第四十二話 三十歩
大顎を打ち鳴らし、ぎりぎりと歯軋りのように不快な音を響かせる。女王蟻が怒っているのは明らかだ。
そしてそのままエタに向かって猛然と走る。
『三人とも! 僕がひきつけます! その間に背後から攻撃を!』
携帯粘土板越しに叫ぶ。
三人は女王蟻を追う形で走る。
それを見たエタはラバサルの鞄を放り捨てる。
ここで追いつかれるわけにはいかない。いかないのだが。
(は、速すぎる!?)
怒りが頂点に達した女王蟻はとんでもない速度でエタに迫る。
もともと足があまり速くないエタでは予想より早く追いつかれてしまう。
「エタ! そのまままっすぐ走りな!」
ターハの叫びと共に彼女が投げたのは木酢液を混ぜ合わせた薬の入った球。わずかながら女王蟻に当たらない軌道だった。
しかしありえない角度で急旋回したそれは女王蟻の眉間に直撃した。
実際に見るのは初めてだったが、ターハの投げたものを曲げる掟の効果だろう。
女王蟻は悶え苦しみ、ほんの少しだけ息をいれたエタは叫んだ。
『三十歩!』
指示を理解したミミエルはラバサルの鞄を掴み、ラバサルも走る速度を上げる。
立ち直った女王蟻もますます勢いを増して突っ込んでくる。
エタの全身から汗が噴き出る。息が切れそうになる。もしかしたらよだれや鼻水、涙さえも出ているかもしれない。
でも足を止めない。
(ここが最後の機会だ。負けるわけにはいかないんだ!)
そして女王蟻がエタに食いつく寸前。そこにたどり着いた。
その場所にあったのは、卵。女王蟻が産卵し、この巣の将来を担う子供たちのゆりかご。死してなお大白蟻が傷つけようとはせず、女王蟻が命を懸けて守ろうとしたもの。
おそらくはこれを産むために弱っていた大白蟻たちは食べられたのだろう。
蟻というのはきっと、そういう生き物なのだ。個ではなく、全。
すべてが巣を生かすために存在する。
その黄金よりも大事にしている卵に対して、エタは刃を突き付けた。自分でもどれほどおぞましい行為なのかは理解している。それでも、勝つためにはやるしかない。
エタの脅迫を理解して女王蟻の体がぴたりと止まる。
ほんのわずかな間。女王蟻とエタの目が合う。しかし心は通じ合えなかった。きっとどれだけ時間がたってもそうだったのだろう。
とてつもない速度で走ってきたミミエルがラバサルの鞄を掴みながら女王蟻の体を軽やかに駆け上がる。
そして勢いをつけたまま鞄を力任せに振り下ろす。それを見たラバサルは走るのをやめ、後方に跳んだ。
その瞬間、ミミエルとラバサルは三十歩分の距離だけ離れ、鞄に備わる持ち物を軽くする掟が消失する。
ミミエルの腕力。走ってきた速度。中身の重量。
それらすべてが重ねあわされた一撃が女王蟻の頭を叩き潰した。
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