第三章 聖人と偽物

第一話 喪失

 錆殻邸に向かう。家の中では黒い雨が降っていて、たくさんの水溜りで足の踏み場もないほどだった。

 菅原がサッサッと手を振って水溜りを割り、道を作る。のようだった。菅原は、モーゼを知っているだろうか。


「また来たの」


 従妹の声が聞こえる。姿は見えない。彼女はもう、この家、錆殻そのものになってしまったのだと思う。返事をせずに、菅原が作ってくれた道を進んだ。真っ直ぐ、真っ直ぐに。


「何を聞いたの」


 答えてはいけない。これは従妹に限った話ではなく、今の僕には光臣以外の人間と口を利く気がなかった。

 國彦はなんと言っていた? 妹が死んだのは、四年前だって? 僕の父が亡くなったのと同じ時期だ。

 光臣が、霊能者として仕事をするようになったのもその頃だ。


「ねえ、どうせ迷子になるよ。この家から出られなくなる前に、帰りなよ」

「それは、あなたのさじ加減ひとつでどうにでもなるでしょう。行きましょう坊ちゃん。耳を貸す必要はない」


 菅原が、従妹の台詞に応じた。舌打ちが聞こえた。どう控えめに聞いても、女子高校生の出す音ではなかった。

 

 


 この家はいずれ、黒い雨で溺れてしまう。

 その前に僕たちは、光臣を見付けなくてはいけない。


 光臣は、私室にはいなかった。光臣の私室を訪ねるのは初めてだったけれど、ここだ、とすぐに分かった。物のない部屋だった。背の低い本棚と、ベッドと、それから小さなテレビ。こんな簡素な部屋で暮らしているのか、あの伯父は。


「坊ちゃん」


 菅原が僕の背中を叩く。足元まで、黒い水が迫っている。


「行こう」


 光臣はどこだ。


 家の中には、國彦もいなかった。従妹の声だけが「帰って」「もう出てって」「この家は迷宮なの」「」と繰り返している。もはや、従妹、女性の声でもなんでもなかった。老若男女、大勢の声が反響していた。

 父が生きていた頃、錆殻邸を訪ねる機会はほとんどなかった。僕の父は錆殻の姓を捨てていたし、父と光臣の両親──僕の祖父母に該当する人間は既に死んでいたから、錆殻邸は実家としてすら機能していなかった。


 錆殻光臣は、実父を亡くした甥、僕を、なぜ引き取って、面倒を見ようと思ったのか。

 そもそもそこに立ち返らなければならない。


 金のためだと思っていた。僕の父は、霊能者として、拝み屋として、驚くほどに有能だった。僕と父の生活費はほとんど、父の仕事に対する報酬で賄われていた。父は、仕事に際して決して無理のある料金を提示しなかった。なんなら無料で祓いを請け負うことすらあった。それでも僕と父は生きてこれた。父の人徳だ。

 光臣は、父、死んだ弟が積み上げてきた信頼を利用して仕事をしようとしているのだと、そういう銭ゲバクソ野郎だと思っていた。ずっと。


 半分は正解で、半分は間違いなのだ。


「──なんだ、おまえか。呼び付けた覚えはないぞ」


 光臣は、錆殻邸のリビングにいた。従妹の声が告げている通り、この家はどんどん大きく膨らんでいる。それに迷路のようでもある。菅原が一緒でなければ、光臣の私室にも、リビングにも到着できなかっただろう。

 リビングにはまだ、黒い水は流れ込んでいなかった。菅原とふたりで飛び込んで、サッとドアを閉めた。従妹の声が、僕の名前を呼ぶのが聞こえた。


「質問があって、来ました」

「仕事は?」


 木製の四角いテーブル。セットになっているのであろう木製の椅子、四脚。そのうち二脚が物置になっていることに、あの日の僕らはなぜ気付けなかったのか。もしかしたら菅原は気付いていたかもしれないけれど。僕が自分で気付かなければ何の意味もない。


「仕事とも関係ありますけど、その前に確認させてください」

「おまえとは喋りたくない。そっちの化け物ともだ。出て行け」


 にべもない。聞き分けのない子どもかよ。化け物呼ばわりされた菅原が溜息を吐いている。菅原が怒ったりしないから偉い。僕だったら激怒してる。


「伯父さん」


 錆殻光臣。僕の伯父。


「早くここから出ないと、溺れ死にますよ」

「……望むところだ」


 嘘だ。


 この男は身勝手で、金が好きで、目立つことが好きで、タレント気取りで、その能力がまったくないにも関わらず霊能者を気取っていて、そういう人間が「死」を予告されてこんな平然としていられるわけがない。


 狐か? それとも、バフォメットの仕業か?


