十一、海から子供の声

 私がその旅館に泊まったのは夏の終わり、そろそろ海に冷たい風が吹く季節でした。その海辺の旅館は、潮で黒ずんだ木造の壁が海からのまばゆい光に照らされて、かなり年季が入っている感じでした。客は多くても十人前後しか泊まれないこじんまりしたところで、数人ほどしかいないと思われる従業員や、年配の女将さんはとても親切で、言うことはありませんでした。

 季節柄でしょうか、泊り客が老夫婦一組と、女性客の自分一人しかいないのは、とてもありがたいことでした。東京の喧騒と、仕事に疲れた体を、ここでゆっくり癒したかったのです。山でも良かったのですが、温泉に入るよりも、美しい海が見たかった。




 初日のことです。

 十時ごろに起きて遅い朝食をとると、浜に出ました。海を抜けて吹き込む秋風は少し冷たいけれど、いいお天気でした。サンダルで砂を踏んで海を見れば、どこまでも広がる水平線が日差しにきらきら光っています。周りは肌寒いはずなのに、ゆっくりさざめく海原はどこか優しげで、体を温かく包んでくるようです。これだ、これが欲しかったんだと、私は浜に腰を下ろし、しばらく海をぼうっと眺めました。

 何分かたった頃。不意にどこからともなく、子供の合唱する声が、ぼうっとわくように聞こえてきました。うわ、懐かしい。自分も小学校の体育館で、クラスのみんなと歌ったっけ。子供の声が束になってホールにわんわんと響いてくる、あの独特の空間。声変わり前の少年の声は、どこか女性の低い声に似ていますよね。

 いま聞こえている歌は、声があまりに反響してメロディもよく分からず、歌詞も聴き取れないので、曲目は分かりません。近くに小学校でもあるんだろうか。周りをよく調べたわけでもないので、たぶんそうだ、と思いました。

 合唱は数分続くと、不意に消えて、元のように、さざなみだけが聞こえてきました。




 二日目のこと。

 また遅く起きると、今度は旅館の周りをまわってみました。延々と続く浜と平行に、一車線の道路が長々と伸びて、その向こうは切り立った岩壁になっています。他には、なにも見当たりません。バスでここに来たときも、旅館以外は特になんの建物も見えませんでしたが、あるいは、岩の向こう側に、学校でもあるのかもしれない。でも、そこまで行って確かめる理由もないし、そもそも壁を上がって向こうを覗くことなどとても無理そうなので、そのことは忘れることにしました。

 再び、浜に立って水平線を眺めると、昨日より海はいっそう輝いて見えます。今日も天気は良く、そればかりか気温が高くて、気持ちがいい。穏やかに寄せては返す波のきらめきを見るうち、ふと口元が緩んでしまいます。ああ、来て良かった。

 そう思ったときでした。


「ら、ら、ら、らぁぁぁぁ……」

 また子供の合唱の声。やっぱり、どこかに小学校でもあるんだろうな。

 ところが、そう思って聴いているうちに、おかしなことに気づきました。聞こえてくる方角です。あまりに響くので最初は気づきませんでしたが、耳を澄ますと、それは後ろから来ていないんです。明らかに、前からなんです。でも、そんなことありえないでしょう? 前には広大な海しかないんですから。船でも停まっているなら、そこから聞こえている可能性もありますが、周りをぐるっと見回しても、ただ光る海原ばかりが、延々横たわっていて、なにもありません。

 でもそうなると、なにか嫌なことになります。海から子供の合唱の声が聞こえている、ってことになるんです。でも、そんなこと、あるわけないし、バカげてるし、だいいち気持ち悪いじゃないですか。

 そこで考えました。いいや、やはり錯覚だ。きっと陸の上のどこか――たとえば、後ろの切り立った岩の向こう側とか――に学校があって、そこの歌声が、どこか岩場かなんかに反響して、それが、あたかも海から聞こえているように思えているだけだ。そうだ、きっとそれだ。いっけん不思議なことなんて、種をあかせば、たいていそんなものなのだ。そう、それに違いない。

