職場酒

留龍隆

一杯目 ビール、覚醒

 顔を洗おうと横に置いていた眼鏡を、手元がくるって落としてしまった。


「あっ、くっそ。もー……やだ、もー……滅べ世界」


 毒づきつつ、ぼやけた視界で足元を見下ろす。


 でも視界のなか、約1/6を占めるのは着ているブラウスの白色だ。


 長年の付き合いである、邪魔者である。


 コレがあるせいで、足元が見えた試しがない。


 ……まぁ風呂上りなら手で谷間かきわけて足元を見ることもできるのだが、服を着てるとそうもいかない。さすがに。


 仕方なく屈んで、でもそれらしき輪郭が見当たらないのでそこからは剣道みたく屈んだままスリ足で動いてつま先が眼鏡に当たるのを祈った。


「スマホ持ってきてればよかったぁ」


 カメラモードにして眼前にかざせば眼鏡代わりになる、という小技を思い出しつつ私は言う。


 やがて眼鏡が親指にちょんと触れたので、やっと安心してこれをかけた。


 洗面台に向かう。


 鯖江で買った赤い眼鏡をかけた、ひどく目のくまが濃い女が鏡に映る。


 化粧もいま落としてしまったので、すっぴんだ。印象が薄い。


 よれたシャツとくたびれたジャケット、ライトグレイのスーツ姿だ。


 見慣れた、地獄の住人だ。


「はぁ」


 ため息をつきつつ胸元からKOOLのメンソを取り出し、ワンルームの部屋に戻るまでの廊下で火をつける。


 いつもの清涼感が胸を満たし、すーと吸うあいだにつま先はゴミ袋を蹴り上げ、はーと吐くあいだに埋もれたスリッパを踏んづけた。


 ポップな丸いローテーブルに置かれた切子の灰皿に先っちょだけ擦りつけつつ、私は箱買いした缶コーヒーを段ボールからごそごそ1本取り出して、片手で開ける。

ぐいっと飲む。


 微糖がじんわり広がる。


 すーと吸いふーと吐く。


 煙草が燃え尽きるまでくり返す。


 そうして、壁にかかったデジタルが残り時間を刻むのを見上げた。


「……もう戻んないとな」


 十七連勤からの午前だけ半日帰宅(帰って着替えるだけ)、その猶予はあまりに短い。


 できればお風呂に入りたいー。


 さいきんはショートボブだから髪を乾かす時間込みでも、まあ間に合わなくもないのだ、けど。


「入ったらもう気力尽きるよな……」


 新卒から六年にわたるブラック勤めで培ったスキルは大きく分けて三つ。


 謝罪技術と濁す会話術、そして自分の体力ゲージの把握だ。


 入浴は意外と体力を使う。


 おまけに気持ちも緩んでしまうので、いま入ると会社に戻れなくなる。そう感じた。


「三日入ってないけど……まぁしかたない」


 多目的トイレの大きめの洗面台で頭を洗い、給湯室でドライヤー使って乾かすのに慣れてしまった身は三日を誤差と判定するようになっていた。


 あとはボディシートで襟周りと腋と乳下と汗の溜まりやすい場所だけ拭けばなんとかなる。


 それでもどうにもならない皮脂汚れとかもろもろがやばいなーとなったときだけ着替えに帰るそれがそう今すなわち現在。


 2本目の煙草を吸い終わるころには、出社の時間だった。


 12時半。いまから出て会社着いて14時から会議。そのあと資料づくりとメール返信と発注確認の電話と赤伝の発送とあとはPC周りの付箋メモの業務を左回りにグルっと片付ければ終わり。


 戻るまでに付箋、足されてないといいけど。


「とりあえずエネチャージしよ」


 がちゃんと冷蔵庫を開けて、エナドリに手を伸ばした。


 そういえば冷凍庫には生ごみが凍結中だ。次帰ってきたら捨てなきゃな―と思うものの、帰宅時間とゴミ捨て時間合わないんだよなー……なんて考えつつごきゅり。


 喉を滑っていく炭酸が胃腸で熱を持ってる感じがする。キいてきた。


 もう1本いこうかな、と考えながら開けっ放しだった冷蔵庫のなかを見て、ふいに目が留まる。


 味噌とか調味料ばかりの冷蔵庫内で、ひときわ目立って取り出しやすい位置にある、それ。


 

 ビール様。



「…………、」


 ごきゅり、なにもない口の奥で喉が鳴る。


 いや…………さすがに……それはだめだ。


 もう十七日飲んでないとしても。それはだめだろう。


 いやむしろこれだけの連勤だし? 全部片付いたとき(たぶん来週頭)に飲めば、それはそれはおいしいだろうし?


