神様はそこにいる。

水瀬蛍

第1話 夢

 それは、もう十年以上前のこと。

 とある村で、神様と出会った時のこと。


 田舎に住む祖父母にこっちに遊びに来ないかと言われたのは十年以上前の夏の事だった。祖父母の家はかなり田舎で駅まで車で一時間以上かかり、最寄りのバスは一日に一本しか通っていない。しかも村が山に囲まれていたせいか電波も通じない。

 そんな村に行く時、父親はかなり渋っていたが、母親は乗り気だった。当時父親が仕事を辞めたせいで家にまとまった金が入らなくなったので、祖父母に金の無心をしようとしていたのだと思う。母親の説得に父親は渋々了承し、家族三人で祖父母の家に向かった。

 意気揚々と向かったのは良いが、両親は祖父母の家が近づくと顔色を変え、家に到着する頃には早く帰りたいと頻りに言っていた。とくに都会育ちの母親は山しかない田舎の景色が相当堪えたらしく、祖父母と顔を会わせても憂鬱なのを隠しもしなかった。嫌煙家の父親の前でわざとらしく煙草を吸い、文句を吐き捨てていたが、父親が舌を打つだけで何も言わない。父親もここへ来たことを後悔しているのはありありと分かった。

 母親が嫌がったのは何も田舎だからだけではない。その村には少々可笑しな所があった。

 まず、村を囲う様にロープが張られている。村に入るのはそのロープを潜るか跨ぐしかない。

 そして、村には妙な約束事があった。

 祖父母はやって来た息子夫婦に、これだけは守れと言い聞かせた。

 それは、誰かが訪ねてきても決して招き入れてはいけないというものだ。

 誰かが訪ねてきたらどうするのか、と母親が問うと祖母はこの村に住んでいる人間は誰も訪ねて来ないと言い張り、幼少期を村で過ごした父親も同じように母親に言い聞かせていた。

 俺達家族はその奇妙な風習がある村で三日間過ごすことになった。

 一日目は何事もなく終わった。何事もなく、というより何もすることがなく、である。それも村には娯楽が何もなく、村を囲う山を眺めるくらいしかやることがなかった。

 翌日、母親は祖母の後をついて回りせかせかと働いていた。昨日一日山を見てだらけていたのに一体どうしたのかと祖母が問うと母親は顔を青くさせて言った。

「山の中で何かと目があった気がするの」

 ずっと山を見ていると気がおかしくなりそうだから見ないようにと働いているらしい。

 一方、父親は母親とは反対に寝て過ごした。昨日もそうだったが山を見ることも仕事を手伝うこともない。ただ時間が過ぎるのを待っているようだった。

 両親がその調子なので、俺は一人で遊んでいた。初日は家の仲を探索していたのだが、祖父母の家は古く時々家鳴りがするので怖くなり早々に探索を止めて外へ出た。祖父母に山で遊ぶのは禁止されたので最初は家の前で遊んでいた。

 しかしすぐに飽きてしまう。庭先に絵を書いても楽しくない。庭先で出来ることは限られている。俺はすぐに移動した。

 庭を出て、近隣住民の家の前まで行く。中から生活音がするので誰かいるのだろう。生け垣から中を覗いているとちょうど扉が開いた。

 中から出てきたのは、痩せぎすな老婆だった。

 家を無遠慮に覗いていたので今だったら頭を下げてそそくさと退散するが、この時はまだ幼かったので申し訳なさや気まずさなどなかった。だから目が合った老婆にも笑顔を見せた。

「こんにちは」

 大きな声で挨拶をすると、老婆の目がぎょっと見開かれた。あわあわと口を戦慄かせたと思ったら全身に震えが伝わり、何やら言葉にならない音を口から吐き出し始めた。

「………………」

 何かぼそぼそと言っているが、聞き取れない。尋常じゃない様子に気分でも悪いのかと、駆け寄ろうとした時。

「入るな!」

 突然弾かれたように老婆か動きだし、怒鳴り付けた。目を大きく見開き、俺をじっと見つめる。その目はまるで悍ましいものを見るような目で、嫌悪感と恐怖が滲んでいた。

 恐怖を感じた俺はその場から走って逃げた。頭の中に本で読んだ山姥の姿が浮かぶ。老婆が後ろから大きな包丁を振り上げ追いかけてくる想像が浮かんで泣きそうになりながら走った。

