3.斜陽にある息吹き
「よーう。パメラ。聞いたぜぇ」
「む」
人の頭でごった返すごみごみした冒険者ギルドの中、まるでごみのような声が聞こえた。
例の、むさい髭面だった。
「なによ」
「おおっと。ご機嫌ナナメだな。しょうがねぇかぁー」
両手を挙げて無抵抗の意を示すも、ニタニタとしているその顔を今すぐぶん殴ってやりたかったが、伝説の勇者の末裔パメラ・エウリカは比較的人格者として通っているはずだ。我慢する。多大な努力を用いて我慢する。
「貴族街の豪邸で魔族とひと悶着あったんだってな? 家の者は殺され、しかも取り逃がしたとか」
「そうですが?」
もはや広く知れ渡っていることだ。
それをわざわざ確認入れてくるだなんて、なんていやらしい奴。
「大失態だぜぇ。冒険者ギルド始まって以来と言っても過言ではないな」
嘘吐け。それは過言だろ。
いや、自分の失態が勝手にランク付けされてることに対する苦情であって、責任を逃れたいわけではないので念のため。
「そう。言い訳は出来ないですね。それで?」
「やっぱり、薄気味悪い魔法使いが伝説の勇者様の足を引っ張ってんだろぉ」
いや。どちらかといえば、足引っ張りは私のような気もするんだけど、それを言うのも、認めるのも癪なので、やっぱり髭面を睨み返す。
「また、それ?」
「あぁん?」
「別にリリィは足引っ張りじゃないわ」
「はん。どーだか」
「あのね――」
ふぅ。と、これ見よがしな溜め息を吐いて、牽制。
同時に私自身の頭も冷やす。
「私をからかうだけなら別に構わないけれど、友達のことを悪く言う奴とはまともに会話する気になれないの」
「そのお友達を選べって、アドバイスしてやってんだよぉこっちは」
「大きなお世話。だからアンタのパーティに入れって言うのも言語道断」
「なにぃ?」
「もしアンタと組んでたら、あの日は落とし穴で即死してたわよ」
いやまぁ。
それを言っちゃう自分もどうかと思うのですけれどね。
髭面をもうひと睨み。今日はここに居続けることも難しそうなので、本来の目的――お仕事探しだ――を一切せず、冒険者ギルドを後にした。
星暦百九十五年五月。その上旬。
貴族街の大富豪オルフェ邸の魔族襲撃事件はエウリュメテス中を震撼させた。
地方紙の紙面は連日大賑わい。その前月に逮捕された錬金術師との癒着関係を取り沙汰する記事もあったが、なにぶん本人が既にこの世の人ではないので真偽のほどは定かになっていない。
「はぁ……もう、なんだかなー」
エウリュメテス・マルシェ内にあるとあるカフェのテラス席。
ギルドを出たあと、リリィと合流して少し遅めの朝食と相成った。ここに来る前、露店で購入した新聞を放り出し、その気もないのに皿の上の葉野菜を突き、ぼやく。
「パメラ。行儀悪い」
私が投げた新聞を器用にキャッチしながら、リリィ。
店内には、私たち以外の客がいない。
「いいじゃないのさ、ちょっとぐらい」
くさくさした気分には理由がある。
「錬金術師に大富豪様。立て続けに、まるで私たちが死神みたい」
「みたいだけど、そうじゃないし、錬金術師は死んでない」
「そうだけどさー」
冒険者ギルドから貰った仕事も失敗続き――いや、紹介された仕事がロクでもないからこんなことになっているので、それ自体も私が気に病むことではないか。
それにしても、オルフェ邸での事件は痛恨の極みだった。
まさか、あの執事クェイトが魔族が化けた姿だったとは。怪しげな地下の実験室で主たるオルフェを殺害し、いずこかへ逃走。相手が魔族ということもあり、下手人の追跡は躊躇われているのが実情だ。
現場に居合わせただけとはいえ、自分たちふたりはよく無事だったものだ。
「私たち捕まらなくて済んで良かったよねー」
「随分疑われたけどね」
状況だけで言えば、お屋敷地下の殺人現場に、冒険者がふたり。
普通に疑われないわけがなく。
でも、オルフェの傷口が人間によるものではないことが分かり、行方が分からない執事と私たちふたりの証言も相まってすぐに疑いは晴れた。そういえば、大仕掛けな落とし穴と待ち構えていた魔物の件も有利に働いた。
おかげで、冒険者ギルドの紹介で請けるはずだったオルフェからの依頼は詳細不明で、消滅扱い。客観的に見て、被害者側でもある私たちは何も悪くないのだが、二件続けて依頼を完遂できていない事実は非常に具合が悪い。
