米こぼす幻の光は今も
皆さんは「幻の光」という映画をご存知でしょうか?
幻の光の原作者は、宮本輝さんです。
映画としての幻の光は、
実はこの作品、これまで僕が最も多く見た映画でもあります。たぶん、七◯回ぐらいは見ています。
というのも、この映画には、独特の謎があるからです。
序盤、舞台は関西のとある都市です。そこで一組の夫婦が貧しいながらも慎ましく、幸せに暮らしています。
ですが、ある時、重大な問題が発生します。ここに謎があります。僕は、浅野忠信さん演じる夫が何故そうなったのか? が解らなかったのです。
で、舞台は変わり江角マキコさんは能登へと移り住みます。そこで能登の景色と穏やかな人々に囲まれて淡々と暮らしてゆくのですが……。
ラストシーンの能登の海岸の夕焼けは、圧巻の美しさでした。そこで交わされる会話も、切なくて深みがあって、素晴らしいのです。まさに芸術映画と言って良い作品です。
実は、この映画を僕に勧めてくれたのは、以前、流れ星の俳句の回で登場した「友」でした。彼は幻の光という映画を深く愛しており、日本映画に明るくない僕に勧めてくれたのです。僕も、自分でもどうかしてると思うぐらい、何度もその映画を見ました。
で、それから三年後に「友」は事故で他界してしまうのですが、彼の他にも、僕にはもう一人、親しい友人がいました。当時、相棒みたいな存在でした。仮に、S君としておきます。
S君が是枝裕和監督のドキュメンタリーゼミに通っていた縁で、僕も、何度かチラッとだけ、是枝監督と会った事があります。
ある時、山形国際ドキュメンタリー映画祭の打ち上げで、チラッとだけ是枝監督に会ったのですが、 S君と是枝監督との会話の流れで、幻の光の話題になりました。 S君は幻の光について称賛したのですが、是枝監督は、「幻の光はもういいよ。あんな作品」みたいな事を口にしておりました。
まあ、今になって思うと、照れ隠しだったのだと思います。過去の栄光に酔うのはカッコ良い事だとはいえませんし、未来を見据えてまだまだ素晴らしい作品を作る。という、気概の裏返しだったでしょう。天狗にならないよう、自分を戒める意図もあったのだと思います。
ただ、その時の僕は、無性に腹が立ってしまったんですね。
じゃあ「友」はどうすりゃいいんだよっ! って。
「友」は幻の光という映画を愛していました。彼はもう、新しい映画を観ることは出来ません。彼にとって幻の光は最高の映画であり、創作者を目指す彼の人生における目標みたいな作品でした。それなのに、監督のあんたがそんな事を言ったら、あんなに幻の光を愛した「友」の気持ちはどうなるんだ! と、思ったのです。
で、噛みつきました。
「幻の光をあんな映画なんて言わないで下さい!」
突然怒鳴られて、是枝監督は困惑しておりました。当然ですね、よく知らん奴に突然噛みつかれて、なんで噛みついたのかも説明しませんでしたから。たぶん、客観的には、僕はだいぶヤベェやつだったと思います。
若気の至りです。なので、是枝監督にはこの場を借りて陳謝します。上記のような理由があったのです。ホントすみません。
そして時は流れ、今年。(令和六年)元日に、能登を巨大な地震が襲いました。多くの人が被災され、たくさんの人がお亡くなりになりました。僕も衝撃を受けました。
あんなに繰り返し観た能登の美しい風景が変わり果て、そこに住まう人々が悲しんで泣いている。
胸を締め付けられます。
地震のニュースを目にしてから、数年ぶりぶりに映画のDVDを引っ張りだして、「幻の光」を鑑賞しました。
なんとも切ない映画の、それでいて美しい光景に胸を打たれました。映画の能登海岸は燃えるような夕日に染まり、その彼方では、幻の光が人々の魂を誘っているような、そんな幻想的な光景が脳裏に浮かびました。そこに生きる人の姿が瑞々しければ瑞々しい程、現実に起こっている事の大きさを突きつけられる気がします。
涙が止まりませんでした。
季語は「
正月の季語となります。俳句では、お正月は基本的に楽しい物ですから〝涙〟という単語を嫌われます。そこで、米を涙に例える表現が、正月の涙という意味で使われるようになったそうです。
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