 息がきれるぐらい走り、足を止め、恐る恐る振り返るとそこに老婆の姿はなかった。

 老婆の驚異から逃れたことにほっと安堵の息を吐いた。

 落ち着いて周りを見ると、人気が無いことに気が付く。無我夢中で走っていて気付か無かったが、いつの間にか村の入り口にたどり着いていたらしい。

 目の前にはロープが張られている。そのロープは俺の額の位置にあり楽々通り抜けられるものだ。大人は簡単に跨いで通れてしまう。一体何故こんなものを張っているのだろうか。疑問に思い、そろそろとロープに近づき触れようとした。

 その時、ロープの先に誰かの影があることに気づいた。

 はっとして手を戻し、顔を上げそれを目にした瞬間、思わずわっと声を上げた。

 ロープの向こうに立っていたそれは驚くほど美しかった。最早人間かと疑うような完璧な造形をしている。あまりの美しさに顔を近づけると、それの口がゆっくりと動いた。

「こんにちは」

 低くもなく、高くもない不思議な声だ。男のものにも聞こえたし、女のものにも思えた。心地のよい声が鼓膜を震わせ脳みそを直接刺激する。ずっと聞いていると頭がぼうっとしてくる。そんな声に酔いしれ、しばしば呆然とした。

「こんにちは」

 答えない俺にどう思ったのかそれはもう一度声を発した。その声に我に返りその場から飛び退き、頬を赤く染めなから何とか口を開く。

「こ、こんにちは」

 みっともなく声を震わせたが、目の前の美しいそれ柔らかく微笑むだけで馬鹿にした様子は見せない。

「ここの子?」

「は、あ、はい」

 ここの子じゃない。ただ遊びに来ただけに過ぎないのに動転して頷いてしまった。

 慌てて訂正しようと口を開くと、いつの間にか美しい顔らしきものが目の前にあった。目の前のそれがずいと前のめりに顔を寄せてきたので思わず口を閉ざす。

「入っても良い?」

 囁くように聞かれ、何も考えられないまま思わず頷いた。

「うん」

 喉が酷く乾いていた。

「ありがとう」

 その瞬間、ぐわりと世界が歪んだ気がした。ふらりと倒れそうになった俺の背を支えてくれた。

 ロープの外で立っていたはずのそれが、内側に入ってきていた。

「大丈夫? 体調が悪いの?」

 心配そうに覗き込んでくる顔に首を振る。反射的に否定したが、実際歪んだ感覚もなくなっている。

「これ、どうしたの?」

 息子の細い腕を見つめてそれが言った。はっとして腕を隠す。

「なんでもないの」

 俺の腕には赤や青や黒の痣や火傷の痕が至るところにあった。腕だけではなく、体にも痣がある。一目に触れる顔以外の箇所に酷い傷が残っていた。

 それが指摘したのは上に大きく残った青痣だった。父親に踏まれた痕だ。酒癖が酷く、気性が荒い父親は日頃から八つ当たりで俺を殴ったり蹴ったりした。

 俺は咄嗟に傷を隠そうとした。いつも傷は隠せと言われているから反射的に手を背後に回す。

 それは息子に優しく笑いかけ、頭を撫でながら聞いた。

「お父さん好き?」

 俺は何も言えずに俯く。

「誰にも言わないよ。約束する」

 そう言われ恐る恐る首を振った。

「君は全然悪くないのに酷いことをするもんね。嫌いだよね」

 それは俺の手をとると、宥めるように傷跡を撫でていく。細く長い指のようなものは女のものにも見えるし、骨の浮きようは男のようにも見える。その一方でとても人間には見えないとも思った。