それに今頃、伝説の勇者様の末裔のくせに魔族を取り逃がしやがって。なんて陰口叩かれてるだろう。
特にあの髭面を中心に。
絶対。間違いない。
「憂鬱です」
「そうね」
「七十五日も待ってらんないよね」
「七十五日?」
「噂」
「ああ、なるほど」
普段から人目を憚らないリリィは、割と本気でどうでも良さそうだった。
だが、何度でも言うが、冒険者は信用第一の商売。どうでも良いと割り切れるほど、私は成熟していないし、また多少のことでは揺るがないほどの評判が私たちに付いているとも思わない。髭面の言うことが真実になってもらっては困るのだ。
人の噂も七十五日。割と長いぞと思うぞ。
「何かないかな。一発逆転の奇策」
「名声がエウリュメテス中に轟き、かつお金がたんまりもらえるような?」
「そう。それ」
「あったらみんな飛び付いているね」
「……ですよね」
そして、そんなことは分かってる。
ただ、分かっていても言わずにはいられないだけだ。
「いた! パメラッ!」
切羽詰まった声が私の真正面、つまりはリリィの背後から聞こえてきた。聞き覚えのある男の声だったが、瞬間的にリリィが眉を顰めたのは黙っておこう。
「どうしたの。アルバート」
まだ朝市の時間帯だ。いつもなら青果店のテントでマダムたち相手に果物売り捌いてる頃だろうに。
「どうしたも……こうしたも……ちょっと、はぁ、はぁ……」
テーブルの前で崩れるように膝を落とした彼は見るからに汗だくで、それほど急を要する内容であることを察した。だというのに、肩で大きく息を繰り返し、しばらくまともに喋れそうにない。
「あの……飲む? 私の飲みさしだけど」
ちょっと迷ったが、グラスに半分ほど残っていたレモネードをアルバートのほうへ寄せる。
アルバートもそれを見て逡巡したようだが――悪いと一言断って、一気に飲み干してしまった。リリィの表情がもう一段階険しくなったので、テーブルの下でこっそり足を小突く。
「……ふーう。助かった……ありがとう。新しいの注文してくるよ」
「あ、いいよ。それ以上にいつも果物オマケしてもらってるんだし」
「いやいや、そんな申し訳ない」
「いやいや、申し訳ないのはこっちだってば」
「いやいや――」
「いやいや――」
バァン、と。
リリィがテーブルを叩いて、私へともアルバートへともつかない曖昧な方を向いて、低い声音で一言。
「で。なに」
さも、ふたりの朝食の時間を邪魔しやがって。とでも言いたそうだった。
「ああ、そうだ。すまない。本題だね。パメラと言ったけど、実は相方ちゃん向けの話……だと思うんだ」
「は?」
ここに来て、リリィの険しい表情が最高潮に達する。もう一回、足を小突いておいた。
「実は、このマルシェの取締役――グルガンさんというんだけど。そのグルガンさんところの息子さんが、数日前から意識不明の昏睡状態が続いていて」
「……医者の出番でしょ。それは」
にべもなく言い放つリリィ。
言い方に棘があるとは思うけれど、私も同じことを思った。
「そうなんだ。でも、何人かの医者に診てもらっても原因が全く分からないとかで」
「そう。ご愁傷様ね」
まだ早いと、アルバートが苦笑いを浮かべる。
「診てもらったお医者さんの中に魔法をかじってる人がいてね。その人が言うには、非常に強力な呪いのようなものがかけられてるんじゃないかって」
「……呪い?」
「ああ。それで、その人も詳細は分からないとかで、相方ちゃんに少し見てもらえないかと」
「ふぅん……」
呪いの一言で興味を惹かれたようだったが、少し黙考したかと思えば、すぐにテーブルの上の更に視線を戻し、フォークを掴んだ。なんだか、もう冷めたように見える。
「リリィ?」
「悪いけれど。無理」
「えぇ、相方ちゃんでも、かい……?」
正直、冒険者ではないアルバートがリリィの実力を目の当たりにしたことは一度もない。いつも、私が聞かせる魔法使いとしての像が彼の中にあるだけだ。誇張でもなんでもなく、実力的にはここいらの地域でも指折りだと、私がいつも言ってるから頼ってきたのだろうけれど――
「そんなこといわないで、リリィ。見てあげるだけでも」
助け船を出したつもりだったが、珍しくリリィは私にも冷たい目を向けた。