 先日この家を尋ねた際、僕はバフォメットに関しては「虚偽の申告だと思う」と言った。苅谷夜明さんへのいじめ加害行為に参加していた男子中学生3人は、何にも呪われていないし取り憑かれていない。だが、自分たちが加害行為をしていたという事実から逃げるためにその演技をしているのだ──と。


 考え直せ。


 すべて起きている。

 すべて。


 誰も嘘を吐いていない。


 苅谷夜明さんも、父親の久秀さんも。

 市岡凛子さんも、息子の稟市さんも。

 そしていじめに加わった5人の中学生と、その親も。

 光臣も。


「坊ちゃん!」


 菅原が声を上げ、僕と──うんざりした顔でリビングの椅子に腰を下ろし煙草を吸っている光臣を背にし、獣の声としか称せないような唸り声を上げた。しっかりと閉じたはずの扉の隙間から、黒い水が流れ込もうとしていた。


「戻れ! 今忙しいんだ!」


 菅原が吠える。水が大きく跳ねる。怯えるように。意志があるかのように。


「坊ちゃん、こちらは菅原が抑えます。ですから、早く」

「オッケー」


 菅原が抑えると言っているんだ。絶対に大丈夫だ。

 光臣に向き直る。覇気のない顔をしている。父を、たったひとりの肉親をあまりにも呆気なく失ったせいで悲しむことすらできなかった僕に「おまえの衣食住を保証する。その代わり、俺の命令を聞け」「俺は、おまえのオヤジの兄だ」と啖呵を切った、あの時のクソ野郎はどこに行っちゃったんだよ。

 おまえがクズじゃないと僕は困るんだよ、光臣。


「4年前」


 光臣は聞いていないかもしれない。でも、この家を黒い水の中に沈めようとしている何者かには届くだろう。僕は声を張る。


「死んだのは、僕のお父さんだけじゃなかった」

「──ハ」


 嘲笑。聞こえてんのかよ。


「何を言い出すのかと思ったら……」

「あんたの奥さんと娘も死んだ!」


 ゴッ


 という音がした。


 何かが飛んできて、額に当たった。痛い。思わず手を当てると、何やらべったりとした液体が指に絡んだ。血だ。


「坊ちゃん!? 光臣さん、あんた、なんてことを!!」

「菅原、こっちは大丈夫。水に気を付けて!」

「うう……後で、後で絶対にボコボコにしますからね!! 光臣さんを!!!」

「好きにして!」


 床に落ちた灰皿を拾う。白い陶器の灰皿。吸い殻と灰によってくすんだ色に変色していて、その端には僕の血が付いている。


「なんで認めないんですか」

「今頃気付いたおまえが、何を偉そうに」

「錆殻光臣。あんた、隠してましたね、力を」


 光臣が、ゆっくりと顔を上げる。青白い顔。くしゃくしゃの蓬髪。薄っすらと無精髭。目の下の隈がひどい。


「力?」


 つい先日記者会見であんなに元気に喚き散らしていた人間と、同一人物とは思えないほどに窶れた顔をしている。


「そんなものは、俺にはない。知ってるだろう」

「あんたになくても、死んだ奥さんと、娘さんにはあった」

「あいつらのことを言うな!」


 今度は煙草の箱が飛んできた。菅原がめちゃくちゃこっち睨んでる。でも一旦無視だ、無視。


「父ですか。僕の父が、あなたの弟が、あなたの妻子を奪いましたか」


 だったら僕は、償わなければならない。

 一生光臣にタダ働きをさせられたって、文句は言えない。

 でも、違う。僕の父はそんな人間じゃない。

 それじゃあ、本当に悪いのは誰?

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