第28話 また僕の知らないところで戦ってる件

 ルシウスが口にした言葉を、リオが認識するわずかの間のことだった。


 天井まである漆黒の泥の大壁が、二人の前に突如現れた。流体の泥が溢れ出し、執務室の床を満たしていく。すでにくるぶしほども深さがあり、まるで鉛の海に足を浸しているかのような重さが足にのしかかる。


 やがて泥は大壁から離れ——それは壁ではなく、扉だったことが判明する。何重にも非対称の扉が左右に引かれ、何一つ映さない黒の水面が波立つとが現れる。


 全身が銀色の甲冑姿をした、人型の何か。甲冑の意匠はありえないほどに豪奢で、荘厳で、繊細な銀糸を編み込んで作られている。金属であるはずなのに、絹糸のようであり、ワイヤーのようでもある。顔のあるはずの部分には兜から無数の鎖のカーテンが垂れ、左半分を覆っている。


(魔王、っていうより……SFっぽさもあるし、甲冑はパワードスーツっぽいし……いやでも、うっすい細工やら装飾は芸術品みたいですげぇし、こんなんで戦うのか……?)


 扉から一歩、踏み出した全身甲冑の人物は、男とも女ともつかない、玲瓏な声を発する。


「目障りな鼠を叩こうと思って来てみれば」


 リオと全身甲冑の人物の間に、ルシウスがよろよろと立ち上がり、割って入った。


「『魔王マリス』、で間違いないな?」


 魔王。当初は和平を望み、大国との全面戦争に踏み切った敵。


 それが事実であれば、話し合いはできるのではないか。


 リオたちはそう聞いていたが——相対するその距離は、ほんの数メートルほどだろうか。ルシウスの背中越しに覗いた全身甲冑の人物の足元から、泥がルシウスへと飛びかかる。鉛のような重さの泥はルシウスの肩から垂れ下がり、そのまま床へと引き摺り下ろす。


 『魔王マリス』、と呼ばれたことが腹立たしかったのか、全身甲冑の人物は冷徹な口調で、杖にしがみつくルシウスを蔑む。


「頭が高いな、残りかすのおこぼれを有り難がるくせして」

「ぐっ……!」

「ルシウス大臣!」


 リオはルシウスを抱き抱え、立ち上がろうとする。しかし、あまりにも重すぎた。漆黒の泥を払おうにも、粘度が高すぎて払った手にこびりつく。


 全身甲冑の人物は、魔王と呼ばれたこと自体は否定しなかった。


「うおおおおッ!」


 リオは雄叫びを上げ、ルシウスを全力で引き上げ、背後のソファへ投げ飛ばす。老人の体が、青年のリオでさえ耐え難いほどの重さの泥に沈んでいては無事では済まない。ソファにしがみつき、咳き込むルシウスを見届けてから、ぜえぜえと肩で息をしながらリオは魔王を睨む。顔色も窺えない兜の中身はどんな表情をしているのか、想像もつかなかった。


 相変わらず、リオたちを蔑んだような玲瓏な声が響くばかりだ。


「言っただろう。残りかすのおこぼれ程度で、なぜわたしに勝てると思う?」


 リオは、魔王が発するその言葉の意味を確かめたくはなかった。威圧も感情も何もないその言葉に、いちいち気を払っていては咄嗟に動けないほど、漆黒の泥がリオの動きを制限している。がむしゃらに力を込めれば動けなくはないが、この執務室中の泥が襲いかかってくればひとたまりもない。ルシウスを守るどころか、諸共に圧殺されるだけだ。


 ところが、魔王はそれをせず、今度はルシウスへとスッと右手を差し出した。


「ルシウスと言ったか、お前は。わたし祝福ギフトが欲しいか?」

「何……?」

「有り体に言えば、寝返るなら褒賞をやろう。わたし祝福ギフトはそののようなものよりはるかに有用だぞ。ただまあ、ここ数百年、人類には与えていないのでな。はてどうなるやら」


 ルシウスの顔が強張り、魔王への視線が険しさを増した。直接乗り込んできたかと思えば、散々に見下した挙句、裏切りを誘う。これほどの圧倒的な力の差を見せれば言うことを聞く、とでも思われたのであれば、その屈辱は老人のルシウスでさえ見過ごせなかったのだ。


 その余裕ぶった横っ面に拳の一撃を喰らわせたいところだが、リオは代わりに言葉を浴びせた。


「おい、魔王。それが目的で来たのか?」

「いいや」


 魔王は右手を引っ込め、朗々と語る。


「この大陸の西方はもらった。あの忌々しい草のせいで魔物は足止めされているが、逆に言えばあれはお前たちもこちらには来られない境界線の役割をするだろう。一歩でも踏み込んでこい、即座に魔物が押し寄せて八つ裂きにしてくれる……そう伝えてやろうと思ってな」


 すると、リオはニヤリと笑みを浮かべた。


「はっ! なるほど、お前でもあのミントは取り除けないんだな?」


 今度は、リオは魔王の言葉の意味がすんなりと分かった。自分たちの手で植えて、その効果を確認して、それを作り出した本人とも話をしたからこそ、忌々しい草とやらがあの魔物避けミントのことだ、と確信が持てたのだ。