でも、話は続けてくれる気になったようだ。
「その魔法をかじった医者って、誰」
「え。ウチの本店の二軒隣にあるウィスタリア病院の院長先生だけど……」
「そう。知らないわ」
知らないのかよ。と、私とアルバートが同時に肩を落とす。
「専門家の医学的観点から原因不明。魔法を知ってる先生が言うには、呪い。言うのは簡単だね。だから、分からないってことよ」
「う、うん……? なので、リリィに見てもらえないかって話でしょ」
「そのナントカ院長先生がいい加減な魔法の使い手でないこと前提だけど。実力的に解除できない魔法だったというなら理解するし、あたしが見る価値あるかもしれない。でも、分からないと言ったのよね?」
「そうらしいけれど。僕もグルガンさんからの聞いただけで」
「この世の魔法体系はそう多くはない。現存で認知できる魔法は、駆け出しの魔法使いも熟練の魔法使いも同じ。経験の差は広さじゃない。深度に関わるの」
「えぇと……つまり?」
「つまり、理解できない、得体の知れない魔法や超常現象のことを総称して呪いと呼ぶのよ。その院長先生が分からないと言ったものをあたしが分かるということは、普通はないの。だから、無理」
「で、でも、リリィ、普通じゃないわけだし?」
と口にした瞬間、すごく睨まれた。ついでに、テーブルの下で足を小突き返された。
なんだよ。すごい魔法使いというのをちょっと茶化しただけのつもりなのに、そんなに睨まなくたっていいじゃん。
「そうじゃなくったって、何人もの医者がたらい回しにした後でしょ」
「言い方」
「ただでさえ、期待値高まってる状況でダメだったときの失望の度合いが尋常じゃない。あたしはそんなのに巻き込まれたくない」
「そりゃ分かるけどさ……」
ちらりとアルバートに横目を送る。リリィが言ったことは理解しているようで、すっかり消沈していた。
今度は私がリリィを睨む番だった。
根気よく。
しばし、視線を逸らさずそのままでいると、とうとうリリィが根負けした。
「……分かった。分かったわよ」
「さっすが、リリィ! 信じてた!」
「ありがとう、相方ちゃん!」
アルバートは意見を翻したリリィの両手を取って、ぶんぶんと振り回す。
「ちょ、ちょっと、止めて」
「僕、先に行ってグルガンさんに報告しておくから! あとから来てくれ!」
そう言うや否や、アルバートは一目散に駆け出して行った。
「あ、ちょっと待……!」
って――と、私が止める間もなく。
いやいや。そのマルシェの取締役グルガンさんのお宅はどちらなのですか。我々存じませんよ。アルバート。
その後、案内が必要だったと気付いて引き返してきたアルバートに対し、リリィはこちらからお宅訪問ではなく取締役をカフェに呼ぶよう伝えた。
曰く、
「呪いだって言うけれど、未知の感染症である可能性も否定できないから」
「なるほど。でも、それだったらここに来てもらっても一緒なのでは」
リリィは咄嗟に目を逸らす。
感染症のホストとなる息子さんと多く接触しているグルガンさん。そして、グルガンさんに接触したアルバート。今アルバートからその話を聞いていた私たち。果ては、今マルシェを行き交う多くの人々。みんな不味いことになるのですが。
あまり、ドラスティックなことを言わないで欲しいと思ったが、リリィはそれっぽい理由を付けて自分が動きたくないだけだな。と、横顔を見てそう結論付けた。
待つこと、一刻ほど。
アルバートと共に現れたのは、熊のような大男だった。そういえば、本店で見られるアルバートのお父さんも結構な大男だったが、マルシェにはそういう人が集まる傾向にあるのだろうか。
「グルガンです。よろしくお願いします」
と、見た目に反して、とても腰の低そうな第一声。
身体は大きいのに背が丸まっているせいか、余計にそういう印象になる。
「こんにちは。初めまして。パメラです。で、こっちが魔法使いのリリィ――」
「前置きはいい」
「……む」
だから、ちょっとぐらい愛想良くしろっての。
「早速だけど、貴方の息子。いつからなの」
「は?」
「いつから寝込んでいるの」
「は、はい。えぇと。一週間前からでしょうか」
「その前に変わったことは?」
「変わったこと、と言いますと……」
