第五十二話 声
頭の中を洪水が流れるように、砂嵐が吹き荒れるように、揺さぶられている。
『その掟はみだりに使ってはならない。他人から譲渡された掟は使いこなすのが難しい。ましてやメラムが備わっているのなら、使用にはそれ相応の覚悟が必要になるじゃろう』
アトラハシスの忠告、いや、警告が木霊する。
覚悟はあったつもりだった。だが、非才の身にメラムはあまりにも刺激が強すぎた。
持っただけでエタは一瞬気絶した。
『エタリッツ!』
誰かの声で目が覚める。ただ、誰の声なのかはわからない。耳がうまく働いていない。
気を失ったのは一瞬だ。それでも、魔人の攻撃が緩むわけがない。
木の蔓が鞭のように振り回される。ターハが間に立ち、何とか衝撃を殺そうとするが、エタの体は蔓の先端に触れて弾き飛ばされた。
(粘土板と突きノミはどこ?)
急いで探す。いや、探せなかった。頬に生暖かいものが伝っている。おそらく血だ。目から出血している。
(目が、目が、目が見えない!? 耳も聞こえない!? こ、こんなのでどうやって!?)
エタにはなんとなく、仲間たちが叫んでいるのが分かるが、それが何を意味しているのかまるで分からない。自分が世界で一人きりになってしまった気分になった。
(しっかりしろ! ここまで来て、終わるわけにはいかないんだ!)
目が慣れてきたせいなのか、うすぼんやりと周りの様子が分かるようにはなった。しかしせいぜい何かが動いているというのが分かるだけで何がどこにあるのかわからない。
ただそれでも、黒い光、魔人から発せられるニラムだけはわかる。それが近づいてくることも、同時に自分の死が近づいていることも。
まったく関係のない話だが。
メソポタミアの死生観は数千年後のそれとは異なる。
メソポタミアにおいて死後人間は地獄や極楽に向かうのではなく、地の底にある冥界に向かうとされた。
ここで重要なのは誰もが死後冥界で暮らすということである。
貧者も富者も、賢者も愚者も、異教徒でさえもわびしい地の底の都、冥界の女主人エレシュキガルが治める冥界で暮らすのである。
一方で飲食供養のように死者へのたむけには気を遣う。
それは冥界で暮らす死者が安らかであるようにという祈りでもあり、祖先や死者が自分たちを守ってくれるという一種の祖霊信仰の側面もある。それとは逆に、死者を愚弄すれば亡霊となって呪われるという恐れもあったのだ。
だから死者に対する敬いを忘れはしなかった。
もちろん、この状況とは何の関係もない話だが。
『こっちだよ』
聞こえないはずの耳に声が、見えないはずの目に優しく添えられる手が見える。すべての理屈や恐れを投げ捨てて、その何か、に従い這いながらもどこかを目指す。
一方、エタを仇のように見なす搾取の魔人は。
なぜかその動きを止めていた。
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