「傷跡がもうできないようになってほしい?」

 俺は驚いて顔を上げた。実は当時は毎日寝る前にもう酷いことをされたくないと願っていた。

 それは俺の心の内を見透かしたように欲しい言葉をくれる。

「入れてくれたお礼に願いを叶えてあげる」

 その言葉で俺は理解した。目の前のそれはきっと神様に違いない。あまりに美しいのも神様だと思えば納得できる。

「神様」

 俺の口は自然とそれを呼んでいた。

「神様かぁ」

 美しくそれが笑う。

「もう酷いことされなくなる?」

 俺が問いかけると、神だと称されたそれは楽しげに嗤った。

「勿論。もう二度とね」

 俺はロープの前で神様と話をした。他愛もない話だったが普段家の中で窮屈に生きていたので、あまりの楽しさに口が止まらなかった。

 神様との会話は俺がこれまで生きていた中で一番楽しい時間だった。神様も会話を楽しんでくれているように見えた。

 しかし、終わりはやってくる。日が陰ってくると山の上にある村は一気に気温が下がる。その日は特に寒く、夏だというのに体が震えた。

「日が沈むから、もう帰りなさい」

 まだ神様と一緒にいたかったが、日が沈む前に帰らないと父親に何を言われるかわからない。神様はもう二度と酷いことは起きないと言ってくれたが、半信半疑だった。

「また会える?」

 俺のすがるような視線に神様は微笑み答えた。

「勿論。すぐにね」

 その夜、奇妙な事が起こる。

 夕食を食べている最中、扉をノックする音が聞こえてきたのだ。

 いち早く音に気が付いたのは祖母だった。いつもは大きな声で耳元で喋りかけないと反応しないのに、ノック音が聞こえてきた瞬間、目をぎょっと見開き勢いよく扉の方を見た。

「ごめんください」

 声が聞こえてきた。男の声だ。

 扉の向こうから聞こえてきた声に祖母は持っていた箸を落とした。

 母親が扉を開けに行こうと腰を浮かすと、すぐに祖母から鋭い声がかった。

「開けるな。絶対に開けては駄目だ。招き入れてはいけない」

 ただならない様子に俺は祖母から一番最初に言われた約束を思い出した。

 誰か訪ねてきても入れてはいけない。

「急用かもしれないじゃないですか」と母親が尚も立ち上がろうとすると今度は隣に座っていた父親か声を上げた。

「駄目だ。絶対に駄目だ」

 そう言う父親の顔は真っ白になっている。

 その横で祖父は箸を持ったまま硬直していた。

「入れてくれませんか?」

 扉の外で誰かが言った。

 外から声が聞こえる度に緊張感が増していく。俺も張り詰めた空気を幼いながらに感じとり、とうとう箸を置いてじっと扉の方を見つめた。

 ごめんください。

 外からノックの音と声がする。

「誰が、誰が入れたんだ……」

 じっと黙り込んでいた祖父が箸を震わせなから呟いた。

 こんこんこん。

 ごめんください。

「わからん。四ッ谷の倅が帰ってきているらしいからな。他のとこも他所の人間が来ているかもしれん。村の連中じゃないのは確かだ」

 祖母が固い口調で言った。優しくお菓子をくれる祖母の面影はない。

 こんこんこん。

 すみません、入れてください。

「誰でも良い。はやく君島さんを呼ぶんだ」

 祖父母が慌ただしく動いている横で、父親は顔を押さえ、母親は何が何だか分からないと言った様子で祖父母を見ている。

 祖母が誰かに電話をかけ始めた。

 まだ外から声が聞こえている。

「君島さん? あのね」

 こん。

 祖母の声を書き消すように、扉の向こうから声がした。

「―――」

 それは、俺の名前を呼ぶ神様の声だった。

 さっきまでは聞いたことのない男の声だったのに突然神様の声がしたことに驚いた。知らない男と神様が一緒に並んでいる様子が頭に浮かぶ。何だか違和感があるが、もしかしたら早速会いに来てくれたのかもしれないと思うと違和感なんて気にならなかった。

 俺は神様に答えようと口を開きかけた。

 しかし声は出せなかった。

 俺の口を祖父が塞いでいた。驚いて見上げた祖父の顔は相変わらず青いが、力強い視線を扉を見ている。眼力に反して祖父のしわくちゃの手は震え、緊張が伝わって来た。

 声を発してはいけないようだと分かったが、扉の向こうにいるのはあの優しく美しい神様だ。何故迎え入れてはいけないのか分からなかった。

 神様の声がする度に応えたい衝動に駆られるが、祖父の手がそれを許さない。

「ここから出した方がいい。君島さんが来てくれるから、早く準備しなさい」

 電話を終えた祖母が戻って来るとそんなことを言った。俺も母親もその意味が分からなかったが、祖父と父親は訳知り顔で頷くと俊敏に動きまわり始めた。祖母が息子一家の荷物を用意し、祖父は部屋の奥から妙な匂いのする布を持ってきて俺に被せた。