「ここで飲むのは野暮ってもんでしょ……」


 ばたん。冷蔵庫と気持ちに蓋をして、私はタイツ穿いたつま先にローファーをひっかけた。


        #



 が、それで忘れられるはずもなかった。


 14時から相次ぐ仕事、仕事、仕事。


 その合間合間でビールのことを思い出す。なまじ、エナドリの炭酸を味わったのがよくなかった。比べてしまって明確にあの味とのど越しが頭のなかに浮かぶ。


 やがて時刻は21時を回り、帰れる奴ら(死ね)が帰り始める。私はセクハラ上長(死ね!)とあと同じ部署の奴らとまだ残っている。


 アルコールへの欲求がむらむらとこみあげて、誤魔化すために煙を吸いたくなった。


「たばこいきます」


「ああ、じゃあ僕もいこうかな」


「アタシも」


 上長とおつぼねと三人は嫌だが、トイレ帰りに一人で吸ったら上長に「別に僕たばこ休憩なら許可するんだからさ、言ってよ」とくそめんどくさいことを言われたのでちゃんと申請するようにしている。吸えないよりはマシだ。


 二人があーだこーだと仕事まわりのことを話しているのをよそに、メンソをぷかぷかしながら私はビールを想う。


 ああビール。黄金の輝き。あなたといつになったら出会えるの?


 なんて考えながら0時をまわり、まわりもちょくちょく仮眠に入る。


 仮眠室代わりは隣の部署の方で、そこだけ明かりを落として眠りやすいようにしていた。


 みんなデスクの下でごそごそして、でも結局眠れないのだろうやつらのスマホの光がちらちらしている。私いまなら5秒で寝れるから寝ないなら代われや。いらいらしながらそう思う。


 やがて。


 始発の時間が来て──2時くらいから復帰したやつらが仕事終わらせたらしく、帰っていく。


 上長とお局もだ。私は点検事項があったので、あと1時間だけ残ることにした。


「カラダ気をつけなきゃダメだよ」


 カラダと言ったときに私の乳を見た上長に十八連勤目で最大の殺意を込めながら「ありがとうございますお疲れ様でした」と返してから私は居残った。


 日がのぼりはじめたオフィスのなかは静寂ではあるが静謐ではなく、私ががちゃがちゃとキーボード叩く音だけが響いている。


 今日は帰って風呂入って寝て、16時から戻る。また夜通しで別部署から流れてくる作業を確認して資料まとめて朝営業に渡して帰って寝て次は15時から出勤でたぶん始発帰りで少し長めに寝て営業のバカが「週明けまでにお願い」と持ち帰ってきた話を仕上げるため15時にまた出勤して土日は寝ないコースで月曜の昼に帰ってやっと休み……休……


「バカか?」


 いらいらがピークに来た。


 あと1時間の点検すらやりたくなくなってきた。


 でも終わらせないといけない。


 テンションを持続させないといけない。


 でもエナドリをいま飲むと帰ってから眠れない。それはまずい……だがどうすれば……


「うう、う~……」


 悩みながら会社の外にあるコンビニに入った私の前、ふいっと霞を払うように視界の中央へ入ってくるものがあった。


 ビール。


 ビール様だった。


 家で待っているはずの彼との出会いで、私はぽーんと目の前が開けたような気がした。


「酒なら……テンション上げつつ、寝入りもよくなることない?」


 天啓だった。


 しかし、酒。酒である。いくらなんでもエナドリとは扱いがちがう。職場で飲むものではない。


 こんなものに手を出していいの? でもこのままじゃ残りが終われない。いやまあたぶんそんな見直さなくてもいいんだけど……でも……


 考えているうちに私のかごにはビールが入っていた。


 レジに並んでいるとき、むかし付き合った男が言ってた「エロ本買うドキドキを女子は知らないんだよなぁ」との言葉がなんかよみがえった。


 たぶんいま私が感じてるのは、それに近い感覚だ。


 で、でもまあ? 飲んでもいいし、飲まなくてもいい、よね? 飲まなかったら帰りに飲めばいい。そう。そういうこと。


 そう考えながらオフィスに戻り、そわそわして──






「ごきゅり」


 私は、ジャケットにビールを隠して監視カメラの死角へもぐりこむと、缶を開けていた。


 もう考えていなかった。


 体が動いていた。


 口から伝わるつめたさと喉を落ちていく泡の爽快感と、胃に光をともす柔らかな酩酊と脳みそがくちゃくちゃになるような快感と──


 ぜんぶが混じって最高にうまい。


 こ、こんなに響くのか。オフィス酒。


 やっちゃいけないことをやってる背徳感がやばい。


 350ml缶が秒で消えた。


 途端に、目がしゃっきりしてきた。眼鏡曇ってんじゃないかと疑うほどの疲れ目で視界がかすんでいたが、もういまはクリアだった。


 なんだろう? 後頭部のあたりが開けて風通しよくなってる感じがする。


 脳みそにキャッシュみたく溜まってた老廃物がじゅわんと流されたように感じた。

エナドリによる無理な覚醒と動悸を伴う脳内臓の焼け付きじみた感覚とはちがう。


 命。命を飲んだ感じがした。


「終わるわ、これ」


 そう思った通り、点検は15分で終わった。


 あとはそそくさと身支度を整えて守衛さんに鍵を返して家に帰り、風呂に入って布団に寝転ぶまで私のこの多幸感は持続していた。


 酒……職場の酒。


 いいのかもしれない。


 結構。いいかも。


 枕に後頭部が溶けるような眠りに落ちるまで、私はずっとそれを考えていた。

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