 そうやって、自分を半ば無理やり納得させたとき、合唱は昨日と同じように、ふっと消えてしまいました。



 その晩のことです。

 お風呂のあと、夕食の膳を持ってきた女将さんに、ふと聞いてみました。

「あのう、変なことを聞きますが、この辺りに、小学校とか、ありますか?」

 女将さんの皺だらけの顔が、みるみる蒼ざめて引きつりました。

「い、いえ、ありませんが」

 変だと思いながらも、この二日に浜で聞いた子供の合唱のことを話しました。聞くうち、彼女の顔色はますます悪くなりました。

「ちょ、ちょっとお待ちください」と引っ込み、すぐに旅館の、こちらもかなりの年配の白髪頭の主人が出てきました。同じく、その顔は血の気が引いて蝋面のように真っ蒼で、あっけにとられる私の前に正座して、重苦しい口をひらきました。

 その言葉に、目を丸くしました。

「たいへん申し訳ありませんが……お客さん、どうか、今すぐに、お帰りください」



 ご主人の話は、こうです。

「……この旅館は、わたくしどもが先代から引き継いで、もうかれこれ五十年ほどやっとります。私が継いで十年目――つまり、今から四十年前ですね――その、ちょうど今ぐらいの時期、秋口のことでした。そこの街道を小学校のスクールバスが走ってきたんです。乗っている二十人ほどの男女織り交ぜた児童は、全員合唱部で、これから街の公会堂で市のコンクールに出る予定でした。

 ところが、です。バス会社が悪かったんですが、運転手は無理なスケジュールを組まされて、その日は寝不足でした。この旅館の先に急カーブがあるんですが、そこを曲がりきれなかった。バスはガードレールを破って、崖から海に突っ込んだんです。警察に引き上げられたのは、落ちてから数時間も経ってからでした。

 時間になっても来ない、と公会堂のスタッフが学校に連絡をいれて、警察が動くまで、合唱部の子供たちも、引率の先生方も運転手さんも、みんなこの海の底に転がるバスの中で、何時間も放置されたんです。


 引き上げられたわが子を見て、泣き叫ぶ親御さんの声が、ここまで聞こえてきました。長時間潮水に浸かって、その顔にも体にも、無残に腐乱が始まっていた子もいたんです。学校中から期待のかかった優勝候補でしたから、出場の機会をこんな形で奪われた子供たちは、さぞや無念だったろう、と誰もが口々に言いました。遺族の方々や教員たちをはじめ、多くの関係者がその崖を訪れて、花をそえ、不幸な子供たちの冥福を祈りました。


 ところが、事はこれで終わらなかったんです。



 その頃は季節柄、お客さんは少なかったんです。悲惨な事故のあったその日に、泊り客の方のお一人が、妙な噂を立てました。この若い女性のお客さんは、会社の慰安で来ていらしたんですが、こう言って譲らんのです。

「浜に一人でいたとき、海のほうから、子供の合唱する声が聞こえてきた」と。それも、事故の数時間後、事故車と遺体の引き上げが終わって警察が帰ったあと、辺りが暗くなり始めた頃だったそうです。その声は、そろそろ黒ずんできた海原の向こう――つまり水平線からじゃなく、もっと自分のすぐ近く、目の前の黒い海の奥から響いてきた、って言うんです。

 時期的に、あんまりにも不謹慎でしたから、連れの女性が「きっとなにかの間違いでしょう」と、たしなめたんですが、彼女は絶対に聞き違いじゃない、確かに大勢の子供の歌声だった、と言い張って、こいつに(と女将を示して)話しちまったんです。とんでもなく気味悪いと思ったそうですが、うわべだけは笑って同意しまして、相手をなだめたんだよな(女将うなずく)。

 ところが、ですね。

 その晩遅く、その若い女性は、姿を消しちまいました。旅館中、総出で探したんですが、てんで見つかりません。

 ただ、おかしなことがありまして。この女性が寝ていた布団が、海水でびしょびしょに濡れて、水が帯になって廊下を通り、そのまま浜に続いとったんです。うちのもんたちがたどると、水の帯は砂を黒く染めて、まっすぐ海へ入って、消えていたんだそうです。


 これだけでも気味悪いんですが、さらにわしらがぞっとしたのは、寝床や廊下の、水がしたたってる場所の脇に、濡れた小さな足跡が、いくつも点々とついていたことです。どう見ても裸足の子供が歩いた跡で、みんな一様に海に向かって進んでいました。でも、お泊りのお客さんの中に子供はいないし、子供といったらあなた、その数時間前に近くの海に消えた、たくさんの命以外には、なかったんですよ。

 また警察が捜査しましたら、旅館から西へ数百メートルは離れた岩場に、その女性の遺体が流れ着いていたんです。酷い事故のすぐあとに起きた事件だけに、警察はなにか関係があるんじゃないかと思ったらしいんですが、犠牲者の方が残した、かなり普通じゃない証言があるばかりで、なにも見つからなかったんです。うちの者たちにも、お泊りのお客さん方にも怪しいところはなくて、亡くなった方には自殺する動機も何もないんです。