 魔王の言葉を待たず、リオはさらに指摘する。


「それで侵略に行き詰まって、ここへ単身乗り込んできた。攻め方を変えて、中から攻略してやろうと。どうだ? 合ってるか?」


 精一杯の虚勢で、リオは笑おうと努める。


 合っていようがいまいが、この威丈高な魔王はここまでコケにされて無視はできないだろう。そう見越して、リオは自分へと敵意を惹きつける。間違ってもルシウスへ攻撃が加えられないよう、泥が押し寄せても耐えられる自分が引き受けようと考えてのことだ。


 実際——こんなにも魔王には便利な能力があって、今まで人類側の本丸を直接落としてこなかったのは、明らかにおかしい。であれば、直接頭を叩くような攻撃を避けてきた或いはできなかった理由があり、そこには何らかの制限を魔王でさえも受けている。


(だからこそだ、ルシウス大臣を裏切らせる、なんてことを今までどうしてしてこなかった。何か、攻め方を変えなきゃいけないことがあって、魔王だって危険を冒してここに来たんじゃないか? なら、俺の祝福ギフトでも最悪相打ちくらいはできるはず!)


 魔王から視線を動かさず、リオは腰の剣へと手を伸ばす。リオの『英雄タケルの武能』は『リオが戦いを認識する』ことで発動するが、のだ。


 無論、発動さえすればたとえ魔王相手でも優位に状況を進めることができるが、そこに戦いが存在することを認識できなければ意味がない。互いに直接手出ししていない今、本格的な戦いはまだ発生していない、つまりリオはまだ『英雄タケルの武能』を本格的に発動できないのだ。


 圧倒的な力の差があろうと一瞬で殺されないよう、発動のチャンスを探るリオの威圧が緊迫を生み、わずかであっても魔王の態度に変化を与えていた。


「図に乗るなよ、英雄崩れ。身の丈に合わない力を押し付けて、人類にしてやってもかまわないのだぞ」


 しかし、声は玲瓏ながらも脅しをぶつけてくる魔王は、その言葉に反してリオとの対決を避けた。


「ただ、まあ……お前たちは、かすのような祝福ギフトを利用してあの忌々しい草を生み出したのもまた事実。そこは敬意を払って、取引を申し出たい」


 これに真っ先に反応したのはルシウスだ。身を乗り出し、興味を示す。


「取引、一体どのような?」

「お前たちはわたしの土地から土や植物を盗んでいっただろう。少なくとも、わたしの見るかぎり、それを用いて呪いをかけるような力はなさそうだ。であれば、調査のためと見る。わたしの土地を知ろうとしている、ならば」


 魔王は扉へと左手を突っ込んだ。すぐに引き抜くと、その指先には先ほどまではなかったガラス球を摘んでいた。ビー玉よりも大きめの、ソフトボールよりも小さなものだ。


 魔王はポンとリオへそのガラス球を投げる。いきなりガラスの球を投げられ、慌てて慎重に受け取ったリオは、空洞の球の中に綿毛の付いた種が詰められていることに気付いた。


「何だこれ、植物の種……?」

「その種を芽吹かせてみよ。もし育てられたなら、相応の願いを聞き届けてやろう。ああ、言っておくが魔物ではないぞ。そうさな、ごく普通の花だ。わたしの土地ではもう咲かなくなった花を見せてみろ」


 そうして、魔王はあっさりと踵を返して、漆黒の扉の向こうへと姿を消した。


 魔王が消えた瞬間、執務室を埋め尽くしていた漆黒の泥は、床や壁に吸収されていくかのようになくなっていった。わずか数秒のうちに、ルシウスの執務室は元どおりとなったのだった。


 糸が切れたように、リオはその場に座り込む。


 全身甲冑のあの魔王のプレッシャーは、想像以上だった。ルシウスも同じく、ソファに深く腰掛け、俯いて疲れ切っていた。漆黒の泥だけではなく、気を抜けば何をしてくるか分からない怖さ、未だその正体不明な存在への畏れが、ただ戦えばいいだけの魔物とは明らかに違うものがあった。


 しばし二人は沈黙し、息を整えたあとで、ルシウスがリオへ声をかける。


「リオ、頼めるか」

「はい。カツキのところへ、急いでこれを届けます」


 これ——綿毛の付いた種子が詰まったガラス球を、リオはベルトから下がる革製のバッグへとしまい、ゆっくりと立ち上がった。


 植物を育てるのならば、ここはカツキに任せるしかない。ルシウスもリオも、癪ではあるが、魔王とのさらなる交渉のきっかけを生むためにも取引を成立させなければならない、と考えた。これをどうにか和平へ繋ぐことができるなら、癪だろうと屈辱だろうと無視してしまわなくてはならないのだ。


「うむ。魔王のことは言わずともよい、ただ花を咲かせてほしいとだけ伝えよ。カツキに不安を与えたくない、できずとも責任を負わせる必要はないのだ」


 少しだけリオは逡巡したが、どうにかルシウスの意図を汲んで、頷いた。あのプレッシャーを与えてくる魔王のことを知れば、誰だって恐怖し、戦意を喪失しかねない。そんなことをわざわざ教えなくていいのだ、きっと。


 カツキであればすぐに請け負ってくれる、そう信じてリオは出立の支度に取り掛かった。

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