リリィの質問が必要最低限で、グルガンさんとの会話がうまく進まない。リリィが苛立ち始めてるのが分かるが、そんな直線的な言い方で付いていけるのは、私ぐらいなもんでしょうに。
「あの、寝込む原因になった心当たりはありませんか。例えば、変わったものを口にされたとか、どこかいつもとは違うところにお出かけになられたとか――」
「ああ。なるほど。そうですね。実はせがれが郊外の森の中で倒れていたのを旅の方が発見してくださって」
「森で――」
「倒れてた――?」
私とリリィが同時に身を乗り出す。
それは初耳だ。
「どこの森」
「街の東門から出たところ、アテルニタス森林です」
「アテルニタス森林……」
確かに、エウリュメテスの東にはそういった名の森林がある。
ただそこは魔物などの目撃例もなく、なんなら家族連れやカップルのピクニックなどが盛んな場所だ。徒歩でも往復半日とかからない。森の中の公園でお弁当を食べて、ちょっと遊んで、森林浴をして、日帰りするにはちょうど良い塩梅の距離。
なのだが――
「そういえば……その森、最近立ち入り禁止になっていたような。もしかして」
「はい。実はうちのせがれの件が原因のようで」
「パメラ。立ち入り禁止って?」
「いやね。冒険者ギルドの掲示板で見たのよ。昨日か、一昨日か。珍しいこともあるもんだなーって、あまり気には留めなかったんだけど。なるほど……」
危険生物が生息している疑いありで、封鎖されたということか。なら、そろそろ原因の究明と解決の依頼が張り出される頃かもしれない。
「最初、せがれは野生の動物か何かに襲われたのかと思って。でも、外傷などは全くなく」
「息子は何をしに森へ」
「絵描きを目指してましてね。その日も画材道具を持って出かけて行きました。夕方ぐらいでしょうか。市壁の警備隊から連絡がありまして、せがれが意識不明の状態で保護されたと」
「ふむ……」
「お願いです、魔法使い様! 何とかなりませんか! もう頼るところがなくて!」
言いながら、グルガンさんはがばっと膝を折り両手をついて、深々と頭を下げる。いわゆる土下座という奴だった。さすがに予想外で私とアルバートは顔を見合わせて目を丸くするし、さすがのリリィも焦ったようだ。
「ちょ、ちょっと、止めて。目立つから」
「お願いします! せがれを助けてやってください! お金なら何とかしますから!」
何とも言えない表情で、リリィが私を見た。静かにただただ見てきた。
これが巻き込まれたくないと言った、そのことなのだろう。ちょっと、分かった。うん、申し訳ない。
「お金の問題じゃないの」
「し、しかし――!」
「はぁ……」
顎に手を当てて空を仰ぎ見るリリィ。
ちょっとだけ、周りのマルシェの喧騒がうざったいなと思う時間が過ぎ、再びリリィが口を開いた。
「その、誰だっけ。ナントカ先生が呪いじゃないかと言ったそうだけど。その根拠は何かないの?」
「と言いますと……?」
「医学的観点から異常がないから消去法で呪いと表現したのか、それとも――」
「あ……あぁ、あります! ありますとも!」
「なに」
「その、せがれの首元に奇妙なアザが増えておりまして」
「どんな」
「赤紫色でした。複数の蛇が這うような模様をしていて。外傷はないと言いましたが、それが傷と呼べなくはないかも、なのですが……」
「そういうのを先に聞きたかった」
まぁ、そこはリリィに同意。
「面目ないです」
「それは元々あったものではなくて?」
「いえ。さすがに生まれつきのアザであれば、私も妻も把握しておりますし」
「複数の蛇が這うような、ね……」
何気なくそう呟いたリリィは、次の瞬間、自らの呟きで何か思い当たるところに至ったようだった。
眠たげな目元が一変して、手を口元を覆い隠し、聞き取れない程度の独り言をぶつぶつと繰り返し始める。
「……蛇……複数……もし……翼が……?」
「あの、リリィ? 良かったら、現物見せてもらいに行く?」
アザの現物って我ながら変な表現だ。
「いや。いい」
「なんでよ。見たら分かることも――」
私の言うことを遮って、リリィが続ける。
「一週間前と言ったわね」
「は、はい」
「まずい、か。痺れ切らす頃かも」
「は、はぁ……?」
「貴方たち。急ぎ冒険者ギルドに走って。立ち入り禁止って聞いたけれど、本当に誰も近づけさせないように厳命を」
