ラケシス
その夜、ヤンの店が閉店し、客がはけ、店に残っているのはフィスタとチャカ、メンデルだけになった。「ヤンは鍵をかけておいて」と店を出て、一緒にキャメロンも出ていっていた。ルーシーは店の上にあるアパートの一室で、初仕事の疲れでぐっすりと眠っていた。
メンデルは黙々と掃除を続ける。
「メンデルさん、ハンナのところで話したことだけど……。」
メンデルは汚れたモップをバケツの水に浸し、汚れを洗い落して水を切った。
「……まず、あの子、ルーシーがどういう存在であるかを説明する必要がありますね」
メンデルは椅子の背を引っ張ると、それに座った。
「……あくまで、私の知ってる範囲での話になります。……私が働いていた施設ではある実験が行われていました。ルーシーと名付けられた子を交配させて、そして生まれてきた子供たちがどんな特色を持っているのか調べる実験でして……その中でも特徴が顕著なルーシーには多くの実験と交配が行われていました。そして私がロウズから連れ出したあの子、ルーシーがその特徴を見せ始めた時、研究者たち大きな成功例だと息巻いていたんですが……しかし私からすれば、それは言ってみれば、あの子に多くの過酷な試練を与えるというのと同じです……。そこで……私は彼女を施設から連れ出したのです……もちろん、他にもルーシーはあの施設に大勢いましたが、私ひとりでできることは限りがあります。ひとりよがりだと言えばそれまでですが……それでも、分かり切った未来をあの子に背負わせることなんて、到底我慢がならなかったんです……。」
「それはこの前聞いたけれど、問題はルーシーにどんな特徴があるのかだよ。あたしが見た限り、ルーシーが他と違うところって、表情筋が普通とは違う動き方するってことくらいじゃない?」
「おそらく……。」
メンデルはフィスタとチャカを交互に見ると意を決して話しの続きを語る
「それは脳を持たない私やフィスタさんでは感じることができないものだからです」
チャカはフィスタを見る。フィスタの表情はいたって冷静なものだった。チャカは長い付き合いの中で、フィスタの振る舞いからもしかしたらとは思うところはあったが、改めて言われると驚きを隠せなかった。脳の一部にサイバネティクス手術を施している者はケイオスにもいる。しかし脳を持たないというレベルの者は見たことがなかった。脳を持たないという事、それはつまり……。
「どういうことなの?」
「ルーシーは声色、表情、体臭、そして脳波のすべてをもちいて、同じ空間にいる人間のミラーニューロンシステムを活性化させることができるんです。先日、チャカさんがハンナさんとお会いしていた時に、相手が理解するように自分が理解できていたおっしゃてたのは、皆さんがルーシーと共に過ごした影響なんですよ」
「でも、たかが声だとか表情だとかが人と違うってだけでしょ? そんなルーシーと一緒にいるだけで、そこまで人って変わるものなの?」
「私は事務員ですので専門的なところは分かりません。しかし、現にルーシーと合流してまで現在に至るまで、お二人は変化を感じてきたのではありませんか?」
「ん~、まぁ確かにチャカとハンナは一気に距離を詰めたし、多分さっき隣で話してたふたりも、ルーシーと少し話しただけで妙に共感しあって話をしてたけど……。つまりは、ルーシーちゃんといれば、みんなが仲良しこよしになれるってことなの?」
「雑な言い方ですが、そうですね」
メンデルの説明を聞いた後、フィスタたちは自宅に帰った。
フィスタは入念なストレッチを済ませた後、サプリメントを飲むとベッドの上で横になった。フィスタは一切変わることのないルーティーンをこなす間、他に人がいる時とは違い、その時の彼女はまったくの無表情で、人もいないのに表情を作るのはカロリーの無駄遣いであるとでも認識しているようなふるまいだった。
フィスタは横になると秒で眠りに落ちた。筋肉は完全に脱力し、エネルギーは臓器が体を回復・修復させるために回す理想的な眠りだった。
しかし、本人は気づいていないがフィスタはいつも眠っている時に夢を見ていた。それは娘の夢だった。そして今夜も彼女は夢の中で娘と会話していた。
「結局さぁ、あの子は相手の同情を誘うような特徴を組み合わされた子ってことなのかなぁ。……それがそんなに大事なことぉ?」
古ぼけたアパートの一室でフィスタはソファに座り、絵本を読んでいる娘の髪をなでる。少女の絹のような髪の間をフィスタの指がすり抜けていく。
「そんな単純なわけないじゃない」
少女は笑ってフィスタを見る。
「じゃあどういうことなの?」
少女は絵本を置いてソファから立ち上がり、リビングの中央に立った。
「ねぇママ、チャカのおじさんのことを想像してみて?」
「……チャカを?」
フィスタは言われたようにチャカの事を想像してみる。
すると、娘の隣にチャカが現れた。
「チャカ……。」
「ふ~ん、ママにはこう見えてるんだね」
「こう見えてるって、チャカはこうじゃない?」
「え~かっこよすぎるよ~、これじゃあマイケル・B・ジョーダンだよ~」
「じゃあ、あなたにはどう見えてるの?」
すると、フィスタが想像したチャカの隣に大きなチャカが現れた。身長は2メートルを超えている。
フィスタは苦笑する。
「でかすぎ。そりゃあ、あなたから見たらチャカはこれくらい大きいのかもしれないけどさぁ……。」
「ママ、つまりはそういうことなんだよ」
「そういうことって?」
「わたしが見てるチャカとママが見てるチャカは違う。けれど、こういう風にお互い見てるものが一緒に見れるとしたらどう? その時、世界は違って見えるようになるんじゃない? そして、みんな世界が違って見えるようになるってことは、それは世界が変わるってことなんじゃないかな?」
「……それが、ルーシーが作る世界ってこと?」
「そう、わたしたちの妹たちが作る世界だよ」
「……わたしたち? 妹たち……? 何を言ってるの?」
「ママはその運命は託されたんだよ。三人の女神の一人を」
「三人の女神……誰それ?」
「知ってるでしょ? ママがずっと大事にしてきたんだから……。」
「何を言ってるの……ルーシー?」
フィスタはそこで目を覚ました。いつものように夢の内容は覚えていなかったが、何かが起こったことは体が覚えていたのか、フィスタはベッドから起き上がると導かれるようにキッチンへ向かった。
「……っ」
フィスタはキッチンに人の気配を感じ足を止めた。深い眠りについていたが、一定量以上の物音がすれば目覚める設定だったフィスタは警戒する。
「……誰?」
そこには自分と同じくらいの年齢の女が立っていた。女の顔の左半分には赤紫の痣がった。
「あなたは……?」
その女はテーブルの上にある日記を指さすと、煙のように消えていった。
フィスタはテーブルの上の日記を見る。見慣れた日記だが、今はその日記に違和感を持った。
日記の表紙に書かれている文字、「アトロポス」、それは運命の三女神の三女の名前だった。
「もしかして……。」
フィスタは棚にしまっていたUSBメモリを取り出すと、貼られているテプラの文字を見る。そこには「LACHESIS(ラケシス)」という運命の三女神の次女の名前が書かれている。
フィスタは日記をめくった。そこに書かれているのは、娘を探すこと、ロウズとマステマには関わっていはいけないことなどが書かれていたが、途中から絵日記のように手書きのイラストが描かれていた。
フィスタは目を凝らしてイラストを見る。イラストは線画ではなかった。点画だった。それもただの点ではない、0と1で描かれた点画だった。
フィスタは日記を寝室に持っていくと、抱きしめるようにして再び眠りに落ちた。
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