃっ」と声を上げた菅原の手が僕の二の腕を強く掴む。「静かに」と市岡凛子さんが呟く。渡り廊下を通過してすぐの場所で、僕たちは立ち止まっていた。少し先には職員室がある。七不思議の⑤と⑥に登場する職員室。七不思議を作った爽谷先輩が「覚えがない」と証言した職員室。


 その扉の中から、灰色の影が現れた。人影だ。悲鳴を上げそうになる菅原の顔をぐっと引き寄せ、手で口を塞ぐ。菅原。この世のものではないものを祓うことも倒すこともできるくせに、不意打ちに弱すぎる。


「この土地は昔焼かれている」


 市岡凛子さんが低く言った。職員室の中から出てくる人影は次第にその輪郭をはっきりさせ、僕よりもよほど若い少年や、おじいちゃんと称しても良いような年頃の男性まで、様々な世代が項垂れるようにして歩みを進めているのが分かる。「」と菅原がハッとした様子で繰り返す。


「大空襲」

「きみは、見たのかな」

「はい」


 戦争の話だ。確かに、昔の話だ。


「たしかに大勢の人が焼かれて……この土地でしたか……」

「下町大空襲。規模が大きかったからね」

「じゃあ、あの、歩いている人たちは」

「そう」


 と、市岡凛子さんは両の手を擦り合わせながら頷いた。


には、そりゃあおばけも出るでしょうよ」


 きつね、と市岡凛子さんの澄んだ声が呼ぶ。現れたのは──


「お、おばけ……?」

「似てるけど違う。きつね、あの人たちを向こう側に」


 青白い光に包まれた、真っ白い狐が中空でその美しい毛皮を震わせていた。市岡凛子さんの短い指示を受けた白い狐はまるでステップを踏むように軽やかに人影たちの方に移動し、彼らを、


「……消えた!」


 菅原が目を剥いている。自分だって似たようなことできるくせに。


「今のは?」

「狐憑きの市岡、だってもう知っているでしょう錆殻くん? 今のはうちの式神。学校なんていう人間のありとあらゆる感情が渦巻く建物に踏み付けにされたことによって行き場を無くした死者たちを」


 と、市岡凛子さんは少し笑い、


「川向こうまで案内させる。正確には川の少し手前かな。

「そうなんですか?」


 水を渡れない……? 泳げないって意味か?


「式神にも得手不得手があるわね。うちの子はそうだってだけ。さ。行きましょう北棟に」

「坊ちゃん坊ちゃん」


 また真っ暗になってしまった廊下を足早に進む市岡凛子さんの背を追い駆けながら、菅原が囁いた。


「アンケートに……」

「うん、あった」


 ──夏休み、ともだちと肝試しをするために真夜中学校に入ったことがあります。その時、職員室から灰色の人かげが出てくるのを見ました。


 ──(承前)職員室の下に死体が埋まっていて、夏休みになると幽霊が出てくるという話はありました。友達が見たらしいです。


 これは、浅瀬船中学校卒業者及び近隣の学区の人を中心に行ったアンケートの設問『学校の中で、七不思議に関係ない不思議な体験をしたことはありますか?』の回答の一部だ。やけに夏休みが強調されているのは、夏休みだ、肝試しだと盛り上がって学校に侵入した学生たちの『生』の感情に触発されてあの人影──幽霊たちが現れたということなのだろう。

 だが、市岡凛子さんの──市岡家の狐が、人影たちを川向こう、つまりあの世に誘導した。ということは、今後この場所で幽霊を見ることはなくなると考えて良いのだろうか?

 そもそも、あんなにはっきりとこの世に未練を残した人たちが現れるというのに、この学校のは本当に七不思議は存在しなかったのか。

 どういうことだ?


 職員室の前を通り過ぎる。再び電灯が廊下を照らし始める。菅原がちいさく悲鳴を上げる。市岡凛子さんはこちらを振り返らず、北棟に通じる渡り廊下を通り抜けようとしている。ふと、気になって。顔を校庭の方に向けた。

 何かが光っている。青白い。


「……魔法陣?」


 青白い鬼火のようなものが、広い校庭の上で踊っている。

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