 結局、『犠牲者が夜中に泳ぎに出て、潮に流され、そのまま溺死した』という憶測に落ち着きまして、すぐに事件は忘れ去られました」

 ご主人の話はさらに続きましたが、聞くほどに私は恐ろしさに震え上がりました。



 そのあとの話では、それから十年後の同じ秋ごろ、今度は同じく自殺の動機もなにもない会社員の男性客が浜で子供の合唱を聞いたそうです。女将さんがうっかり十年前の悲劇を話したら、男性は「くだらない。幽霊なんて迷信ですよ」と、難なく笑い飛ばしました。そして、その男性も十年前と同じく、夜中に海に入って、近くの岩場で変わり果てた姿で発見されました。彼が寝ていた布団は、やはり海水でぐっしょり濡れていたそうです。


 そしてご主人が言うには、その男性が亡くなってから、今日でまた十年目なのです。昨日から自分も女将さんも、お客がいつ「子供の声を聞いた」と言い出すか、それはもう気が気ではなかったそうで、そんな折に出た私の一言が、彼らの恐怖に火をつけてしまいました。

「だから、」

 ご主人は言いました。

「二度あることは、必ず三度あります。どうか急いでお荷物をまとめて、お帰りください。もうすぐ最後のバスが出ます。夜中になる前に、ここから街の駅まで行ってしまえば、きっと大丈夫です。決して、冗談で言っているのでは、ありません。どうか、わたしらを信じてください」

 そこでいったん言葉を切り、ご主人は、申し訳なさそうな上目遣いになりました。


「さぞや、不思議に思われていることでしょう。それなら、なぜ今日を休みにしないのか、と。いえ、わたくしどもも、そうしたいのは山々でした。

 雑誌をご覧になって、ご予約いただいたのですよね。その雑誌には、いつも載せていただいていますが、今回は見送らせてもらったのです。そのはずだったのです。少々の赤字など気にしてはいられない、人命がかかっているのです。

 ところが、これでいいとほっとしていたら、ご予約の電話が何本もかかってきたのです。電話口でお客様に言われて、あわてて雑誌を見ると、新刊に、写真入りで、うちの記事がばっちり載っているじゃありませんか。うちの者の誰も頼んだ覚えはありません。雑誌に聞くと、封筒で掲載希望の手紙が写真入りで送られてきた、というのです。毎シーズンのことですから、こちらに問い合わせず、そのまま載せてしまった、ということです。封筒には差出人の宛名も何もなく、ただ、やたらに潮の匂いがした、と言うのです。受け取った編集の方は、一瞬、海の中から来たかと思ったそうです。それを聞いて、私らは本当にぞっとしました。


 これで、逃げられないと分かりました。店を閉めることは出来ず、たとえ閉めても、きっと別の何かが起こるはずだ、と確信したのです。それで、びくびくしながらも、お客様にお泊りいただいたわけです。

 ですから、お客様には、なんら落ち度はございません。本当に申し訳ございません。全てはこちらの勝手な都合なのです。

 まことに恐縮でございますが、どうか、このままお帰りください。もう、あんな恐ろしいことは、二度と繰り返したくないのです。お願いします。どうか、このとおりです」


「そんな、どうぞ、お顔をお上げください」

 などと、気の利いたことを言うことも出来ませんでした。ただぞっとしてその場に固まり、お二人が帰ると、すぐに大慌てで、カバンに化粧品だのタオルだのを詰めて、浴衣を着替えました。なんという休暇になってしまったのでしょう。うかうかしていると、大勢の子供の霊に殺される、というのです。

 旅館を立っときに、女将さんがお守りを握らせましたが、こんなものが役に立つんでしょうか。でも、あとでこれを必死に握りながら、神や仏さまに祈ることになるのですが。



 バス停で待っていると、今にも目の前の海から子供の声がしてきそうで、身がすくむ思いでした。あることを思い出してスマホをいじっているとき、到着時刻を十五分ほど遅れ、漆黒の闇を切り裂くように、バスがぬっと現れました。それは、翼の生えた救いの神に見えました。このまま私を乗せて飛び去って欲しいと思いました。


 乗り込むと、乗客は私一人だけで、心細さが身に染みました。なるべく海から離れたいので山側の席に座り、窓の向こうに流れてゆく黒々とした不気味な海を、ただ眺めていました。

