七、湖の橋&八、「湖の橋」事件、星野小百合による追記

 七、湖の橋


 東京の北のはずれ、県境にあるT湖は、周囲をぐるりと森林に囲まれた広大な人工湖である。T湖自転車道という細い水道道路が多摩地区からその湖まで延びているので、休みの日は自転車でサイクリングがてら訪れる人も多い。


 夏の地獄の陽気がやっと落ち着いてきた十月の始め頃、私もそのようにひとり自転車をこぎ、緑に囲まれたサイクリング道路を通ってT湖までやってきた。自転車といってもカゴつきのママチャリだが、自宅がそう遠くないから、さほど時間はかからない。

 二十分ほどで着いて、わき道から森に入り、自転車を押して生い茂る木々の間をぬっていくと、いきなりひらけて、広大な青い湖がぽっかりと顔を出す。ここはダムのある場所から離れていて、木々の中に横たわる湖の長々した姿を見ると、前人未到の地にやってきたかのようだ。

 ここまで来たのは初めてで、ふだんはダムに近い橋の辺りまでしか行かないので、誰かが必ずほとりでごろ寝していたりするが、今日は他に誰もいない。落ち着いて休みを満喫できそうだ。これは私の仕事がサービス業で、平日に休んだせいもあろう。

 チャリを停めて、ゆるやかな傾斜の湖岸に下りようとした、そのときだった。湖の向かって左端の方に何かが長々と伸びているのに気づいた。

 橋だった。


 幅が狭いのにやたら長く、湖水の上を延々横切り、その先は向こう岸に生い茂る木々の葉の中に消えている。なんだろうとそっちへ行ってみると、橋の入り口が岸に掛かっていた。

 異様な橋だった。ただの狭い桟橋なのだが、周りを金網でぐるっと、不必要なくらいに厳重に囲っているのである。まるで爆発物とか、放射線などの危険な物質を扱う施設のようだ。

 先を見ると、湖上をずっと伸びてカーブし、私から向かって左側から垂れ下がる膨大な木々の葉に埋没して、見えなくなっている。桟橋が左の岸から数メートルしか離れていないせいで、岸に立つ木々の葉に隠れているのだが、向こうに行くには左の岸を周った方が早そうだから、あまり意味の無い橋だった。

 金網に覆われた橋が長々と湖上に伸びている、そのさまは、まるで大蛇だった。しかし、先が見えないというのが面白かった。

 ちょっと渡ってみようか、という気になった。

 向かいの土手に、古そうな板張りの茶屋があるが、今日は営業していないようだから、気にすることはない。人目があると、こんなところには入りにくい。


 目の前で見ると、金網で囲われた入り口は、まさに蛇が大口をあいたように、ぽっかりと陰気な口をあけていた。ちょっと怖い気がしたが、入り口をふさいでいないから立ち入り禁止でもないようだし、途中で穴にでも落ちるようなことはなさそうなので、かまわず足を踏み入れた。

 幅は近くで見るとやはり狭くて、一メートルちょいぐらいしかなく、大人二人がやっとすれ違える程度だ。足元は木造の橋なのに、右も左も、上にまで、白い金網が四角に張り巡らされていて、天井までの高さが二メートルほどしかない。完全に通路といってよかった。

 金網は間近で見るとかなり年季が入っており、ところどころ皮が剥けてよじれ、中から赤さびた鉄線がぞろぞろむき出している。周りも金網、天井も金網がびっしり張り巡らされ、なぜこんなに厳重になっているのか、と疑問に思った。

 足元は丸太をつないだ普通の桟橋であり、おそらくあとから周りに網を張ったのだろう。遠くから見て、渡る人の姿は見えるようだから、そんなに危ないこともなかろうが、こうも狭苦しい通路を延々と進むのは心細い。


 しかし、少し風が吹いて、網にかかる木の葉がさわさわと優しい音を立てだすと、それはなんともいえず心地よく、そんな不安は静まってしまった。右の広い湖面を見ると、午後の陽気に輝くさざ波がゆっくりと返していて、見とれるほど美しく、平穏だった。このまま時が止まればいいと思った。

