呪い子と銀狼の円舞曲《ワルツ》
悠井すみれ
呪い子と銀狼の円舞曲《ワルツ》
序章
犬神の呪い
大きな池のほとりに四季折々の花が咲く美しい庭に比べると、その祠はずいぶん汚れて、今にも崩れ落ちそうだ。お参りする人がいなくなって、もう長いこと経つからだ。
(ひとりぼっちじゃ、
祠をほったらかしにする父や母にぷりぷりしながら、
走るにつれて、宵子の艶やかな黒髪が乱れて、背中に踊る。小さな手に握りしめるのは、お手玉を解いて取り出した
祠は、真上家が代々
でも、それももう昔のこと。徳川の御代が終わって、文明開化の時代になってもう何年も経っている。西洋から進んだ技術が入って来て、古臭い迷信を信じる人はいなくなった。
宵子のおじい様は、犬神様には頼らずに維新の動乱で手柄を立てた。お父様は、そもそも犬神様なんていなかったんだ、なんて言う。
『いないものにお供えをするなんて、無駄なことだ』
宵子が違うわ、と頬を膨らませたり唇を尖らせたりするのを面白がって、お父様はそんな意地悪をする。
(そんなことないわ。犬神様は、いらっしゃるのよ)
お父様もお母様も、双子の妹の
「犬神様、宵子が参りました!」
息を弾ませた宵子の、高い声が木々の間に響く。驚いた鳥が飛び立って、揺れる枝からはらはらと葉が落ちる。舞い降りるその葉を、尖った耳をぴくぴくさせて振り払う──ほら、犬神様は今日も祠の前で大きな身体を丸めていらっしゃる。
「ご機嫌はいかがですか? 今日はお天気が良いですね! これはお供えです。あの、触っても良いですか?」
祠と同じくらいに古びたお皿に小豆を載せて、宵子は犬神様に差し上げた。ふさふさした尻尾を軽く振ってくださったのはお許しが出たということだから、うきうきとした気分で犬神様の傍に腰を下ろす。生い繁った草は座布団の代わりになって、着物を汚す心配もなさそうだ。
暖かな陽射しに、草の香り。犬神様の毛並みは少し硬いけれど、気持ちよさそうに目を細めて、宵子の膝に頭をあずけてくれるのは嬉しかった。
「暁子にも声を掛けたんですけど、来てくれなくて。祠は汚くて不気味だって──失礼ですよねえ」
犬神様は、その名の通りに子牛くらいに大きい犬、というか狼のような姿をしている。
降ったばかりのまっさらな雪を思わせる白い毛並みは、陽の光にあたると輝いてとても綺麗。宵子が訪ねると目を閉じていることが多いけれど、開けると月のような金色の眼差しが鋭くて、それも綺麗。こんなに綺麗な存在を、みんながいないように扱っているのが、宵子には信じられない。
「宵子がもっと大きくなれば、みんな分かってくれるのかしら。犬神様は真上家をずっと助けてくださったのに、時代が変わったらほったらかしだなんて、ひどいですよねえ」
まだ七歳なのに、宵子はとてもよく口が回る、と言われる。お母様には、時々はしたない、と叱られるくらい。子供だから、夢やお伽話と本当のことの区別がついていないと思われているのだとしたら、とても悔しい。
「暁子もひどいわ。ここが汚いなんて。宵子がお掃除できたら良いんですけど、真上家の娘が
宵子が止まることなく語り掛けても、犬神様は答えてくれない。でも、たぶんうるさいと思っている訳ではないはずだ。尻尾はゆっくりと左右に触れているし、毛が短くてすべすべした額のあたりを撫でてあげると、気持ち良さそうに目を細めているから。
「そうだわ、犬神様! お庭に出て、みんなにお姿を見せてくださったら良いわ!」
犬神様の牙は長くて鋭くて、おじい様の収集している刀のよう。でも、犬神様が宵子に牙を剥いたことはない。お庭で摘んだ花やおやつのお菓子をお供えすると尻尾を振ってくれるし、とても優しい方なのだろうと、宵子は信じていた。──今、この時までは。
「みんな、きっとびっくりするわ。ねえ、その時は宵子を乗せて──」
突然、宵子の視界が暗くかげった。不思議に思って目を上げると、犬神様の巨大な影が太陽を遮っている。
(……え?)