リリィがアルバートとグルガンさんにそう告げる。
「あ、あの、せがれは……」
「助けてほしかったら言う通りにしなさいッ! パメラ、行こ」
「え、えぇぇ……?」
ぽかんと口を開けて、有り体に言って、ちょっとマヌケな表情の男性ふたりを残し、私も何が何だか分からずリリィに引き摺られながらマルシェを後にした。
◆◇◆◇◆
「あの、いいのですか。リリィさん」
パメラは何度も後ろを振り返り、気に病んでいる様子だった。
「なにが」
「森の入り口」
彼女は冒険者ギルドから派遣された見張りの警備員のことを言ってるのだろう。
あまりにもしつこく、頑として森の中に入れてくれようとしないので眠らせてきた。
「ギルドで正式な依頼も請けずに来たら、そりゃ向こうとしては突っ撥ねるでしょ。分かるわ。だって仕事だもの。彼はプロとして役割を全うしたのよ」
「そこまで分かってて、なんだかなぁ……」
警備員が陣取る正面の入り口を迂回して、道なき道から森へ入ることも考えたが、時間の無駄だとも思った。舗装こそされていないが、幾度となく踏み固められたこの道は獣道と表現するほど歩き辛いわけでもなく、また踵も沈み込まない。
結局、正面突破が一番早い。
青果店の跡取りとマルシェの取締役――ふたりとの話を切り上げて、あたしたちは件のアテルニタス森林にやってきた。
よくよく考えれば、封鎖地域に指定されているのだから、見張りの警備員ぐらい立たせているだろうし、ギルドに寄って正式な依頼状を取って来ればよかったかもしれない。なんて思ったのは、門を抜けて森の前までやって来た時だった。
「時間がないのよ」
「さっき、マルシェで痺れを切らす頃かも……とか言ってたよね。心当たり、あるの?」
背後から追いかけてくる声にあたしは頷く。
「おそらく、アイツだ」
「アイツ?」
「あの金持ち屋敷の執事」
「うっそ」
を言ったところで、あたしに得はないだろうに。
「元々あの執事――魔族の正体に心当たりがあった。それがさっきの話で確信に変わった」
「取締役の息子さんの首元に現れたっていうアザのこと?」
「そう」
赤紫色。複数の蛇が這うような模様。
それは、かつて堕天使が好き好んで使用した対象物をじわじわ嬲り殺す、まさに呪いという名に相応しい魔法だった。
「――ほら」
森が開ける。閑散とした公園が目の前に広がる。
普段であれば、家族連れがシートを敷いて、お弁当を広げているような広場だ。だから今は余計に物悲しく思える。
ここから森の更に深いところや、ちょっとした遊具などが設置されている場所に繋がる総合エントランス的なところ。
そして、この広場の一角、木製のベンチに腰かけている燕尾服の男がいた。この公園を無人だと錯覚したぐらいには気配がなく、あんな服を着ているくせに周りの景色と同化してしまっていた。
「アイツ!」
あたしと同じタイミングで気付いたパメラが飛び出そうとするが、手を上げて静止。
そこで、奴もこちらに気付いたようだった。
「随分と遅ぇなァ」
「やっぱり、お前だったか」
ベンチから立ち上がった執事はゆっくりとこちらに向き直る。
まだあの屋敷の執事クェイトの姿をしていたが、取り繕おうとしない口調からしてもはや隠すつもりもないだろう。
「――アザゼル。堕天せし穢れた悪魔め」
「待ちくたびれたよ。もう殺そうかと思っていたところだ」
誰を、と問いかけて思い直す。取締役の息子のことを言ってるのだ。
「そう。あれはやっぱり」
「ああ、分かり易くしてやったんだがなァ」
お前の耳に入るまで、随分と時間かかったな。と、執事が舌なめずりした。
「リリィ。どういうこと?」
「つまり、罠。あれは、あたしたちに向けられたメッセージだったってこと」
「アイツ――ッ!」
パメラが小さく唸る。
「アンタ、魔族のくせに人間の街に紛れ込んでどういうつもりよッ!」
「どういう、とは?」
「オルフェさんだって殺す理由なかったでしょうが!」
「ああ――」
執事は額に手を当てて、大きく肩を揺らし、笑う。
「何がおかしい!」
そんな関わっていないはずなのに、よく観察しているなと、あたしは心のどこかで感心はした。義憤で吠えるパメラに対し、最も相性の悪い相手といえる。
アイツは基本馬鹿だが、人を苛立たせることに関しては天才的だ。
