ThreeAngles

第1話 ne vivam si abis.

 チン、と小気味良い金属音を響かせて熱されたそれは、甘い白濁をしていた。


 私は温まったそれを手に取って口をつけながら、彼女を起こさないようにベッドへ腰を下ろす。外はもうとっくに日が昇っている時間だったが、部屋の中は遮光カーテンに遮られて薄暗いままだった。私が腰掛けているベッドですやすやと寝息を立てている彼女はきっと、夢の中を蝶のように飛び回っていることだろう。その時間を惰眠と呼ぶにはおそらく彼女にとっては早すぎる時間なのかもしれなかった。

 机の上では一人の男が腕を枕にして浅い眠りについている。付けっぱなしのパソコンはとっくにスリープ状態に入っても良さそうなものだというのに、律儀に画面を映し出したままだった。もしかしたら私が目を覚ます直前まで彼は起きていたのかもしれない。画面には彼の書いた物語がつらつらと綴られている。

 そこには言葉で世界を壊そうとする少女と、言葉で少女を救おうとする少年が戦っていた。


 ──ありがとう、と彼女は言った。けれど彼女の言葉はどうしようもなく時代から取り残された言葉で、少年にはその意味を伝えることは叶わない。古の言葉は呪いとなって世界を滅ぼしてゆく。地は裂け風が吹き荒れ、目に見えない重圧は全方から彼を押しつぶす。たった一言の感謝の言葉ですら、それは暴力の顕現と共に傷付けるだけのものに変わり果てる。

 彼女は言葉を紡ぐのをこれで終わりにするつもりだった。世界にとって彼女はどうしようもないくらい異物で、異端で、そして害悪でしかなかった。彼女はひれ伏して動けない彼の元に歩いてゆく。その手を抱き上げて自分の頬に当て、そして涙を流す。言葉を発さない彼女は、どこにでもいるようなただの少女でしかなかった。

 彼は言う。君が悲しむ必要はないのだと。たとえ世界が君を赦さなくても、僕だけは君を赦す。

 何故、と彼女は目で問いかける。言葉を発さずともなおも重圧は彼を締め付け、そして苦悶の声をあげさせる。彼女は終わることのない謝罪をただ心の中で叫び続けるしかなかった。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……

 それでも彼は今にも事切れそうな声で言う。それが生涯最後の言葉になろうとしても、彼は決して命乞いの言葉を発することはなかった。ただ彼女だけを見つめ、彼女を許し慰める言葉を紡ぎ続けていた。

 少女の目から涙がこぼれ落ちた時、彼のその命は儚く崩れ去る。

 彼女の呪いは、その瞬間に消え去った──


 ……救われない物語を書くのは彼の本分ではない。彼の作品はそのほとんどがハッピーエンドで終わるのだ。

 だから彼はずっと昔からこの物語を書き直し続けている。私はそれがどうしようもなく愛おしく感じる。言葉は神だ、といつかの彼は言って、そしてその神に乞い願うことも出来ずに一つの恋が終わったあの日から、彼はそれを書き続けている。永遠に叶うことのない夢を追い続ける子どものような彼の寝顔をそっと指でなぞりながら、私は薄く微笑む。

 机の上には空になったビール缶が幾本か転がっていた。それは昨晩私が飲んでいたものだ。いや、厳密にはベッドで未だに寝言をつぶやいている彼女も幾らか飲んだ記憶がある。私たちはただの友達で、そして彼と彼女は恋人同士だった。普通に考えれば私は邪魔者なのだろう。けれど親友である彼女に一つだけ隠し事をしていた。彼女は親友としての私をここに迎え、彼は共犯者としての私をここに呼んだ。

 世界にはどこだって不条理にねじれた関係が存在するし、まさかそれが自分の身に降りかかってくるなどとはこの世の誰もが初めから想定することなんてない。いつだって人間は何事もない平穏に立ち返ることを心の何処かで望んでいるし、所詮スパイスとしてしかそれは望まれない。

 いずれこの関係は終わることになるのだろう。それは破局か隠蔽のどちらかに違いない。どちらにせよ優しすぎる彼には酷い結末となるのかもしれないし、私はどこかでそれを怯えもし、また待ち望んでもいる。未だ彼は眠り続けている。その夢に登場している彼女は果たして誰であるのかを考えたところで、彼の結末がどちらになるかなんてわかりようもないけれど、少なくとも彼が苦しむ顔を見るのはどこか好ましいように私には思えた。

 そっと、彼を起こさないように私は小説を少しだけ書き足す。彼が起きてからこれをどうするかは知らない。寝ぼけて書いたその一説を受け入れるのか削除するのか、いつか完成するであろうその小説を読まなければわからない。そんな些細な悪戯をして彼を困らせることは何よりも甘美だった。


 ベランダに出る。夏が終わりつつある朝の気温はいつもよりも寒く感じる。ひゅう、と風が私の髪を撫でていき、私はなんだかタバコを吸ってみたいと思う。ずっと昔に一度だけ吸ったことのあるそれを、とても自分には似合わないと思ったそれを、何故か今だけはどうしても必要なもののように思えた。

 ベッドの上で身じろぎするような衣擦れの音が背中から聞こえて、間延びした声で私に呼びかける。おはよう、はやいね。

 私は空を見上げたまま、泣きそうになるのをこらえるようにして、おはよう、と返した。



 世界で少年が永遠に失われた後、少女の言葉は世界に落ちていく。

 それは誰も殺さず、誰も傷付けない、しかし罪をその身に背負い込むための、一人の少女の嘆きだった。


 神様なんてどこにもいないのだと、彼女は言った。

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