 そのとき、周りのエンジン音の唸りに混じって、何か冷え冷えとしたものが聞こえているのに気づきました。あっと窓の外を見ると、それは明らかに、流れゆくどす黒いみなもの方から、ここまで響いてくる音でした。ほう、ほう、と泡立つように反響する、女の低い声のような、性別不明の不気味さを持つ音の塊。子供たちの合唱でした。しかも、次第に大きくなり、こちらに近づいているのです。

 この走行中のバスの、窓のすぐ向こうに、途方もない数の何かが並んでいるのが、直感で分かります。いまや、子供たちはこのバスのすぐそばに立って、車内の私をじっと見つめている。そんな気配を肌に感じたのです。

 合唱の声はますます大きくなり、いつの間にか車内いっぱいにわんわんと響き、耳が割れそうになりました。「運転手さん!」と叫びましたが、返事はありません。彼には聞こえていないのでしょうか。ただ黙々とバスを運転する制帽の頭が、椅子の上に覗きました。私の声が届いたとは、とても思えません。


 そのうち、合唱がわっとすぐ間近に迫り、恐ろしさに背を向け、床を向いて固く目をつぶり、必死に念仏を唱えました。いただいたお守りを右手に握り締めながら。

 すると、子供たちの声の間をぬって、なにか、ぴちゃり、ぴちゃり、という気味の悪い音が、私の背後のそこかしこで聞こえてきました。水の滴る音。それが車内のあちこちでしている。それはつまり、今びしょびしょに濡れた何物かが、私の後ろに、群れを成して立っていることを意味していました。

 と、子供の声が、私のすぐ真後ろでしました。うなじに息がかかりそうなほどに近いのです。あまりの恐怖に凍りつき、両手で顔を覆って丸くなっていると、シャツのすそを、何者かがくいくいと引っ張ります。心臓が止まりそうになりました。

「ねえ、聞いて」

 子供の声がして、思わず「ひいいっ!」と叫び、顔をあげ、振り返ってしまいました。

 そこには、信じられないものがいました。


 私の真後ろにいる少年は、青黒い顔の真ん中が陥没し、残っている一つの目玉だけが、ぎょろりとこっちを見ているのです。破れた服から突き出す腕や足は肉が落ちて白い骨がむき出し、全身が濡れそぼって、顎からも、ひじからも、ぽたぽたと水が滴り落ちています。そして、無い口元をもごもごと動かし、海の底にいるような、くぐもった声で言いました。

「ぼくの歌、聞いて」

 背筋が凍り付いて悲鳴をあげることもできず、私はさらにあるものに気づき、息を呑みました。朽ち果てたおぞましい顔をした無数の子供たちが、彼の後ろに、ずらりと立ち並び、私を見下ろしていたのです。


 彼らはみな、元は制服だった布切れを朽ち果てた体に張り付け、その顔は腐敗してボロボロに崩れ、全身が海水でぐっちょりと濡れていました。顔全体が残っている子も、頬や額が水を吸って無残に膨れあがり、凄まじい怪物のような形相になっています。顔の下半分が無い女の子、首が捻じ曲がり、潰れた顔に挟まる鋭い恨みの目でねめつける少年。首から上がとうに無い子もいます。誰もが青黒い肌をし、全身から冷たい海水を、ぴちゃり、ぴちゃり、と滴らせて、床を黒く染めています。

 鳴り響く合唱は、いつしか読経のように低くなり、谷底を吹き抜ける突風のような轟音になって、私を包み込んできました。


 腰を抜かし、気を失いかけたそのとき、何かが私の腕を掴んで、引っ張るのです。恐ろしく細い指の感触に、あっと前を見ると、目の前にくすんだ灰色の髑髏がありました。完全に骸骨になった子が、どす黒い海藻を目の穴に絡ませて、私に迫っていたのです。彼は口をぱくりとあけ、こう言いました。

「一緒に、きて。ぼくの歌、聞いて。あそこで。一緒に、海の、中に、きて。ねえ、聞いて。ぼくの歌、聞いて。聞いてよぉぉ……!」

 私はあらん限り絶叫しました。


 そのとき、とつぜん激しい振動が起きました。前を見ると、バスが一気にスピードを下げ、脇の岩壁に突っ込んでいくところでした。

 そのまま山肌に車体をガリガリとこすって停まり、振り向くと、いつの間にか合唱は消え、子供たちもおらず、ただ、床に海水だけが池のように溜まり、四方に流れていました。


 必死に立って前に行くと、運転手さんはうつぶせに倒れ、フロントガラスの向こうの路上に、誰かが立っているのが見えました。

 黒く長い髪を風になびかせ、袈裟を着た彼女は、数珠を持つ右腕をこちらに振りかざし、左手の指で円を作って、なにやら一心に唱えていました。

 私はそれを見ただけで、安堵で再び腰が抜けました。

(ああ、小百合……!)(本当に、本当に、来てくれたんだ……!)