「家に帰るまで、これはとっちゃいかん。いいな? 約束守れるか?」

「うん……爺ちゃん、あの、扉の向こうの人は……」

「あれは良くないものだから。ここに入ってくる前にお前達は村を出なさい。君島さんが逃がしてくれるからな。それに山神様も守ってくれるはずだから安心しなさい」

 ヤマガミとは一体何なのか分からなかったが、聞ける雰囲気ではない。

 俺は布越しで表情が見えなかったが、祖父も祖母も緊張で顔が強張っていた。

 君島さんというのが誰なのか分からないが、自分達の味方だと言いうことは理解できた。しかし祖父のいう良くない者が何なのか分からなかった。扉の向こうにいる神様の事を言っているのだろうか。しかし神様に悪いところなんてない。では神様と一緒にいる男はどうだろう。もしかしたら神様はその男に酷いことをされてしまうのではないだろうか、と嫌な予感が浮かぶ。

 しかし、言葉を発する前に父親の舌打ちが聞こえてきて、思わず口を閉じた。

「何してくれてんだよ」

 ぼそりと呟かれた言葉は、俺に向けられていた。見えないけれど気配でわかるのだ。俺は両手を握りしめて俯いた。

 父親が俺を見下ろしながら小さな声で暴言を吐き出した。お前のせいで、お前なんかが。そんな言葉が祖父母に聞こえないように延々と繰り返された。

 言葉は別にいい。何を言われても痛みを感じないから。ただ怒りが暴力となって襲って来ないことを祈りながら時間が立つのを待った。酒が入っていなかったからか、拳が飛んでくることはなかった。

 それから十分後、車の音が聞えて来た。だんだんと近づいてきたと思ったら家の前で止まる。ちらりと布の隙間から扉の方を見えると車のライトが玄関扉を照らしていた。玄関前に立っている人影が浮かび上がった。可笑しなことに影は一つだけだ。最初に声をかけて来た人物は帰ったのだろうかと不思議に思っていると、直ぐにかちっと音を立ててライトが消え、辺りが暗闇に包まれた。

「君島さんだ。準備しなさい」

 バタンと扉が閉まる音と誰かの足音が聞こえて来た。足音は扉の前で動きまわり、がさごそと何かが動く音がする。その間中ずっと扉の向こうから俺を呼ぶ神様の声が聞こえてきている。

「君島の使いの者です。用意が出来ましたので出て来てください」

 扉の向こうから平坦な男の声が聞こえて来た。予想よりもずっと若い声だ。

 男の声に体が勝手に動き、気が付いたら立ち上がっていた。父親に腕を掴まれ、引きずられるように扉の方へ歩いて行くと神様の声が近くなった。

「おばあちゃん達はここから出られないから、三人だけで帰りなさい。いいね」

 こんこん。ノックの音が響く。

「大丈夫だからな」

 祖父の熱い手が俺の手を握る。

 ごめんください、と扉を叩く音がする。

「ほら、行きなさい」

 布の隙間から見えた祖父母の顔は凡そ大丈夫とは言い難い顔をしていた。顔面は蒼白で今にも倒れてしまいそうだ。本当に大丈夫なのかと問いかけようとしたが、布を引き下げられて言葉が止まる。

 入れてくださいという声が聞こえて来たと同時に父親が扉を開いた。

 父親に腕を引っ張られ、ばたんと扉の開く音がしたと思ったら放り投げられた。体が柔らかいクッションに沈む。車の後部座席に押し込められたのだと理解するよりも早く体をぐいぐい押されて反対の扉にぶつかる。慌てて体を起こすと父親が隣に乗り込んできた。

 体制を立て直そうとするが、被っている布が大きく、ふんづけてしまっているようで上手くいかない。四苦八苦していると、助手席の扉が開く音がした。

「入っても良い?」

 母親の声が不安げに揺れている。

「いいから、さっさと入れ」

 父親が苛立ったように吐き捨てると、空気がふっと変わった。

 助手席に乗り込んだ母親が言った。

「ねえ……あなた、それ私の声じゃない……」

 その瞬間、全ての音が消えた。その場にいる生き物が全て死んでしまったかの様な静寂とは裏腹に異様な緊張感が車内を締めた。

 沈黙は一瞬だった。

「扉を閉めて!」

 運転手席に座っている君島の使いだと言う男が怒鳴りつけるように言った。

 母親が扉を勢いよく閉め「早く出して」と声を上げる。事情など理解していないのに、異常事態だということだけは認識できていたらしい。ぐちゃぐちゃになってしまった布の隙間から母親の泣きそうな顔が見えた。

