フィスタの影

 その頃、フィスタは自宅のアパートのリビングの真ん中でストレッチをしていた。

 黒のスパッツにグレーのタンクトップと、服装だけならエクササイズを始めようとする一般的な女と変わらない。

 しかし、その体つきは類を見ないものだった。

 僧帽筋や広背筋といったどこか一つの部位などではなく、体全体の筋肉が締めた縄のように引き締まっている。ボディビルやフィジークで造ったような、健康さや力強さとはかけ離れた、戦闘に特化した凶悪な体つきだった。その体を見るだけで、繰り出される蹴りが相手の首をへし折るであろうことが直感できた。

 しかも、そんな厳めしい胴体の上に乗っている顔がチャカの言うような「チャラけた顔」なため、体のアンバランスさがより際立っている。

 フィスタは180度の開脚を5分続けていたが、終盤にはその体は「土」の字のようにフロアに張り付いていた。次に壁に左脚を引っかけ、足を前後に開脚する。これも10分以上続け、最後は両足が「I」の字で揃うほどに伸びていた。

 1時間近くかかった全身のストレッチ。それを終えると、フィスタは体がほぐれていることを確認するように、全身の関節をしならせるようにステップを踏み始める。

 ただのステップはやがて小刻みな左右のジャブや上段、下段の前蹴りを繰り出すようになる。小刻みの技は少しづつ大振りに、さざ波が波に変わっていくように、右のオーバーハンドや左の上段後ろ回し蹴りになり、やがてそれは格闘技のシャドーというよりも、激しい新体操の動きに近くなっていった。

 バック転や側転、直立から滑らかに背中を反らしてブリッジで床に両手を付き、そこから逆立ちに移行し、さらに片手で体を支えた状態から、両足を大きく開きバランスを保ち、床に音もなく倒れると体をバネのようにしならせて跳ね上がった。

 フィスタは体を動かしながら、自分の体のパフォーマンスが90%戻っていることを確認する。

 クレイトスとの戦闘で激しい打撲を負っていたフィスタだったが、摂取する栄養素の大半を肉体の修繕に回すことで常人場慣れした回復力を遂げ、今では過不足なく体を動かせるようになっていた。

 フィスタはフロアの中央で瞑想するように呼吸を整えたあと、うっすらと薄目を開く。

 彼女の目の前にはおぼろげな男の像が現れつつあった。

「……。」

 フィスタは再び目をつぶり、三週間前の戦いを思い浮かべる。

 肌を交えて感じ取った相手の体重、筋力、反応、知能、そこからできることとできないこと……。

 もう一度フィスタが目を開くと、そこにはよりはっきりとした姿のクレイトスが立っていた。

 フィスタには視えるが、他の誰にも目視することはできない、フィスタの頭部の中にあるコンピューターが算出したクレイトスのビジョンだった。

 フィスタはクレイトスに対してオンガードポジション※で構える。

(オンガードポジション:ジークンドーの技法。右手が利き手の場合、右手を前に、右足を前に出し、左拳は顎の前に置き、下げた左足はつま先がやや外を向く。中長距離での格闘に向く。)

 小刻みにステップを踏むフィスタ。肩や拳は電気が走っているかのようにピクリと動く。そして体の試運転を終えると、右手でちょいちょいと手招きをした。

「じゃあ……かかってきなよ、おとっつぁん」

 仮想のクレイトスが襲い掛かってきた。

 飛び出してきたクレイトスの右の出足の脛、そこに左の前蹴りを当てるフィスタ。

 踏み込むはずだった足の軸がぶれ、床を踏みそこなって小さく体勢を崩すクレイトス。

 その隙に、フィスタは右の前蹴りでクレイトスの股間を蹴り上げる。

 金的を打たれ、クレイトスがひるむ。 

 クレイトスの左目を右の親指で抉りにかかるフィスタ。今回は遠慮がない。本気で相手の目を潰しにかかっていた。

 クレイトスは左目を潰されてうずくまる。フィスタは無防備になった相手の脇腹をティッチャギ※で穿った。

(ティッチャギ:テコンドーの技法。後ろ回し蹴り。構えた状態から一瞬だけ後ろを向き両足を交差させ、そこから正面に体が戻ろうとする遠心力を使って蹴る。体を大きく振らないため動作が小さい。)

 狙いは脇腹の中央よりやや下、第9肋骨から第11肋骨にかけて。踵が脇腹にめり込む。体重差が10キロ以内なら骨が折れる威力とタイミングだった。

 しかし──

 クレイトスの反撃が来ていた。クレイトスの筋肉量とアドレナリンの分泌量から計算された耐久力と回復力は、フィスタのティッチャギでは仕留めることはできないという結果を出していた。

 クレイトスの左フック。

 狙いは脇腹、フィスタは右腕を曲げて防ぐ。

「ぐぶっ!」

 身長は180cmほどだが、推定体重は130kg以上、小型のゴリラ並みの体格から繰り出される打撃は、いとも簡単にフィスタの体をガードもろとも吹き飛ばした。

 仮想の左腕へ亜脱臼レベルのダメージが算出され、戦闘での使用は不能という結果になった。

 フィスタは再び中距離戦に長けたオンガードポジションを取り、距離を取ろうとする。

 だが、そんなフィスタの事情など構うことなくクレイトスが襲い掛かる。

 力任せの両腕のフルスイング、鈍く風を切る音がする。頭に当たれば昏倒し、胴体に当たれば内臓機能が停止しそうな攻撃を、フィスタはスウェー※やウィービング※といったボクシングのテクニックでからくもかわしていく。

(スウェー、ウィービング:ボクシングの技法。スウェーは上体を反らして、ウィービングは体を沈めながら相手のパンチをかわす。)

