第24話

 そして、アルツィオがあろうことか彼女の傷跡に唇で触れたのを見た瞬間に、アンドレアのこれまでの迷いも葛藤も吹き飛ぶことになる。


 彼女を自分から手放すのは無理だと、嫌でも悟らされずにはいられなかった。


 何年かかろうが、アンドレアはエステルを忘れられない。


 何年経とうが、彼女以外の誰かを求めることができないでいる今のように――。


「許してくれ、エステル」


 君を、自分の手から離してしまうことができないんだ――そうアンドレアは言葉を落とした。


 彼女を、危険に晒してしまうかもしれない。


 けれどアンドレアは、エステルを愛したかった。


 彼女に触れたい、優しくしたい。声を聞きたい、自分の前でも笑っていて欲しい。


「…………見たいのは、君の涙じゃないんだ……」


 組んだ手に額を押しつけ、アンドレアは後悔のように呻きをもらした。


 まるで、泣き声みたいだと自分でも思った。


 笑っていて欲しかった。安全になったのに、彼女はいつもつらそうに笑った。


 慕ってくれているのを分かって突き放したのは、アンドレアだ。


 大怪我の熱にうなされながらも、彼女は『大丈夫』と伝えるみたいに健気にもベッドから微笑みかけてきた。


 それを見たアンドレアは、彼女が愛おしくてたまらなかった。


 だから、彼女を守るために手放さなければならないと同時に実感したあの時、泣きそうになって、その場から逃げ出した。


(まだ、君は、こんな俺を好きでいてくれたのか)


 ユーニとの噂が流れた時、もう恋心も覚めてしまっただろう落胆した。


 だから、エステルが魔力暴走を起こしたのが噂を聞いたせいだと耳にした際には、貴族の嫌がらせか陰謀があったのどはないかとも疑った。


 でも、どうやら彼女は覚悟して行動を起こしたらしい。


 そこまで、アンドレアはエステルにさせてしまったのだ。


(あとで公爵と、それからパカル院長らにも話を聞かないと)


 大病院の者達はアンドレアが足を運んだ際、とても悲しげで、そして何か言いたそうな表情をしていた。


 あれは、エステルのことを知っていたからだ。


 ベルンディ公爵家が、嫁ぎ先の変更をいまだ頑として何度も申請しているのも、彼女の父のベルンディ公爵と跡取りであるエステルの兄も協力者だからだ。


 エステルの心は、まだ、アンドレアに少しは残されている。


 あれだけ完璧な公爵令嬢と言われている彼女が、涙を流し、泣き、苦しむほど――。


「それなら、あとは行動するのみだ」


 もう、迷わない。

 アンドレアは立ち上がり、使用人を呼ぶためのベルを鳴らした。


 突き放そうとしたことでエステルをかえって深く傷つけてしまった。


 もう、そんなことは二度としないと違う。


       ∞・∞・∞・∞・∞


 エステルは父達と共に、そのまま舞踏会から帰宅することになった。


 ドレスを脱ぎ、湯あみを済ませてベッドに横になったものの、眠気などきそうにない。


 アンドレアからの、突然のキスだった。


(わけが分からないわ……)


 思い返すだけで、熱を持つ唇をそっと撫でる。


 すると何度かれたキスの甘く切ない気持ちが込み上げて、自分を抱きしめた。


(でも――)


 とても、必死なのは伝わってきたから。


『頼む、待っていてくれ』


 戻らないでくれと、アンドレアはエステルに言った。


(なら私は……彼の望むように、ここで、待つわ)