 静かだった。改めて、いいところだ、と思った。

 進むうち通路が曲がり、枝葉の海に入る。周りをおびただしい葉にすっぽりとくるまれて周囲が陰り、外界がよく見えなくなる。まるでテーマパークか遊園地のアトラクションだ。ちょっとわくわくする。子供を連れてきたら喜びそうだ。


 百メートルも歩くと、また少し不安になった。長い。ちゃんと向こう岸に着くのだろうか。着かないことはなかろうが、どこでもいいから、とにかく地表に出られれば、それで良かった。時おり現れるカーブも、けっこう急で、しかも木の葉で埋没しているから、先が全く見えなくなる。

 おかしい。同じところをぐるぐる回ってやしないか。曲がりすぎだ。

 いぶかると、不意にそれが、前方に現れた。

 女だ。


 きゃしゃで細く、紺のワンピースらしきものに身を包んだ若そうな女が、私の数メートル先を、長い髪とスカートをゆらして、コツコツと歩いていた。ほっとした。ほかに誰かがいるのなら、大丈夫だ。きっと向こうへ渡れるはず。


 安心して進んだが、困ったことが起きはじめた。女がときどき急に立ち止まっては、こっちを振り向いて、鋭い目でにらむのである。私は大柄ではないが、背は普通の男よりは高いほうだ。こんな狭い通路で、後ろからごつい男に来られたら警戒するのも分かるが、なにもそんなに恨みがましい目でいちいち見なくてもよかろう、と思った。

 道でそういうことがあった場合、女が気を利かせてどこかのショウウインドウでも眺めるふりでもして、男を先に行かせてやる、というのを聞いたことがあるが、ここではそれも出来まい。そこで、こっちが気を利かせて、ちょくちょく立ち止まり、金網を覆う緑の葉でも見ているふりをして先に行かそうとしたが、女のほうも立ち止まって、変わらずこっちをにらみやがるので、困った。

 なんのつもりだろう。

 女は怖い顔はしていても、細面で鼻がすっきり通った美人に見える。いっそ追いかけて話しかけてやろうと思ったが、それでは怪しい奴の見本だし、ここからでかい声で呼びかけて不審に思われないほど陽気なキャラでもない。あきらめて、このまま行くしかない。


 しかし嫌な感じだった。

 疑われているのが嫌というより、もっと別の、女の顔つきに、なにか不吉というか、気味の悪いものがあった。時おり向ける刺すような視線は暗くて陰鬱で、日陰のせいもあるが、顔色は緑がかった蒼白い色をして、能面みたいだった。曲がり角で姿が消えるたびにほっとし、また現れると、嫌な気持ちになる。なぜそう何度も見るんだ、やめてくれ。

 そう思ったが、イライラするより、むしろぞっとしてきた。女の顔は、振り向いてこっちを見るうちに目が見開き、夕闇に黒い雲がたれこめていくように、次第に深い恨みのような影がさしてきた。投げかけてくる刺すような視線は、そのうちとがめるような重苦しさが増し、いっそう不吉に、まがまがしくなり、しまいには、完全に憎悪の目になった。

 もちろんこっちは相手を知らないし、なにか気に触ることをした覚えもない。ただ後ろを歩いているだけだ。男だから怪しいので恨むというのは、あまりに理不尽すぎる。

 しかし、こんな狭い通路じゃ、そう思われても仕方ない気もする。こんなところに入らなきゃ良かった。といって、今さら戻りたくない。前を行く相手は確かに気持ち悪いが、歩いていけば、いつかは出口に着くはずだし、ここまで来て、わざわざ後戻りするのはシャクだ。とっとと渡りきってくれ、俺もそのあとすぐ消えるから。