 母親が車を出せと怒鳴るのに車は発進しようとしない。それ以前にエンジンがかかっていない。

「やられましたね。エンジンがかかりません」

 その時初めて運転席に座る男の顔を見た。二十代だろう。目鼻立ちのはっきりした端正な顔立ちをしているのだが、顔がいかつくて少し怖い。言葉とは裏腹に男の顔には焦りは感じられなかった。変な体制で座る俺にそっと視線を向けたが、目を合わせることなく父親の方へと視線を移動させた。

「扉、閉まりませんか」

 男の視線を追って父親が座る側の扉を見ると、微かに開いているのが見て取れた。父親はそれを必死で閉めようとしていた。

「う、うううう」

 父親の口から呻き声が漏れる。

 どうしたのかと父親の手元を見ると、扉の隙間から黒っぽい何かが車の中に入り込もうとしているのが見えた。

 入ってくる力は強く、どんどん中に黒いものが侵入し、父親の手に纏わりつく。すると父親は悲鳴を上げ、ばたばたと足を動かし助手席を蹴りつけ始めた。

「うううああああああ」

 ぶちぶちと何かを破くような音がする。咀嚼音にも似たその音は完全に黒い何かで覆われた父親の手から鳴っている。

「早く、出してよ!」

 母親は半狂乱になりながら叫ぶが、運転席の男はじっと父親の様子を見ながら首を振った。

「エンジンがかからないので無理です。それに、旦那さんはあれを招き入れてしまった。正直打つ手はありません」

「な、なんとかしてよ、貴方、霊媒師とかそういうのなんでしょ」

「無理です。あれは僕が祓えるようなものではない。下手なことをすれば全員死にます」

 運転席の男は冷静さを欠くこともなくそう言うと、徐に視線を俺の方へに移し、呆然としている俺の手を取った。

「これを」

 男が取りだしたのはミサンガだった。普通の簡易的なミサンガではなく、独特の編み方をしている黒いミサンガだ。運転手はそれを俺の左手に巻き付けた。その時、隣の攻防に決着がついた。

 扉を閉めようと踏ん張っていた父親だったが、体力の限界がやって来た。扉を抑える力が緩んだ途端車の扉が大きく開いた。

 扉の向こうに何かがいた。それを認識する前に運転手の男に布を直され、視界が塞がれたので、何だったのかは分からない。俺の耳にぐちゃりと粘膜質な音と父親のものらしき悲鳴が届いた。調律の狂った弦楽器の様な甲高い悲鳴が耳を刺し思わず耳を塞ぐ。

 微かにエンジン音が聞こえて来たと思ったら、車が動き出した。

 耳から手を放すと、車内は無音だった。誰も何も言わない。何が起きたのか理解できていないのか、あまりの事態に言葉を無くしているのか分からないが、誰も口を開こうとしない。

 俺が布の隙間から隣を見ると、そこに父親の姿はなかった。父親のいなくなった座席は赤黒く変色し、血の匂いが車内に充満している。

 不意に俺を呼ぶ声が聞えた気がした。父親の声じゃない。これは――神様の声だ。

 その声が聞こえて来た方を見ようと腰を浮かし外を見ようとした。

「見るな」

 運転席の男がそれを鋭い声が止めた。

「布を被って、きちんと座っていなさい」

「でも……」

「私は君島さんに貴方の事を頼まれてここにいます。私は貴方を守る義務がある。貴方があれと接触して無事で済む保証がどこにもないので。どうか勝手なことをしないでください」

 座って、と再度強く言われて腰を下した。

 遠くから俺を呼ぶ神様の声がしている。どこへ行くのと追い縋るような声に外に視線を向けそうになるが、その度に運転手の男が止めた。

 ぎゅっと手を太ももの上で握り、じっと俯いていると、背後からばんばんばんと車を叩く様な音がした。それと同時に俺を呼ぶ声が近くから聞こえて来た。神様が車に追いつき名前を呼びながら車を叩いているのだと気が付き、今度こそ顔を上げかけた。

 しかし、顔を上げようとした途端、車がスピードを上げた。

 一瞬、何も聞こえなくなったと思ったら、空気が変わった。

「村を出ました。あれが内側から出られないように細工したので追って来れません」

 俺は思わず体を起こし、運転手の静止を無視して背後を振り返った。暗くてよく見えないがロープが無くなっているのが分かる。そして、暗闇に何かが佇んでいるのが見えた。

「神様……」

 息子の小さな呟きは、誰の耳にも入らなかった。

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