 屋敷に戻った際、両親と兄にもそれは伝えていた。


 また、つらい話題を新聞で見かけたり、噂を聞いたりするかもしれない。


 それでも彼のために少し待とう。


 胸の、期待するたいな甘いときめきの音を聞いていたら、明日への不安も小さくなっていった。


 そうして気づいたら、エステルは久しぶりに苦しさから解放されたような眠りに落ちていた。


       ∞・∞・∞・∞・∞


 けれど、予期していた苦しいことは王都の屋敷滞在でやってこなかった。


 舞踏会の翌日、朝一番に何か知らせてがあったみたいで父と兄も忙しそうに外出していった。


 それを『忙しそうねぇ』なんて、他人事で見送ったのは驚くことに、あれよあれよと言う間にエステルの状況は変わっていってしまったせいでもある。


 その日、アンドレアはエステルと結婚すると声明を発表してしまった。


『魔力をほとんど失ってしまった彼女を、支えていきたい』


 あらゆる手でもって彼女の体調もよくなるよう努力していきたいと、王宮の演説バルコニーに立って語った。


 集まった国民は彼の演説に涙し、魔法で各地にまで届けられ貴族達も支援の声明を出す。


 アレス伯爵は惨敗を感じたのか、静かに身を引いていったようだ。


 それをエステルは、屋敷にやってきたユーニ自身から聞いた。


「あ、大丈夫です。お兄様にも許可をいただいていますから」


 ユーニは、父のアレス伯爵に言われてアンドレアと交流していたようだ。


 はっきりしなかった王太子の気持ちが分かってよかったと、迷いや、父に対する緊張感からも解かれたことを朗らかに語った。


 話してみると芯もある女性だった。かわい子ぶってアンドレアに近づいたことも、きっちり詫びられた。


 普段はこうなのだと聞いたエステルは、素の彼女に好感を覚えた。


「私、魔法をもっと勉強したかったんです。勉強し続けていたら、成人した日に急に魔法数が跳ね上がって。限界も知りたいなって思ってます」


 父親のアレス伯爵が、肩身の狭い思いをしているそうだ。ユーニはそれを理由に、留学権を勝ち取ったことを自信たっぷりに語っていた。


「外国に逃げたように知らない方々には見られもすると思いますけど、エステル様だけでも事実を知ってくださっているのなら、それでいいです。全員に好かれようとか、みんなにいい子だと思われたいとか思ってませんから」


 実にさっぱりしているというか、意外にもタフな子だった。


 エステルといえば、逆に魔法がほぼ使えないので、魔法の勉強が好きだというユーニの話は興味深いものがあった。


「素質とか、才能とか言われますけど、努力で使える魔法の数は増えると思うんですよね。外国にはその習慣があるそうなので、エステル様のためにも、いい情報も持ち帰れるように頑張りますね!」


 最後は名前を呼び合うくらい仲良くなり、笑いながら話しが盛り上がった。


 帰ってきた父が、またしても「ううん?」と首を捻っていた。



 エステルへの婚姻の打診を受けていた第三位王子アルツィオは、ティファニエル国王から縁談話が消えたことのお詫び、とのことで、うまいことまんまとリリーローズとの婚約を勝ち取ったようだ。


 ただ、アンドレアは気にするだろうから、しばらくは会えないと手紙には書いてあった。


『リリーローズとの婚約は、彼の誤解も利用させていただき即決へと〝持っていかせました〟ので、まだ少々都合が悪く』


 手紙を受け取ったエステルは、相変わらず性悪いことをしているらしいと思った。


 アルツィオは、これから自国で婚約に関してすることもあるので帰国するらしい。


 あくまで、本人曰く『一時帰国』らしいけれど。


 まんまと利用されたアンドレアからすると、彼を〝いったん追い出した〟形になるのだろうか。


(事実を知ったら、怒るのではないかしら……)


 エステルは、彼ほどプライドの高い男性は他に知らない。


 そんなふうに思うことができるのも、アルツィオが言った通り、あの舞踏会の夜が結果として確かに『いい日』になったせいだろう。


 アンドレアが結婚するという意思に、安心感を覚えているせいでもある。


 まだ話はできていないが、ここ数日、変わり続けていく環境を思えば彼の言葉が噓ではないのは分かる。


 エステルのために結婚準備も進められるよう、整えてくれているのを感じる。


 アルツィオからの手紙には、リリーローズとしばらく離れることになる寂しさが長々と書かれていた。


 それは彼女の手紙に書けばいいのに……と、読み進めながら正直エステルは思った。


『あなだか彼と和解したあと、まだ訪ねさせていただますよ。できれば、私のリリーローズと共に』


 和解――そうなるといい。

 そうエステルも緊張しつつ、思っている。


 アンドレアと、とにかく心を打ち明けて話したい。


 とはいえ、リリーローズとは会いたいとエステルも思っていた。


 彼女とは舞踏会で別れて以来だ。変に注目を集めると言う理由で、体力のことも考えエステルも屋敷の中でずっと過ごしている。


 だから、先にお茶をしますと魔法郵便で配達をお願いしたら――速攻で返事が返ってきた。


『彼女にも〝少々しかけている〟ことがあります。赤面を見るチャンスですので、とにかく、私より先に会わないように』


 彼は、どれだけ性悪なのだろうとエステルは思った。


(……リリーローズ様、大丈夫かしら)


 心配もあるが、アルツィオのことだから大丈夫だろうという気がしている。


 そうしてエステルは、王太子の訪問も知らせをようやく受け取ることになる。


       ∞・∞・∞・∞・∞

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