 そう思い、変な女にちょくちょくにらまれながら、金網に囲われた桟橋を渡る、という奇妙な行動を、やむを得ず続けた。


 また女が曲がって消えた。自分も曲がった。とたん、あまりのことに足が止まった。

 行き止まりなのだ。


 目の前に黒ずんだ板張りの壁がでんと立ちはだかり、もう道が無いことを知らせている。その先には暗い湖面が横たわり、あざけるように、かすかなさざ波を打っている。壁の向こうは木が覆っていないので前方が見えるが、どこまでも水ばかりで岸はない。なんという橋だろうか、ここまで延々歩かせておいて、いきなりどん詰まりとは。

 だが、それよりも背筋の凍りつく事実があった。女がいないのだ。


 バカな。自分のすぐ前を曲がったのだから、ここにいないはずがない。しかしここには、彼女のあの細身の影も形もないのだ。

 どこかに出るところでもあるのでは、と周りをあちこち調べたが、金網は橋の周りをがっちり覆っていて、人の出るような隙間はない。よしんば出られたとしても、四方どこにも深緑によどむ水しかない。水深は数メートルはあろう。ここから人間がどこかへ姿を消すことは、不可能である。つまり、あれは――。

 あれは、人間ではなかった、ということだ。


 あの女の気味悪さが思い出されて、ぞっとした。唐突に、全てに合点がいった。あのかもし出す不吉さ、異様な違和感は、生きた人間のものではなかった。あれは暗い死のオーラだ。死者のみが発する悪意と怨念に満ちた恐ろしいベールだ。それをまとっていたあいつは、この世のものではなかったのだ。


 ここにいるわけにはいかない。慌てて向きを変えて駆け出した。踏む丸太が、どん、どん! と鈍い音を立てて、不安をあおる。一刻も早くここから出なくては!

 何度もカーブを曲がる。だいたい、こんなに曲がるのがおかしい。そして、周りがこんなに見えないのも、おかしい。岸からどこまで木の枝が伸びているのだ。幹が腕のように伸びて、枝が指になり、この橋をがっちりと掴んでいるのか。

 知らぬ間に風が強まり、橋を覆う葉がざあざあとゆれている。握る指を動かして、今にも潰すかのようだ。まるで嵐だ。

 なにもかもが恐ろしかった。早く入り口へ行くんだ。大丈夫、急げば、すぐ着くはず。

 全身冷や汗に満ちて、とにかく走った。


 あるカーブを曲がったとき、思わず立ち止まった。十数メートルほど向こうから、女が歩いてくる。

 さっきの女だ。紺のワンピに身を包んだきゃしゃなロンゲの女。なぜなら、顔が全く同じなのだ。間違いなく、さっき私の前を歩いていた、あの女なのだ。だが、それは絶対にありえない。さっきあいつは、通路の行き止まりの方へ歩いていったではないか。それが、また入り口からこっちへ歩いてくるなど、あるはずがない。つまり奴は、あの行き止まりで消えて、また入り口に現れ、ここまで歩いてきた、ということだ。

 これで確実になってしまった。奴は人間でない「何か」だ。


 女はさっきと同じ鬼のような恨みの形相で、こっちへゆっくりと歩いてくる。

 どうする。

 戻るわけにはいかない。あの行き止まりまで戻ったら、きっと恐ろしいことになる。奴もそこまで来て、追い詰められることになる。そうしたら何が起きるか、想像するのも恐ろしい。

 だがどっちみち、この幅一メートルほどの狭い通路で逃げ道はない。あんなのとぎりぎりですれ違うなど、正気の沙汰ではない。

 奴は、数メートル先まで来ている。


 ところが、妙なことに気づいた。奴は、きっと目を細めて何かをにらんではいるが、前から来るくせに、私の顔を見ていないのだ。視線は少し上のほうを見ており、私からは、それている。

