第十話 狐憑き

 錆殻邸で見たもの、聞いたことについて、すべてを菅原に伝えはしなかった。國彦と約束したからだ。ただ、新宿の喫茶店のマスターがお土産にと持たせてくれたシチューを温める菅原の背中に「狐憑きって会ったことある?」とだけは尋ねた。黒髪をポニーテールにした菅原は小首を傾げ、


「おや……珍しい響き、狐憑き」


 などと呟く。


「会ったことある? それか、噂で聞いたとか」

「会ったこともありますし、噂にも聞いたことはありますよ。狐憑きは数が多いですからね。すがわ──私がまだこの国の中を旅して回っていた頃に、何人も見かけたことがあります」

「なるほど」

「光臣さんが、狐憑きと揉め事でも起こしましたか?」


 勘が鋭い。というよりか、錆殻邸から戻ってきてまず最初の話題が『狐憑き』では、誰でもそういう想像をするだろう。

 菅原がシチューを温める側でトースターにパンを突っ込みながら、


「呪い返しをされたみたい」


 と独り言のように言った。鍋をかき回していた菅原の手がぴたりと止まる。


「呪い返し?」

「そう」

「それは……単に呪いをかけられたという話ではなくて?」


 だよなぁ。そう思うよなぁ。「詳しくは言えないんだけど」と前置きをし、


「呪いじゃなくって、呪い返しらしいんだ。それで、人が死んでる」

「なんと、まあ……」


 白い皿にビーフシチューを盛りながら、菅原は呆れたような、感心したような、そのどっちとも取れる声を上げた。


「なぜか……を尋ねてはいけないんですよね。しかし不思議です。光臣さんには他者を呪う能力などない。にも関わらず、呪い返しを受けた、ですって?」

「そうなんだよ」


 純喫茶カズイ謹製のビーフシチューと、トーストと、バターと、菅原が作ったブルーベリージャムを食卓の上に並べて、それからふたり分のコップと麦茶とスプーンと。遅い夕食を始めながら、錆殻邸に居る従妹の存在は伏せ、ざっくりと、あの家に呪い返しが発生したこと、最初の『呪い』をかけた人間が誰なのか分からないこと、そして、


「呪いを返してきたのは、狐憑き……

「え」


 話が早すぎた。僕は、その名前を、もう少し伏せておくつもりだったのに。

 大きな口でバクバクと自分の分の食事を平らげた菅原は、長身を屈めてキッチンに入り、食後のコーヒーを煎れている。このコーヒーの粉も純喫茶カズイのマスターからもらったものだ。良い匂いがする。


「な、なんで、その名前」

「日本全国津々浦々、獣憑きの一族は山ほどいます。明かしていないだけで。市岡はその中でも異端。自分たちが狐憑きであることを売りにして、を請け負っている一族です」

「仕事」


 テーブルの上にコーヒーカップが置かれ、代わりに空になった僕のシチュー皿とトーストを乗せていた丸い皿が回収される。添えられたミルクをコーヒーカップの中に注ぎ込みながら、菅原の顔をじっと見上げる。


「どんな仕事?」

「今の私や、坊ちゃんと同じような仕事ですよ」

「お祓い?」

「そうですね、原則的には」


 原則的。つまり例外もあるということ。


「その……市岡って一族は、今も存在してるんだよね?」

「もちろん。私は、ここ、坊ちゃんのもとに辿り着くまでのあいだに大勢の獣憑きと知り合いましたが、大抵の人間は自身が飼い慣らすべき獣に食い殺されて死にました。しかし市岡は違う。現在、令和にも生き残る数少ない獣憑きの一族です」

「彼らが呪い返しや、呪いを行う可能性は?」

「あるでしょう」


 あっさりだった。正面の椅子に長い足を組んで座った菅原はポニーテールを解き、いつになく険しい顔でコーヒーカップを睨んでいる。


「坊ちゃんや私が依頼を受けて動くのと同じように、市岡も誰かに頼まれることで初めて仕事に着手します。その『誰か』が『錆柄光臣から呪いをかけられた、返したい』と訴えれば彼らは──それを行う。プロですから」


 どう返事をして良いのか分からなかった。市岡、という一族の存在は理解できた。僕や菅原と同じような人たちだ。狐憑きについてはまだ良く分からない。いつか分かる日が来るのかもしれない。


 ただどうしても理解できないのが、光臣が呪いをかけた、という前提だ。光臣にはそんなことできない。あいつにはその能力はない。それなのに、なんで呪い返しを受けたんだ? しかも死んだのは光臣じゃなくて、あいつの娘だ。僕の従妹だ。どうして。何のために。


 クソややこしくなってきた。

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