犬神様のお口の中は、真っ赤だった。刀のような牙がずらりと並んでいる。
ウオーーーーァオン
耳に刺さる恐ろしい音は、犬神様の吼える声だった。今まで一度も聞いたことがない、雷が落ちるようにお腹の底まで震えて痺れるような大きな声。
犬神様の前足に突かれて、宵子はあっけなく地面に転がった。そこに、白い巨体がのし掛かる。真っ赤な口が、鋭い牙が、目の前に迫る。
「ひ──」
喉を噛み切られる、と思った瞬間、宵子は小さく喘いで気を失った。
(犬神様。どうして……?)
意識が闇に呑まれるまでの一瞬に感じたのは、恐怖よりも疑問だった。いつも撫でさせてくれていた犬神様がどうして、という。
それに──もしかしたら嫌われていたのかもしれない、と思うと、とても悲しかった。
* * *
宵子は、気が付くと布団に寝かされていた。天井の
(何が、あったの?)
起き上がろうとしても、手足に力が入らなかった。身体が、風邪を引いた時よりももっと熱くて、辛い。燃える炭を押し付けられたように熱い額を拭ってくれるのは、ばあやだろうか。あまりの熱に、目も霞んでよく見えなかった。
(犬神様、は……?)
何があったのかを聞きたいけれど、舌も動かない。ただ、
(おじい様と、お父様……お母様も?)
おじい様は厳しいお方だけれど、今は特に怒っているようだ。熱でぼうっとする宵子の頭が、険しい大きな声で揺さぶられる。
「宵子を祠に近づけただと!? 弱っているとはいえ犬神がいるところだぞ!?」
「祠が腐って危ないとは、いつも言い聞かせていました! でも、犬神なんて迷信でしょう……!?」
「迷信ではない。今の時代にさほど役に立つものではないが、確かにいるのだ。不可思議な力を持った存在は!」
おじい様は、犬神様がいると知っていたらしい。でも、どうしてこんなに怖いお声なんだろう。何か、とても苦いものを吐き出すような言い方をするのだろう。
「宵子に、何があったのですか? お医者様は、薬も効かない、こんな症状は見たことがないと──」
おろおろとした声で尋ねたのは、お母様だ。
「犬神の呪いだろう。死にかけの
「そんな──」
「お
お父様が絶句して、お母様が泣き崩れる。そしておじい様は、相変わらずの厳しいお声で重々しく答えた。
「分からん。だが、幸いにまだ暁子がいる。暁子に婿を取らせれば家が絶えることはなかろう」
布団の中で聞いていた宵子の目を、ひと筋の涙が伝った。熱が辛かったからでもあるし、おじい様のお言葉に胸を刺されたからでも、ある。おじい様は、宵子は死んでも仕方ないと言ったも同然だった。それに、何より──
(犬神様、可哀想。ごめんなさい、真上家が──)
おじい様は、わざと祠を放っておいたのだ。犬神様が、弱って死ねば良いと思っていたのだ。
ずっと大切に祀っておいて、そんな仕打ちを受けるなんて。犬神様が真上家を怨むのも当然だ。だから宵子が呪われても──死んでしまっても。報いを受けるだけだろう。
(でも、犬神様は死んでしまったのかしら)
最後の力を振り絞って、宵子を呪ったのだとしたら。あの真っ白な毛皮に触れることは、もうできないのだろうか。
(ごめんなさい、ごめんなさい)
知っていたら、ちゃんと謝れたのに。熱に苦しみながら、宵子は胸の中で何度も繰り返した。
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