 



 バス待ちのときに、とつぜん浮かんだ絵がありました。高校時代、校門の前に立っている一人の美少女です。彼女は、門の脇のポプラの木を、熱心に見上げていました。誰もが避けて通るのに、私だけは、どうしても話しかけずにいられませんでした。

 彼女の噂は聞いていました。死んだ人の霊が見えるらしいのですが、面白がって近づく者には、敵意むきだしの目を向け、相手にしない。そのうち誰とも話さなくなり、教室では、いつも一人で窓の外を見ている。そんな、めんどくさい子。

 だからこそ、私は近づきました。私も家庭に問題があって学校になじめず、孤立していたから。


 何を見ているかと尋ねると、噂どおり、恐ろしい目でにらみつけてきましたが、しつこく聞き続けると、根負けしたのか、教えてくれました。

「木の上に、子供とお爺さんがいる。近所で餓死したの。早く助けないと悪霊になる」

「た、助けるって、どうするの?」

「分からない」と、暗い顔になりました。「助けて欲しい誰かがいるのに、見えるだけで、どうすればいいのか分からない。こんなことばっかり。見えなければいいのに。見えなければ、こんなこと知らずに済んだ」

 そして、はかないほどに悲しい顔になり、泣きそうになって、うつむきました。こう言うと悪いけれど、思わず見とれるほど綺麗でした。気がつくと抱きしめていました。

「な、なにするの」

「だって星野さん、泣いてるから」



 それがきっかけで話すようになり、いつしか友達といえる間柄になりました。自分にしか分からない悲しみを打ち明けるにつれ、表情も物腰も柔らかくなっていく彼女を見て、私は幸せでした。でも、それも私が九州に引っ越すまでのことでした。


 別れの日、空港で紙切れを手渡されました。

「みよのおかげで勇気が出た。私、プロの霊能者になるわ。そして、みんなを救いたい」

「うん、小百合なら、絶対なれるよ」

「もしもこの先、霊のことで大変な目にあったら、ここに電話して。私、必ずみよを助けに行くから」

「ありがとう」


 私たちは抱き合い、私は飛行機で東京を発ちました。そのときもらった紙切れを、財布の奥にしまいこんだまま、すっかり忘れていたのです。

 バス停で待つあいだ、財布から引き出した紙切れの番号に電話しました。留守電でしたが、私はきっと来てくれると信じて、メッセージを吹き込みました。

 バイクでバスを追ってきた小百合は、本当に優秀な霊能者になっていました。あれだけの子供の悪霊を、霊波を送って一気に浄化したのですから。

 それと同時に、運転手さんにもバスを停めるように念を送ったので、彼は無意識にブレーキを踏み、事故にならずに済みました。とんでもない神技です。



 運転手さんの無事を確認し、警察を呼んだあと、私が小百合の凄さを称えると、彼女は照れくさそうに目をそらしました。

「実は、そんなに凄くもないのよ。子供たちの霊は、今は消えたけど、完全に成仏したわけじゃないの。また現場へ行って、何度も祈祷を繰り返さなきゃいけない。

 そういうわけだから、駅まで送るわ。ヘルメットつけて」

 そう言われる前にもう、私の中でそれは決まっていました。私は毅然と言いました。

「ヘルメットはつける。でも駅へは行かない」

「えっ」

「旅館、行こうよ。どうせ、そこに泊まるんでしょ。あのへん、あそこしかないもん、宿」

 そして、バイクの後ろにまたがると、彼女は呆れ果てたという顔をした。

「あんたねえ、あんな怖い思いしたのに、また戻るわけ?」

「だって私、まだ三日分も予約してるのに、旅館を追い出されたのよ。大損じゃないの」

「みみっちいわね。命と三日分と、どっちが大事なのよ」

「三日分」

 彼女は笑いました。どうも様子からして、OKのようです。



 でも私は本当に、正直にそう思ったんです。だって、あと三日。あと三日も、また小百合といられるんですよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る