ep2 あの頃は、篠原くんが怖かったから①

 今はこうして毎日勉強を見てくれているけど、一度だけ、篠原くんが来なくなった時期がある。それは、わたしが篠原くんと対面する前のこと。

 毎日しつこく家に来る篠原くんに耐えかねて、つい発してしまった一言がきっかけだった。


「迷惑なので、もう来ないでくれませんか」


 今思えば、篠原くんになんて失礼なことを言ってしまったのだろうとは思う。だけどその時のわたしは、知り合いでもない男子に家まで押し掛けられて、頼んでもいないのに一方的に話しかけられて、思ってもいないのに力になりたいだなんて言われて、篠原くんが何を考えているのかわからなくてすごく怖かったのだ。



 勇気を出して言った言葉に、篠原くんは口をつぐんだ。少し沈黙があった後、静かに言った。


「ごめん、余計だったよね。……今日はこれで帰るよ。また来るね、津田さん」


 そう言って、篠原くんはすぐに帰って行った。そしてその日から、篠原くんは来なくなったのだ。


 毎日押し掛けられてストレスになっていたから、ようやく解放されたのだと思った。これでもう、篠原くんは二度と来ない。わたしは心からほっとした。


 しかし、その3週間後。わたしははじめて篠原くんと対面することになるのだが。あの時のことは、わたしにとってはあまりにも衝撃的な出来事で、きっとこの先、篠原くんとの出会いを忘れることは一生ないのだろうと思っている。





 その日は、お昼を過ぎると大雨が降った。朝はあんなに晴れていたのに、予報になかった土砂降りだった。


 部屋の中で過ごす雨の日は嫌いじゃない。マンガを読むのも捗るし、雨の音って安心するし。

 ぼんやり窓の外を眺めて、外で立往生をしている人たちのことを想いながら、ひと時の優越感にひたる。こんなに降られちゃって、外にいる人たちはさぞかし大変だろう。


 よかった、ひきこもってて。


 今日は土曜日。両親は仕事で家にいないし、お姉ちゃんも外出している。今日一日、家にいるのはわたしだけ。何時間でもアニメを見続けたり、ゲームをしたっていい。マンガをリビングに持ち運んでお菓子やジュースを飲みながら、ソファでゴロゴロしたっていいのだ。


 お留守番、最高。自由、最高!


 さっそく、テレビに繋いだゲームを起動させた。――その時。


 ピーンポーン。

 突然、玄関のチャイムが鳴った。


「なんなの。こんなときに」


 せっかくこれから遊ぼうって思ってたのに。宅配便かな。めんどくさいから居留守つかっちゃおうかな。でも、後でお母さんに文句言われるのは嫌だなぁ。


「今いいとこなのに……」


 ぶつぶつ文句をたれながら、インターホンのモニターを見る。画面に映ったものに、わたしは目を見張った。


「……だ、だれ……?」


 英至えいじ中の制服を着た……男の子。ぜんぜん知らない子だ。っていうか、何で制服? 今日は学校お休みだし、そもそも、わたしに男子の知り合いなんていない。……いや、まさか……。だって、3週間も来なかったのに、何で今更。


 ピーンポーン。


 再びチャイムが鳴って、恐怖でびくりと肩が震えた。


 頭の中はパニックだ。篠原くんの考えてることがわからない。

 怖いから、無視する? でも、向こうは、ひきこもりのわたしが家にいることを分かっていて来たはず。……無視して逆恨みされたりしない? いじめは何がきっかけになるか分からないし、これで嫌がらせされるようなことがあったら……?


