第十六話 トラゾス
ハリフムとザムグが喧嘩別れしてからエタの脳裏を占めるのはトラゾスのことだった。軽く調べてみたものの、やはりトラゾスという神は存在しない。
これ以上調べるのならエドゥッパに行くのが最良だが、もうエドゥッパの学生でないエタが調べ物をするわけにもいかない。
そのためまだエドゥッパの学生であるシャルラにトラゾスについて調べてほしいと頼んだのだが、その翌日シャルラの父親であるリムズから呼び出しを受けたのだった。
エタは一人でリムズが経営する傭兵派遣会社ニスキツルを訪れた。
ターハやラバサルはすべてが規格化されたこの会社を居心地よい場所だと思っていないようだったが、エタに苦手意識はない。
リムズに対しても、尊敬すべき先達として認識していた。
ふたり、わずかに日が差す部屋で向かい合う。
「さて、そう身構えなくてもいい。今のところただの世間話だからね」
世間話でなくなる可能性もあることを念頭におけ、エタはそう受け取った。
「用件はやはり、トラゾスのことですか?」
「そうだ。どこでそのことを知ったのかな?」
「数日前からシュメールの社員になった少年の友人の一人がトラゾスを信仰しているとのことでした」
「ほお。直接話をしたのかね?」
「はい」
「直感でも構わない。君はその友人をどう思った?」
「とても……いえ、苛烈なほど信心深いと思いましたが、それ以上に他の神々を明確に下に見ているようでした」
もちろん都市国家の神々において序列が皆無なわけではない。
例えばエンリル神は他の神々すら恐れおののくほどのメラムを発すると伝えられているし、ここウルクの都市神であるイシュタル神はウルクで最も崇拝される女神である。
だがそれは子が親を敬うようなものであって、お互いに敬意や信頼関係があるはずだ。
ハリフムからはそれを一切感じなかった。
「ふむ。私もトラゾスについて気になっていてね。少しばかり調査していたところなのだよ。だがやはり直接相対した君の意見は真に迫っているように思える」
「リムズさんにはこの件の真相が見えているのですか?」
「まさか。だが、一つ確かなことはトラゾスという神が存在しないということだ。これはアトラハシス様のお言葉でもある」
「!」
現在ウルク王が活動できない状態にあるため、ウルクでの最高権力者はアトラハシスと言ってよい。
彼が断言したのだからそれは真実に違いない。
「では、トラゾスは……捏造された神? ですが、そんなことがあり得るのでしょうか。いるはずもない神をあれほど熱心に信仰する人がいるなんて……」
「どうも教祖と呼ばれる女が先頭に熱心に布教しているようだ。おそらくその女がはぐれ者どもをうまくたぶらかしているのだろう」
「どういう意味ですか?」
「トラゾスの信者の大多数は逃亡奴隷や元囚人などだ」
エタの目がすっと細められる。
根っからの善人であればトラゾスは弱者を救う素晴らしい集団などと褒めたたえるかもしれないが、エタは善人と呼んでよい性格の中に驚くほど冷酷な視点を保有している。
リムズなどはこのあたりの切り替えの早さを評価しているのだが、本人はあまりそれを自覚していなかった。
「行く当てのない人々を組織に招いて結束を強めているのでしょうね。ですが資金源はどうしているのでしょうか。それにアトラハシス様のように上の方々が見逃しているのも疑問です」
リムズは満足そうに含みのある笑みを浮かべてから真相を告げた。
「簡単だ。彼女らがある迷宮を占拠しているからだ。より正確には迷宮の安全な出入口を、だが」
「迷宮を探索し、何らかの成果を売却して資金にしているのですね。しかもそれは今までのどの冒険者よりも効率が良かった。そういうことですか?」
もしもただ単に迷宮の入り口を占拠しただけなら、強引にどかせばいいだけだ。だが、占拠されている状態そのものに利益があるのなら現状維持をよしとする理屈は通る。
「そうだ。なぜか彼女らは今まで攻略が進まなかった迷宮を探索し、成果を上げているようだ。具体的には希少な鉱石などを採掘しているようだな。一方で、冒険者ギルドはそれに忸怩たる思いを抱いているらしい」
自分たちよりも優秀な組織がいればそれは気に入らないだろう。
エタは自身が目指すべき組織がすでにいたことに少なからず驚いていた。一方でこのままシュメールが大きくなれば同じような軋轢が増えるとも予想できた。
そして、冒険者ギルドがどういう反応をするのかも。
「冒険者ギルドは占拠された迷宮を攻略するために有志を募っているらしい。君もそれに参加してみないかね?」
難しい判断だ。
上手くいけば今まで攻略できなかった迷宮を攻略したという実績が手に入るが、一方でギルドに睨まれるかもしれない。
「その迷宮の名前は」
「戦士の岩山。およそ二百年にわたり、冒険者を砕き続けてきた迷宮だ」
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