桜の嫁入り 〜大正あやかし溺愛奇譚

7、大切なことは二度言う

　青年は眉目秀麗であった。　

　年齢は二十代の前半くらい。

　清潔感を損ねない程度に着崩した和装の袖や首元から覗く肌が、男性の色香を感じさせる。

　紫水晶（アメシスト）のような色をした瞳が印象的で、まつげが長く、伏目がちにしたときに目元に落ちる影が色っぽい。

　夜空を溶かして流したような黒髪は、前髪が少し長くて、目にかかり気味だ。背中にばさりと広げたのは、漆黒の翼だった。

　――天狗皇族（てんぐこうぞく）、と呼ばれるあやかし族の特徴だ。

「天狗皇族だ……」

「天狗皇族の殿下だ……!?」

　畏（おそ）れるような驚きの声があがり、天狗皇族の青年の周りから人が離れていく。

　天狗皇族の青年は、そんな風に距離を置かれ、畏（おそ）れられることに慣れている様子だった。

「いかにも。俺は天狗皇族である」

　天狗皇族の青年の瞳には「自分が誰よりも高貴で、特別だ」という自負があった。

　自信過剰でもなんでもない。

　帝都の民にとって、天狗皇族の顔や名前はあまり身近ではない。お話を聞くこともなければ、直接お目にかかる機会もほとんどない、雲の上の存在なのだ。

「は――ははあ……っ」

　年配の帝都民が、地面に座り込んで頭を下げる。

　何人かの通行人があわてて真似するように頭を下げた。地面に手をついて、頭をつけている。

（お、お芝居みたい！）

　雨水家でもこんなにたくさんの人が一斉に平伏した風景は見たことがない！　桜子はぽかんとした。

　天狗皇族の青年はそれを見て、「いや、そこまで畏（かしこ）まらなくてもいいぞ。そういうのはちょっと古くないか」と意外にも気さくな声をかけている。

「あ、あなた様は春告宮（はるつげのみや）様……な、なんで……京也（きょうや）殿下がこんなとこに」

　羅道（らどう）が目を見開いて顔色を悪くする。

　春告宮とは皇子殿下の称号だ。桜子は耳を疑った。

（は、春告宮様っ……？）　

　この国を統べる最強のあやかし、天狗帝（てんぐてい）陛下。

　その皇子殿下が、御歳（おんとし）二十二歳の京也殿下だ。雨水家で生活するうちに仕入れた天狗皇族についての情報を思い出し、桜子は恐れ入った。

　数々の視線を当然のように受け止めて、京也は極上の笑みを浮かべた。桜子に近付く足取りには迷いがなくて、余裕を感じさせる。従者らしきあやかし族が、その後ろについている。

「うむ。俺は運命を追って参った。かわゆい意中の乙女に薔薇を贈り、心を射止めてやるぞと決意していたのだ」

「う……うんめい？」　

「すると、俺の運命――甘味処の店員さんが売られそうになっているではないか。これは格好良く助ける好機。まさに運命に違いない。結婚しようと思うが、きみはどう思うかね」

