背徳症状-純潔の花嫁-
アトナナクマ
第1話。楓奏の世界
「気持ち悪い……」
人通りの少ない路地裏に入り、私は胃の中身を地面に吐き出そうとした。だけど、既に胃の中は空っぽで吐き出せるものなんて何も無かった。
酷い吐き気と頭痛。私はまともに立っていることも出来ずに地べたに座り込み、顔を伏せていた。
じっとしていれば、頭の痛みは多少マシになる。
「なんだ、お前……」
顔を横に向けると近くで鳴く黒い猫がいた。普段なら野良猫の相手なんかしないけど、手の届く範囲にいたら気にもなる。
「こっちに来いよ」
手を伸ばした時。鈍い痛みを指先に感じた。
「ふざけんな!」
大きな声を出すと、猫は走って逃げて行った。
「うざ……」
もう、このまま眠ろうかと考えた。顔伏せ、夜の街に溶けていく。明日のことなんて、明日考えればいい。
眠気に身を任せて、意識を沈めようとする。
「あの……大丈夫?」
そんな時。
誰かに声をかけられた。
聞こえたのは若い女の声だった。でも、めんどくさくて顔を確認したりはしなかった。
「大丈夫だから、放っておいて」
手を小さく振って追い払おうとする。
別に誰かの救いを待っていたわけじゃない。私に関わろうとする人間なんて、ろくに下心も隠せない馬鹿な人間か、くだらない偽善者のどちらかだろうし。
「でも、血が……」
「血……」
自分の指を見ると、血が出ていた。
思ったより強く噛まれたのか。
「よかったら、使って」
差し出されたのは、白いハンカチだ。
「だから、大丈夫だって……」
顔を上げた時、そこに立っている人物と目が合った。綺麗な整った顔と長い髪。真っ白な服と合わさって、お姫様という言葉がよく似合うと思った。
「アンタ……何処かで会った?」
「さっき、会った。かな」
「ふーん……」
上着のポケットからタバコを取り出す。ライターを使って火をつけようとしても、ガスが切れているのか火がつかない。
「悪いけど、火持ってない?」
「持ってないよ」
「まあ、知ってたけど」
諦めて箱をポケットに戻す。ケータイで時間を確認しようとした時、自分の手に血がついてることに気づいた。
まだ彼女からハンカチは差し出されている。仕方なくハンカチを受け取って、手についた血を拭き取る。
「これ、あげる」
ハンカチの次に出されたのは水の入ったペットボトルだった。コンビニで買ってきたのか、水は袋から取り出されていた。
ずっと吐いていたせいか、喉の痛みもあった。それが少しでも解消されるならと、彼女の手からペットボトルを受け取ることにした。
「……何か混ぜた?」
キャップに触れた時に違和感があった。
「どういう意味?」
「いや、気にしなくていい」
キャップが軽く回ったのは、既に開けられていたからだ。いつもなら人から受け取った飲み物を口にはしないが、今はどうでもよかった。
「あ、ごめん。飲みかけが嫌だった?近くに自販機あったから、新しいの買ってくるよ」
「はぁ……」
彼女が何処か行く前に私はペットボトルに口をつけた。それを見たからなのか、彼女は少しだけ笑顔になっていた。
「ねぇ、アナタの名前はなんて言うの?」
「ミドリムシ」
「素敵な名前ね」
「バカにしてる?」
先に冗談を言ったのは自分の方だけど、上手く伝わっていないのか。
「私の名前は
「姫愛……」
珍しい名前だとは思った。だけど、それ以上の感想はなかった。初めて聞いた名前なのは間違いないけど。
「……
「ミドリムシ楓奏さん?」
「ミドリムシは忘れていい」
私は少し動いて、壁に寄りかかる。水を飲んだおかげか多少は頭の痛みもマシになった。
財布を取り出して、中身を確認する。さっき結構使ったせいであまり残っていないけど、姫愛に渡す分くらいはあった。
一呼吸をしてから、立ち上がった。
「もう夜も遅いし、これでタクシーでも呼びなよ」
お金を渡そうとすると、姫愛は押し戻してきた。
「駄目だよ。お金は大切にしないと」
「別に無駄遣いするわけじゃない」
「私に使うのは無駄遣いだと思うよ」
姫愛から感じる穏やかな雰囲気。ああ、きっと姫愛は金を持っている人間なんだ。今まで見てきた人間とは違う目をしている。幸せに満たされている瞳。