 わたしは恐る恐る、もう一度インターホンのモニター画面を覗いた。あらためて画面を見てみると、篠原くんの制服がぐっしょり濡れているのがわかる。来る途中で雨に振られたのだ。こんなどしゃ降りの中、わざわざうちに来なくても……。

 今日は気温も低めだし、雨はしばらく止みそうもない。このままでは、風邪をひいてしまうかもしれない。それだけは、多少良心が痛む。

 散々悩んだ挙句、わたしは玄関のドアを数センチほど開けて、余っていたコンビニのビニール傘を差し出した。

 これあげるから帰ってください。


「……」


 開いたドアから突然手が伸びて驚いたのだろう。外で息を飲む僅かな音が聞こえた。


「……もしかして、津田さん……?」


 そうですけど、人違いです。帰ってください。


 わたしはさらにビニール傘を持った手を突き出した。


 傘を受け取ったらすぐに手を引っ込めるつもりだった。まさか、手首ごと掴まれるなんて思ってもいなかったし、そのまますごい強さで引っ張られるなんて予想外だった。

 身体が前のめりに倒れる。転んでしまうと思って、びっくりして目をつむった――。


 ……あれ、痛く、ない。


 頬から伝わる、クッションよりもかたくて石よりも柔らかい不思議な固さと、しっとりぬれている布の感触。衣服の上からでも感じ取れる人間の体温。

 上から水滴が落ちてきて、わたしのおでこを伝った。恐る恐る顔を上げると、ぎょっとするほどきれいな顔が目の前にあった。


「こんにちは。やっと会えたね、津田さん」


 にっこりと微笑んだ美少年の顔を見て、わたしの頭の中が真っ白になった。





 ナニコレ、一体これ、なんていう状況……?


 篠原くんの方を見られずに、かちこちに緊張したままソファーに座る。篠原くんは、新しくジャージに着替えてタオルで頭を拭いていた。


 ナ……ナンデ、こんなことになったんだろう。今日は留守番しながら、楽しく自由に過ごす予定だったのに……。


 水が滴ってくったり張りついた前髪、すこしだけ湿っている白い素肌、ジャージからのぞくつややかな胸元。赤みのあるくちびるはしっとり濡れていて、あまりの美しさに目が焼かれそうだ。

 雨に濡れた篠原くんは、たった中学生にしてはすでに危険な色気を放っていた。異性に耐性のない陰キャ腐女子の許容量をはるかに超えている。


「ジャージ貸してくれてありがとう。ごめんね、気をつかわせてしまって」


「イッ、イエ……ゼンゼン」


 ジャージはお父さんの部屋から拝借したものだ。ダイエットのため運動しようと数年前に新しく買ったものだけど、ビニール包装が剥がされることはなく、新品のままクローゼットの奥にしまわれていた物だった。


「制服だけど、帰るまでお風呂場で乾かしていて良い?」


「ドッ、ドウゾッ……」


 まともに篠原くんのほうを見られない。男子が近いというだけでも無理なのに、美少年が隣に座っているなんて心臓が壊れそう。息も出来ない。今すぐここから逃げ出したい!


「アッ、アッ、アノ、の、飲み物用意してきます!」


「うん。ありがとう」


 いきおいよく立ち上がって、逃げるようにしてキッチンに向かった。冷蔵庫の中に麦茶がある。二人分のコップを用意して、麦茶を注いだ。


「俺も何か手伝おうか?」


「イエイエイエイエッ! ダッ、だいじょうぶです!」


 気づいたら背後を取られて、おぼんを持つ手が震えた。コップの中のお茶が大きくゆれる。危なげしかない不安定な状態で、色んな意味でひやひやしながら、ソファの前のテーブルまで運んだ。


「聞きたい事があるんだけど、聞いてもいいかな?」


「ヒッ、ハッ、はい!」


 しっとりとぬれている髪に柔らかな笑みをうかべて、篠原くんがわたしのひとみの中を覗き込んだ。


 わぁ篠原くん、黒目がおっきい……じゃない! 質問があるのはこっちもだ! なんで今になって来たんですか?! ここに来るのが嫌になったんじゃなかったんですか?! って言うか、さっき手首ひっぱったのわざとですよね。危ないじゃないですか!!


 言いたいことはいろいろあるけど、今のわたしに、篠原くんへ質問をする余裕は無い。混乱していて考えもまとまらないし、言葉も出てこない。心臓が口から出そう。胸も苦しいし、わたし、本当に今すぐ死ぬかもしれない!!

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