「おっと……。」

 追い詰められたフィスタは背中を壁にぶつける。ピンチだったが、クレイトスの意識の隙を突くかのように、身を低くしてするりと体を入れ替え壁際から脱出した。

 フィスタは攻勢に回ろうとするも、クレイトスは目つきも金的も用心するようになり、こちらの攻撃の間合いに入ろうとしない。

 自分の距離を保ちつつ、クレイトスは再びじりじりとフィスタを部屋の隅に追い詰めていく。

 フィスタは自分から後ろに飛んで距離を取ると、素早く細かく変則的なステップで急激に距離を詰めなおし、クレイトスを幻惑した。

 ほんの刹那困惑するクレイトス、その隙にフィスタは右のアップジャブ※、追撃で手を広げ指先を伸ばし、クレイトスの右目を狙った。

(アップジャブ:ボクシングの技法。構えた時に前に出る手で顔面を打つ。打つ時には前にステップして体重を乗せ、相手に当たったら相手の重みをストッパーにして後ろに下がる。前手がやや下がった状態から放たれるのが特徴。)

「ぐっ!?」

 仮想のクレイトスが右目にダメージを受けてひるむ。

 ダメ押しの睾丸への蹴り上げ、今回は潰すつもりで放った。

 しかし、届かない。

 二度目の金的は体をよじられたことで、蹴りがクレイトスの内ももで防がれ、ひるませる威力にならなかった。

 クレイトスは相撲のような両手突きで反撃する。視界が狭くなっていたものの、蹴られた方向からフィスタの位置が読み取れていた。

 壁に叩きつけられるフィスタ、衝撃で内臓に強い振動を感じていたが、一所にとどまるのは危険だと察知し身をかわす。そこにクレイトスの丸太のような足での前蹴りが飛んできた。仮想の相手でなければ壁に大穴が開いていただろう。

 前蹴りは避けたものの、髪を掴まれてしまった。

「くっ」

 フィスタは力任せに引きずり倒される。

「このっ」

 倒れた状態から足を蹴り上げてクレイトスの顎を打つ。だがまったく効かない。フィスタのウェストくらいは有ろうかというクレイトスの首は、蹴り上げにはびくともしなかった。

 フィスタの体に覆いかぶさるようにしているクレイトスが、右腕を振り上げて顔面を殴りにかかる。

 フィスタは顔を反らす。直撃は避けたが側頭部に拳がかすめた。

 次々に降り注ぐクレイトスの両の拳。直撃すれば行動不能になることは必至。

 フィスタは体をよじったり、足でクレイトスの肩を蹴り軌道をずらすなどしてそれを避ける。

 だが、攻撃は一撃、一撃と確実に顔面を捉え始める。

 フィスタはダメージ算出し続ける。内出血、裂傷、鼻骨の骨折、上顎骨の粉砕骨折、頭蓋骨の亀裂……。

 クレイトスの左手がフィスタの喉を掴む。

 上体が動かせなくなった。

 クレイトスが大きく右の拳を振り上げ、情け容赦なくフィスタの顔面を全力で殴りかかった。

 顔を砕き、さらに床下に穴をあけるイメージ。

 頭蓋骨の完全骨折、頭部の破壊による生命維持機能の停止……。

 顔面が潰れたスイカみたいになって死ぬな。

 フィスタがそう結論付けると、クレイトスの姿がふわりと消え去った。もちろん床の穴もない。

 現実的にはノーダメージだったフィスタはすくっと起き上がると、テーブルの上にある二対の両刃のカランビットナイフ※を手に取る。素手でクレイトスと一対一で戦うと、ほぼ殺されるという結論だった。

(カランビットナイフ:インドネシアで古くから使われているナイフ。柄の先端から刃の先端までの全体がアーチ状になっている。先端は輪になっており、ここに指を通して操ることで、脱力した状態で武器を振れるメリットがある。)

 フィスタがナイフを装着した両手で構えると、眼前には再びクレイトスが現れた。

 素手での構えと違い、両手を前に出し、その両手をゆらりゆらりと揺らすフィスタ。

 フィスタの右のジャブでの牽制。

 それを払おうとするクレイトス。

 ポジションを変えつつ、フィスタはクレイトスの脛に爪先蹴りを入れる。

 イラついたクレイトスが右手を伸ばすと、フィスタはその手を避けつつ、すれ違いざまに二の腕に右のショートアッパーを入れる。

 フィスタがすれ違った瞬間、クレイトスの表情が変わった。腕の付け根から激しい出血をしていたのだ。

 フィスタが放ったのはショートアッパーではなかった。すれ違いざま、フィスタはカランビットナイフでクレイトスの二の腕を動脈ごと切り裂いていた。

 クレイトスが左腕を伸ばす。フィスタはそれを右の脇に挟んで抑える。筋力差からクレイトスはすぐに振りほどけるはずだった。

 しかし、フィスタは左腕を∞の字に動かし初動でクレイトスの喉を、返す刀で両目を横一文字に切り裂いていた。

 大男が悲鳴を上げてうつ伏せに倒れる。

 フィスタは倒れているクレイトスの背後にまわる。そして、たんたんと、解体業者が豚をそうするように、クレイトスの首の動脈を切り裂いた。

 首から血を吹き出しながら、クレイトスの姿は煙のように消えていった。

「……。」

 フィスタはカランビットナイフを手の内で高速で回転させながら思案する。

 武器を持てば対格差は覆せる。しかし、常に武器が手元にあるとは限らない。

 もっと効率よく、徒手で相手を仕留める技を、自分を守り抜く術をインストールする必要がある。

 フィスタはふと、背後に人の気配を感じた。

「ママだってこういうことやりたいわけじゃないんだよ。でも、ここで生きていくには仕方ないでしょ」

 フィスタは振り向いたが、そこには誰もいなかった。

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