 そのうち、立ち止まって後ろを振り向いた。そして数歩いくと、また振り返る。行動が、さっき私が奴の後ろを歩いていたときと、まるで同じなのだ。

 そうか。やっと分かった。

 奴は、私を見ているわけではなかったのだ。


 聞いたことがある。この世に未練を残して死んだ者は、死んだ場所に霊となって縛りつけられる。そして、死ぬ直前に行った行動を、延々果てしなく繰り返すという。

 この女も、ここで死ぬ前に行ったこと――おそらく、入り口からこの通路に入り、歩いて、ときどき後ろを振り向く――という行動を、ただ死後に繰り返しているだけかもしれない。

 それなら、この幽霊は私のことは眼中にないわけだから、なんとか気づかれずにすれ違うことが出来るかもしれない。そう思ってもやはり恐ろしいが、ここはそう信じるしかない。


 私はできるだけ通路の右端に寄り、金網が外へ広がるほどに体をぐいぐい押し付け、腹を出来るかぎり引っ込めた。相手がすれ違ったら、あとはダッシュで逃げるだけだ。

 女の幽霊が近づくにつれ、冷や汗が額を流れ、心臓がどくどくと高鳴る。全身が緊張で石のように固まる。

 敵は後ろを見つつ、ついに目の前に迫った。

(行ってくれ)(このまま行ってくれ……)

 祈りながら顎を引き、薄目をあけ、見ないふりをして、ちらと盗み見する。

(よし、こっちを見ていない)(いいぞ、このまま……)


 だが次の瞬間、心臓が止まりかけた。

 女は私の真横で、とつじょぴたりと止まったのだ。いや、悪いところで止まっただけかもしれない。後ろを見て、また歩き出すはずだ。そう、そのはずだ。そのはず――。

 ところが、女は動かない。

 全く、動かないのだ!


 女の体は、ぎりぎりで私の胸に触れず、左向きの陰気な横顔が、今、私の目の前にある。それは目の前で見ると能面というより、くすんだ彫刻のように固くこわばり、蒼白く血の気のない肌は生きた人間のそれではない。


 風が周りの葉をかさかさ揺らすのに、女の長い髪は垂れたまま、写真のように微動だにしない。この世のものなら、こんなことはありえない。

(早く行ってくれ!)

 恐怖で死にそうだった。膝が震えそうになるのを必死で抑える。

 そのとき、女の向こう側の腕が、ぐぐっ、とゆっくりと持ち上がるのが見えた。その先にある、ぎらりと光るものを見たとき、私は全身の血が凍りついた。か細い手が握り締める、その細長いものには、一面べったりと真っ赤な血がへばりつき、先端から、たらたらと糸を引いて、足元へしたたり落ちている。鋭くぎらつく刃先から垂れる赤く粘った玉は、まさに彼女がたった今、誰かを殺したばかりであることを告げている。

 見れば、女の着ている紺の服も、そこかしこがどす黒く染まり、返り血を浴びていると分かる。なのに、この至近距離から、血の匂いなど全くしないのだ。まるで悪夢を見ているようだ。


 女は肩ぐらいまでナイフを振り上げると、その顔がなんと、いきなり、ぐるん! と、こっちを向いた。

 心臓が止まりかかった。


 その恨みに満ちた上目の目は、今や間近で私をにらみつけている。口元が悪意にゆがむ笑いを浮かべ、ゆっくりと、ひらかれた。これ以上ないほどに低く、恐ろしく、ひしゃげた声がした。あの世のものの声だ。

「見てないと――思ったか!」


 裂けるほどに口元を吊り上げ、嘲る。ああ、こいつはやはり、俺を見ていたのだ。最初から、初めて俺が見たときから、こいつは、こうするつもりだったのだ!