「いや――割と酷い目に遭ったはずなのに、さすがは光の勇者の末裔様だな?」
「それとこれは別! 命を弄ぶような奴は許さないから」
「ほう」
すっと、波が引くように、奴が目を細める。
「あの富豪は死した配偶者の魂を微生物に乗せて保管していたぞ。命を弄ぶなとお前が俺に憤るのが道理だとすれば、お前の中でどんな帳尻合わせが行われている?」
「それ、は……」
「それに、俺はあの地下室でも言ったはずだがなァ」
「は?」
「命が何なのか。そんなことをお前が問うのか、てな。なぁ、リリィ・ベルゼビュート?」
「うるさい、黙れ。耳が腐り果てる」
この辺が際だった。
もう一言たりとも奴とパメラを喋らせてはいけない。百害あって一利なしだ。
「ハハッ! いいぜェ、実力行使でもな。分かってここへ来たんだろ?」
「なにが」
「たかが数日でもちったぁ腕を磨いてきたのか、って話だ。あのままで勝てると思ってんじゃねぇだろうなァ?」
「お前には関係ない」
「ククク……そうか――」
次の瞬間、執事の眼が赤光に輝き、
「よッ!」
大きく振りかぶって、投げ付けられた光弾がパメラの顔面を捉える。
着弾の勢いに引き摺られて、パメラは仰向けに倒れ込んだ。
そして、それだけで勝負は決してしまっていた。
「……パメラ?」
強そうな魔法には見えなかった。
石頭にヘッドバットされたような、強烈な痛みはあっただろうけれど、頭を消し飛ばされたわけでもなければ、首を捩じ切られたわけでもない。パメラだって咄嗟に防御ぐらいはしただろうし、悲鳴のひとつも上げることなく絶命するほどじゃなかったはずだ。
なのに――
(首?)
何気ない自身の思考に意識を絡め取られる。
首の、アザ。
「それが気になってんだろ?」
パメラに駆け寄り、その上体を起こした。
もう、息をしていない。彼女の皮膚が急速に土色に変化していっている。
彼女の首周りに赤紫――というよりは、赤黒い円環のアザが浮かび上がっていた。何も知らない者にとっては複数の蛇が這い回る構図にも見えるだろう。それは半分ほど正解で、これは七つの蛇の頭に六対の翼を併せ持つ堕天使アザゼルの象徴だった。
「さっきお前も言った通り、一週間前の若造は撒き餌だ。お前を呼び寄せるためのな」
「なに」
「対象を必ず殺すこの魔法は一度にひとりにしか発動できねぇ。新しく発動すれば、未完了のものはキャンセルされる欠陥持ちよ。従って、無垢な一般人はたったいま救われたってわけだ。偉大なる勇者様が身代わりになってなぁ!」
「今すぐパメラに掛けたものを解け」
「無駄だ。先日の若造に仕掛けたものは致死まで一週間程度の猶予を編み込んだが、今その女に仕掛けたものは即時発動のもの。この魔法の特性は詠唱に時間をかければかけるほど、即時性が失われるというまったく意味が分からない欠陥その二だ」
「――ッ!」
「つまり、その女はもう死んでいる」
「オマエェ……!」
二度目。
また油断していた。なんて、何の言い訳にも慰めにもならない。
「あと、大量に魔力を消費する。継戦能力に乏しいという欠陥その三だが……」
奴はこの期に及んで、何かを観察しているようだった。魔力を大量に消費したと言っても、まだ今のあたしよりはやれるはず。
なのに、奴はあたしとパメラを見ている。
ずっと、凝視されている――
「変わらんのか」
「……は?」
「厄介だな。錬金術という奴は」
背中が粟立った。
こいつは、こちらが思っている以上のことを、実は知っているのか。
「興醒めだ」
「ふざけんなっ!」
「別に構わんが。今のお前ひとりで俺の相手が務まるのか?」
「――ッ!」
「無理はするな。俺もアプローチを変える必要があるのかもしれない」
「なにを」
「また会おう。近いうちにな」
踵を返した執事の姿が森の景色に溶け込んでいく。
あとに残ったのは、正真正銘の森の静寂だった。
「くっそ……」
もうとっくに冷たくなってしまったパメラの身体を抱いて、唾棄する。
なんだ。なんなんだ、アイツは。
あの、堕天使め。
「アザゼル……アザゼル、アザゼル――ッ!」
汚らわしい堕天使のくせに。
この原初の魔王に喧嘩を売ったこと。死ぬほど後悔させてやる。
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