それを見ていると、潰したくなる。
「……とにかく、アタシの前から消えなよ」
溢れる感情が抑えられないわけじゃない。
冷静に姫愛を追い払うだけの理性は残っている。
「でも、楓奏はこれからどうするの?」
「アンタには関係ないでしょ」
少し脅すつもりで、姫愛の体を突き飛ばした。
これは演技じゃない。本来の自分としてあるべき姿だ。他人を受け入れる余裕なんて私にはなかった。
「怖い顔になったね」
「早く消えろ」
姫愛の態度が気に入らない。
「消えなかったらどうするの?」
言葉を返すように、姫愛の体を掴んで壁に押さえつけた。相手が女だろうと私には関係ない。
「なあ、お節介は自分の為にならないって理解しなよ」
痛めつけるように、手に力を入れる。
話し合いで解決出来ないのなら、暴力という選択肢もある。ただ、それは最後の手段で、まだ私は話し合いをしているつもりだ。
「楓奏……私は……」
先程の傷口が開いたのか、姫愛の服が赤く染る。真っ白な服が、穢れていく。その光景を目にした時、思わず手を離してしまった。
彼女が血が流したわけじゃない。なのに、私は嫌なことを思い出した。実際に目にしたわけじゃない妄想の光景がフラッシュバックするように浮かんでしまう。
「最悪な気分だ」
もう姫愛とは関わりたくないと感じた。
すぐに私は姫愛の前から立ち去ろうとする。
「待って」
私の行く手を両手を広げて遮る姫愛。
一度殴れば彼女も世の中というものを理解するだろう。私は呆れながら、拳を握ろうとした。しかし、思ったように力が入らなかった。
「あれ……」
突然、酷い眠気に襲われた。
視界がボヤけている。すぐに自分の体に何が起きたのか理解した。前に一度だけ、同じ経験をしたことがある。
「アンタ……やっぱり何か……」
あのペットボトルで一服盛られた。倒れそうになる体を姫愛に支えられる。抵抗しようにも、体が上手く動かせない。
それでも私は最後に姫愛を突き飛ばした。みっともなく地面に転がったが、姫愛の腕の中で眠るよりもマシだ。
「楓奏。ごめんなさい」
意識を失う前、最後に見た姫愛の顔は。
「なんだよ、その顔……」
とても、悲しそうだった。
漂う意識の中で懐かしい夢を見た。
「兄貴。遊んでよ」
「何して遊ぶんだ?」
私には年の離れた兄がいた。
「バイク乗せて」
「おう。いいぞ」
自由奔放な兄は両親から見放されていた。
毎晩遅くまで遊び回って、家に帰ってこない日もあった。それでも私にとって兄は大切な家族だった。
「兄貴。何やってんだよ」
だけど、私が大人になる前に兄は死んだ。
バイクで起こした事故。病院に駆けつけた時には既に兄は息を引き取っていた。別れの挨拶も出来なかったせいか、兄が亡くなった後も私にはずっと実感がなかった。
毎年、両親は兄の亡くなった日に花を用意する。
「くだらない」
そんな両親を見て、私はバカバカしく思った。
本当は馬鹿な息子が死んでくれて喜んでいるんだろうと。私は両親に期待することをやめてしまった。
そうしてるうちに私は人を信じなくなった。
学生時代に仲の良かった友達はいた。だけど、彼女と上手くやれていたのは、お互いに踏み込み過ぎないように線引きがちゃんと出来ていたから。
でも、私が彼女の手を掴まなかったから、彼女は私から離れて行ったのかもしれない。
他人に期待しないはずなのに。私の胸は苦しくなった。失うくらいなら、初めから手にしない方がよかった。
「アナタも──と同じ生き方を選ぶの?」
「うっさい。黙ってよ」
「親不孝者」
「黙れよ」
母親に酷いことを言ったことは覚えている。
それから一度も母親とは顔を合わせていない。
私みたいな人間は。
ひとりで死ぬべきだ。
でも、自殺なんて考えない。
ただ、自由に生きて自由に死ぬ。
そうすれば。
兄の考え方に辿り着けるかもしれない。
なんて。
本当は私も馬鹿な人間だったのかもしれない。
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