 そして体も向きを変え、刃物を大きく振りかざして、怒鳴った。

「死ぬんだよ! お前は、ここで、死ぬんだよ!」


 そのあとのことは、おぼろげにしか覚えていない。私はあらん限り絶叫し、ただ狂ったように走り出していた。通路を死に物狂いで駆け、気づけば、入り口から岸に出ていた。走るあいだじゅう、後ろで、ひゅんっ、ひゅんっ、と風を切る音がしていた気がするが、はっきりとは分からない。ただ慌てて自転車に飛び乗り、人や車に当たりそうになりながら、なんとか家に帰れたのは確かである。


 着ていたシャツを脱いで見て、ぞっとした。背中の肩の下あたりのところに、真横に数センチほどの切り込みがいくつも入り、背中の皮膚も薄く切られ、うっすら血がにじんでいたのである。

 奴は橋の入り口寸前まで追ってきたのだ。あのとき、後ろで足音はしなかった。おそらくあの女は、空中から私のすぐ背後に迫っていたのだ。

 橋がもう少し長かったら、きっと殺されていただろう。だってあいつ、「殺す」とはっきり言ったではないか。

 二度とあの付近には近づくまい、思い出すまい、と思った。



 だが、数日たって落ち着いてくると、あの橋のことが気になって仕方なくなった。

 翌週の休みには、再び自転車であそこへ向かっていた。自分と同じように恐ろしい体験をした人が、きっとほかにもいるはず。放っておいたら、これからも被害者が出る。そう思うと、いてもたってもいられない。すでに何人も殺されているかもしれないのだ。


 先週と同じように、水道道路を通ってわき道から森に入り、自転車を押して生い茂る木々の間をぬっていく。すると唐突にひらけて、青い湖がぽっかりと顔を出す。

 ところが、湖の左端を見て驚いた。

 橋が――

 ないのだ。


 場所を間違えたかと思い、近くまで行ったが、あのとき見た向かいの土手に、同じ板張りの茶屋があるから、ここで間違いない。今日はあいていて、痩せ型で気のよさそうな、タオルを首に巻いた爺さんがいたので、声をかけてみた。平日の昼で客もいないし、彼は店先に出ている色あせた木組みのテーブルと椅子を雑巾で拭いていた。

「すみません、ここに橋があったと思うんですが」

「はし? ああ、橋ねぇ」

 こっちへ向き直り、彼は機嫌よく、しかし驚くべきことを言った。

「店の前にあったよ。はっきりいって、いらん橋だったけど、市が決めたらしいし、ま、客寄せだな。こんなとこに建てたって俺んとこに客が来るだけで、経済効果はなかったと思うけどな。

 ところがさ、市の予算が無くなっちまったそうで、向こう岸に着く前に、工事が中止になっちまったんだよ。いい加減だよ、ほんとに。

 そんなわけで、あの桟橋は途中で終わっちまってて、長々と歩いてった奴は最後にバカを見る、って具合だった。しかもほら、あんなに脇から木が生い茂ってるだろ。あん中に入っちゃって、先が見えねえんだ。ずいぶん苦情が来たよ。『この先、行き止まり』って立て札が出てからは、切れ目までわざわざ行って釣りする奴ぐらいしか、あんなとこに行く奴はいなくなったがな。


 ところがだ。

 それから少し経つと、今度は立て続けに自殺が起こってな。橋の先まで行って、そこから身を投げるんだ。最初に死んだのが若い女で、理由は分からんけど、橋のいちばん先に座って、ナイフで自分の喉をかき切って、そのまま水に落ちたんだ。身の毛もよだつようなことするよな、ほんと。

 それからだ、何人も後追いみたいに自殺者が出るようになったのは。地元は、しょうがねえから橋の周りをぐるっと金網で囲っちまって、どん詰まりのとこは金網の上から板まで打ち付けて、誰も身投げできないようにしちまったのよ。入り口も板張ってふさいだから、俺は自殺者がのこのこ入ってくとこは見たことないけどな。


 自殺した奴は、サラリーマンとか年寄りとか、誰もお互いに関係ないんだよ。きっと、なんかあったんだな、あそこには。最初に死んだ女がまだそこにいて、そいつらを呼んだのかもしれん。俺は幸い、大丈夫だったがな。

 幽霊とかは見たこともねえし、俺にはそういう能力てえのは無いと思うんだが、それでも店からあの橋を見ると、なにか気持ち悪かったもんだよ。雰囲気がおかしいんだよ。なにもしてないのに、なんだか後ろめたい気になるんだ。誰かに恨まれてるような、ね。


