四章 暗闇に差し伸べられた手
来客の気配
数日後──屋敷の中が慌ただしいことで、
(きっと外国のお客様だわ……)
仕入れる食材に、魚ではなく肉が多いこと。それに、料理人が洋菓子の練習をしていることから、何となくそう思う。
(
宵子が、真上家の令嬢としてお客様に紹介されるなんて、あり得ないことだと分かっている。
でも、暁子はどうするのだろう。学校の宿題を宵子に押し付けるくらいだから、外国語での挨拶はできないのだろうけれど。また、宵子にドレスを着せて代役をさせるのだろうか。でも、舞踏会なら黙って微笑んでいれば良かったけれど、宵子はひと言も声を出すことはできないのに。
もちろん、宵子が気にしたところで、誰に尋ねることもできない。屋敷の仕事をしている時に、紙と筆を持ち歩く訳にもいかないのだから。だから、いつも通りに俯いて、仕事に励んでいたのだけれど──
「宵子様。旦那様がお呼びです。書斎へいらしてください、早く」
女中のひとりに声を掛けられて、廊下を雑巾で
掃除はもう良いから、と言われて濡れた手を拭いながら、宵子は内心で首を傾げた。
(お父様が私に御用だなんて……)
夜会の代役も宿題の代筆も。父と母は暁子の我が儘を何も咎めず、そして宵子には特に声をかけることをしない。いない者のように扱うということこそが、あの方たちの宵子への感情を物語っていると思っていたのに。
女中たちと同じだ。
呪いに近付きたくない。迂闊に触れて、災いに巻き込まれたくない。
とはいえ、追い出すのも外聞が悪いから、できるだけ視界に入れないようにしたい。使用人に混ざって這いつくばっていてくれるならちょうど良い──そんなところではないだろうか。
書斎に入ると、父は窓を背にした机に向かって宵子を待っていた。
いかにも重そうな木材に、繊細な彫刻を施したその机も、外国から輸入したたいへん高価なものだとか。天上には小ぶりながらシャンデリアが輝くし、本棚に収まった革張りの書物にも、横文字の題名が目立つ。
「ああ──宵子。よく来た」
よく来た、と言いながら父は宵子を見て顔を顰めた。幽霊でも見たかのような眼差しも、椅子を勧められないことも、予想していたことだから特に傷つくことはない。宵子も、ちりん、と鈴の音を小さく響かせながら、丁寧にお辞儀をするだけだ。
宵子の深く下げた頭に、父の声が降ってくる。
「今度、我が家に客人が来る。シャッテンヴァルト伯爵という、ドイツのお人だ」
外国からのお客様は、予想していたこと。でも──
(シャッテンヴァルト伯爵──クラウス様……!?)
その名前を父から聞くとは思っていなくて、宵子は慌ただしく身体を起こした。身を乗り出して父を見る彼女の顔には、目を見開いた驚きと──それに、喜びの表情が浮かんでいるだろう。……それを見て、父は軽く溜息を吐いた。
「……先日の夜会で、お前も面識があると
あの夜の春彦は、父の
(あの方が我が家にいらっしゃる……暁子を気に入っていらしたというのは、本当なの……?)
でも、宵子だって。
語らうことはできなくても、
そして──父は、どうして宵子にあの方の来訪を教えたのだろう。
娘に食い入るように見つめられて、けれど父はそっと目を逸らした。宵子の眼差しにも、呪いの力がこもっているのを恐れているかのように。
同じ部屋の空気を吸うことさえ不安なのだろうか、父は顔を少し横に向けたまま、早口に続けた。
「伯爵は、見目良く礼儀正しい好青年だとか。暁子も、あの方なら会っても良いと言っている。だから今回はお前の出番はない。いや、むしろ決して見られてはならぬ。これは、我が家にとって非常に大事な席なのでな」
父は、宵子の顔を見ようとはしなかった。だから、気付いていないだろう。宵子の肩が震えていること。目に、涙の膜が張っていること。
(クラウス様と会えない……お姿を見ることさえ、できないの……?)
震える手で口元を抑えても、宵子の唇からは嗚咽さえ漏れることはない。胸の中で渦巻く悲しみと絶望を、泣き叫んで表すことはできないのだ。
「だから、伯爵が来られる日はお前は何もしなくて良い。部屋に閉じこもって一歩も出てはならぬ」
そこまで言ってやっと宵子に向き直った父は、彼女を見て怪訝そうに眉を顰めた。いったいどんな顔をしているのか、宵子自身には分からないけれど──ひどい顔色になっているのかもしれない。
「……用というのは、それだけだ。行きなさい」
でも、父は宵子に何も尋ねなかった。彼女の思いを聞くためには、紙と筆を用意しなければならない。そうして呪いと接する時間が長引くことを恐れたのだろう。
書斎を出た後にすれ違う使用人も、父と同じだった。涙を堪えた宵子の顔を見て不思議そうにはするものの、誰も尋ねたり気遣ったりしてはくれなかった。
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