　従者から受け取って、京也は桜子に薔薇を差し出した。

　花びらが宝石の紅玉（ルビー）みたいに真っ赤で、華麗だ。

「っ？　なんですか？　けけ、けっこん……？　はい？」

　たくさんの人々に注目されている。

　まるで、打ち合わせなしで演劇の舞台にでも放り込まれたみたいな気分。

　そんな桜子に、京也は優しく微笑んだ。

　現実離れした、完璧な美。そんな言葉が思い浮かぶ極上の笑顔だった。

「よし、大切なことなので二度言う。きみは、かわゆい！　しかも、俺の運命の番（つがい）なのだ。結婚しよう！」

　二度言われても、なにがなんだかわからない。

　そっと周りをみると、他の人たちも「なぜ結婚？」という顔だ。よかった、この美しい京也の言うことがわからないのは私だけじゃなかった――桜子は安心した。

「待て、いや、待ってください。桜子は、僕の……」

「売るのだろう？　買うと言っている。発言には責任をもちたまえ、雨水羅道くん。僕の、なんだね？」

　羅道の側も京也の素性をひと目で見抜いていたが、京也の側も羅道を知っている様子だった。

「ぼ、ぼ、僕の」

「天狗皇族に『待て』と言うほどの執着の理由はなんだ？　まさか彼女に懸想（けそう）しているなどと言わないだろうね？　好きな娘をいじめたい性癖かね、きみは？」

「……っ」

　京也は口ごもる羅道に冷ややかな流し目を送って黙らせると、いつの間に作成したのかわからない書類を広げた。

「あっ、手、手が勝手に」

　羅道の利き手が不自然に持ちあがる。

　見えないなにかに操られるように動く手に、羅道は悲鳴をあげて抗おうとした。

　しかし、圧倒的な霊力の差があるのだろう。羅道の瞳は、自分の手が抵抗むなしく書類に同意のサインをしたためるのを見届け、敗北感と絶望に彩られた。

「契約書へのサインをありがとう、雨水羅道くん」　

　京也はにっこりとした。そして。

「では、いただく」

　と横抱きに桜子を軽々と抱き上げた。

　ふわり、と持ち上げられて、視点が高くなる。大人の男の香りが、鼻腔をくすぐる。

　桜子はその瞬間、幼少期に父親に抱っこしてもらったことを思い出した。

　桜子にも自分を愛してくれる父親はいて、幸せな時間はあったのだ。

　もう戻らない過去を思い出すと、鼻の奥がつんとした。

「……つらかっただろう」

　心配してくれる声がする。その声の主が出会ったばかりの天狗皇族なのだから、びっくりだ。

（これはいわゆる、お姫様抱っこでは……そ、それにしても、これは現実なの……？）

　桜子は夢でも見ているような気分であった。

　ふと、つい先ほどまで読んでいた本の内容を思い出す。

　あやかしの中には、人間を『運命の番』と呼び、伴侶として選んで溺愛する種族がいるという。そんな夢物語を描いたからこそ、あの本は爆発的な人気を得たわけだが――。

(まさかそんな。考え過ぎよ……)

　気象を操るほどの強力な霊力を誇り、復興後の新生日本の政治経済を掌握し、 あやかし族を率いる特別な存在、皇族である天狗皇族。

　そんな彼らが、どんな宝よりも大切で、誰にも触れさせたくない、という強い独占欲をあらわにし、深い愛情を一途に、ただひとりに捧げる。

　――その『ただひとり』が、もし自分だったら？

　……皇族に対してこんな妄想をしてしまうなんて恐れ多い、と桜子は目を伏せた。

　そんな桜子のふぞろいな髪と頬を見て、京也が声をかけてくる。

「その傷はあの妖狐が？」

　問われて桜子は恥ずかしくなった。

　自分は髪も乱れていて、顔に傷もある。美しい彼の目にみにくい姿が晒されていると思うと、今すぐに顔を手で覆ってどこかへと隠れてしまいたくなる。

　けれど、京也はふわりと微笑んで「大丈夫」と甘やかにささやいた。

「もみじ、彼女を癒し、守るように」

　形のいい唇が言葉をつむぐ。

　声に促されたように、ひゅるりとどこからか赤く色づいた葉がひとひら飛んでくる。もみじ、と呼ばれたとおり、紅葉だ。

　紅葉が桜子の周りを軽やかに舞ううちに、全身がじんわりとあたたかくなる。

「もう治った」

　と言われて触れてみれば、なんと傷は消えていた。髪も伸びている――人ならざる技だ。奇跡みたいだ。京也は真夏の陽射しよりも眩しい笑顔で桜子の髪を撫でてから、視線を羅道へと移動させた。

「婦女子の柔肌に、それも顔と髪を切りつけるなど、許されざる蛮行である」

　京也は紳士然とした柔らかな声で言い、羅道に視線を向けた。声を裏腹に、眼差しは心胆を寒からしめる絶対零度の凄みがある。

「っ……！？　ひ、ひぃっ……」

「なにより、この女は俺の嫁だ」

　言い放つ声は、地の底から響くかのように低く、怒りを伝えていた。爆（は）ぜる直前の火の粉のような危うさを孕む京也の声に、ぴり、と周囲一帯の空気が紫電を孕らんだ気がした瞬間。

「妖狐には天罰が下るであろう。俺が下すのだ」

　京也の口元に凄ごみのある冷笑が浮かんだと同時に、羅道の全身が大きく跳ね、硬直した。