 あれがやっと取り壊されたのは、もう三年も前さ。実際、無駄だったし、入り口から無理やり入るバカが後を絶たなくてな。幽霊が出る名所だってんで、若いのが騒ぎに来るんだよ。俺は夜はここにいないからいいが、近くには民家もあるし、はた迷惑だよ。俺は女の幽霊なんて一度も見たことないがな――おや、どうした、顔色が悪いぞ。

 まあ、あんな橋、無くなってほっとしたよ。


 ただ、今もたまに、ほら、こんなふうに涼しい日に湖面を眺めるとな、あの桟橋があった場所から、あの嫌な感じがしてくるんだよ。

 今もこうして見てると、感じるんだ。あの女、案外、まだあのへんをうろうろしてるのかもな。次の奴を探してさ」



 八、「湖の橋」事件、星野小百合による追記


 以上は、とある会社員の男性が残した手記の全文であり、この事件の依頼は、彼の母親から引き受けた。彼がある日の早朝、自転車で失踪し、ここに書かれているT湖周辺を警察が隈なく捜査したが、見つからなかった。この手記の内容から、警察が湖のほとりにある茶店の主人に写真を見せて質問したところ、確かに彼だと言い、話した内容も手記のものと一致したが、主人はそれ以上のことは何も知らなかった。

 ここはかつて自殺の名所であり、幽霊の噂も絶えなかった場所であるが、この手記に書かれている内容はあまりに非現実的だというので、結局、母親に返され、捜査も打ち切られてしまった。そこで母親は、最後の頼みの綱として、霊能者である私に依頼してきたのである。


 T湖の問題の橋のあった場所に行ってみたが、残念ながら、霊の痕跡のかけらも発見できなかった。しかし、ほとりの一部にまがまがしい殺気が残っており、最近までかなり強い怨念をいだいた霊がここにいたことは確かだった。

 失踪者の男性には霊感があったものと思われる。おそらく彼がここへ来たときに、まだほとりに女性の悪霊が張り付いていて、彼の持つ周波とつながり、橋が現れたのだろう。彼はまんまとおびき寄せられ、危うく霊に殺されかかったが、すんでのところで逃げおおせた。そこまでは、手記に書かれている通りである。


 しかし、そのあとが分からない。いったん助かったあと、彼は別の日の朝早く、家族に何も告げずに自転車で家を出て、そのまま行方不明になっている。そこから先は手記に書かれていない。またT湖に行ったのかもしれないが、その痕跡がなく、茶店の主人もその後、彼を見ていないという。

 女性の悪霊は、あきらかに死んだ地に縛られる地縛霊だが、それが消えているということは、成仏していることになる。しかし、この湖に漂う嫌な感じからは、とてもそうは思えない。デパートの母子のように、浮遊霊に変化して、どこかへ消えたのだろうか。それが、失踪した男性を追っていったのかもしれないし、逆にまた彼が誘われて、霊を追いかけたのかもしれない。いずれにしろ、これ以上考えても憶測の域を出ない。またも迷宮入りである。


「凄腕って聞いたけど、たいしたことないんですね」

 依頼者の母親に恨みがましく言われて、返す言葉がなかった。その晩は寺の自分の部屋に引きこもり、寺務員さんたちに心配されるほど飲んで泣き明かした。慰められるほど惨めさがつのった。

 しかし、窓から見える夜明けの空に、かつてないほど不穏な光の漂うのを感じ、私の涙でぐじゃぐじゃの目は見開いた。

 おかしい。やっぱり、おかしい。

 何かが起きている。この世ならざるものたちが、以前よりもはるかに強大化し、この世を統治しはじめているのではなかろうか。それとも、こんなのは酒のせいで、自分の失敗を事象のせいにしたがる、私のただの身勝手な責任転嫁だろうか。

 水を被りに行った。

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