第16話 君はこの時もう何か知っていたのかな
「僕は森野さんがいなかったらこんなに楽しい日々はなかったと思うなぁ。」
半袖で歩いていると肌寒さを感じるようになったある日の帰り道、山石君が突然真剣な口調で切り出した。彼は今、タイトル戦の真っ最中でもう少しで本戦に出れそうというところまで勝ち残っているらしかった。
「どうしたの突然?別に私じゃなくても楽しかったんじゃない?」
「いや、それはないよ。高校デビューしようとした時も、友達を作る時も、囲碁をもう一度始める時も、いつも森野さんが背中を押してくれたから僕でも動けた気がするんだよ。人生の大事な時にはいつも森野さんから勇気をもらったよ。だから今、囲碁でも勝ち進めて学校も楽しくて……本当に森野さんに会えて良かった。」
「本当にどうしたの?転校でもするの?嫌だよ、山石君がいなくなるの。」
「別にそういうわけじゃないけど……日頃から感謝の言葉は言っとかないとね。」
「それならいいんだけど。それで言ったら、私も山石君に出会えたおかげでピアノを始める勇気をもらえたよ、ありがとう。」
「そっかぁ。僕からも少しは森野さんにお返しできてるかな?」
「少しどころじゃないよ!山石君がいなきゃ今でもきっとピアノを弾けないままだったろうし。文化祭で伴奏するなんて絶対ありえないからね!でも、文化祭もすっごい楽しかったから、本当に感謝してる。まぁ、結構強引だったから当時は少し恨んでたけどね。」
少し茶化して笑いながら山石君を見てみると、ごめんと小さく笑った後に真面目な顔をして真っ直ぐ前を見ていた。その神妙な面持ちになんだか胸騒ぎがして、何でもいいから話さないといけない気がした。
「そうだ!今週の土曜日さ、一緒に買い物しない?コンクールで着る衣装を選びたいんだ。」
「……うん、いいね。じゃあ土曜日に街まで出てみようか。」
「決まり!また時間とかは連絡するからね……あっ、大将!」
森の近道の方からのっそりと出てきて何食わぬ顔で前を横切ったのは、山石君は勝手に部長と呼ぶ猫の大将だ。大将も私が勝手につけた名前だけど。大将はのそのそと歩いていくと、一軒の家の玄関から入っていき主人と思わしきお婆さんにすり寄ってゴロゴロと喉を鳴らした。
「どこいってたんだい、ミャーコや。ご飯の時になると帰ってきて分かりやすい子だよ。」
お婆さんに抱えられて家の中に入っていく猫は大将でも部長でもなくミャーコだった。
「……見た?」
「……見た。」
「……聞いた?」
「……聞いた。」
「ミャーコって言ったね。」
「言った。部長じゃなかった……」
「大将でもなかったね……ミャーコって……めっちゃ猫!見た目に似合わずめっちゃ普通の猫の名前じゃん!」
予想外すぎる名前に込み上げる笑いを我慢できなかった。
「いやいや、あの顔にミャーコは名付けないでしょ!あの体に伸ばし棒要素はないでしょ!」
「ふふっ、たしかにミャーコっぽくない顔にミャーコっぽくない体してるよね。」
「名は体を表すと言うけど、こんなに名と体が合ってないのも珍しい。」
2人でミャーコのらしくなさを言い合って、しばらく笑いが止まらなかった。さっきまで神妙な面持ちだった山石君もいつもの笑顔に戻っている。
「あー面白かった……じゃあ、私はここで。」
「じゃあまた。」
「土曜日、楽しみにしてるからね。」
「うん。」
山石君と別れて1人になっても笑みがこぼれてしまう。さっきの思い出し笑いなのか、土曜日が楽しみなのかどっちか分からない。なら、どっちもということだな。高揚する気分を表すように軽い足取りで時々スキップを刻みながら、コンクールの課題曲を鼻歌で歌いながら家に帰った。
山石君が倒れたと聞いたのは、その次の日だった。
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