第4話 老臣を得る
しばらくすると、部屋の外から複数の足音が聞こえてきて、やがてそれが扉の前で止まる。そして、ゆっくりと扉が開かれると……紺色の官服を着こなした、一人の老人が入ってくる。
髪は完全に白く、口元にたくわえた立派な髭も白一色だ。歳相応の老いはあるが、その所作には衰えを感じさせない精悍さがある。
目元は涼しげで理知的な印象を与えるが口元の笑みがそれを親しみやすくしている。
宮内大臣、フランツ・ヴァル・ローレンス。七代にわたって大臣を輩出したディオザニアの名門、ローレンス家の現当主であり、ティルドラ郡に領地を有すことからティルドラ殿とも呼ばれている。
清廉潔白な性格で、見識が高く、ディオザニアの元老として名士からの信望が厚く、ボエモンド一派でさえ一目を置かざるを得ない人物として知られていた。
そんな彼はルシエルの前まで歩み出ると、跪いて深く頭を下げる。
「フランツ・ヴァル・ローレンスが皇帝陛下、フィオナ皇女殿下に拝謁いたします」
「先生、よく来てくれました。お立ちください」
ルシエルがそう言うと、フランツはゆったりとした動作で立ち上がった。
その一挙手一投足に優雅さが感じられる。
「どうぞお席へ」
ルシエルがそう促すと、フランツは素直にその勧めに従い、窓の近くに置かれたテーブルセットの椅子に腰かけた。
この椅子もまた見事なもので、木材と金細工の絶妙な調和が美しい一品である。
そして、ルシエルとフィオナもまた向かいの席に腰を下ろすと、さっそく本題を切り出した。
「単刀直入に言います。フロバンスでの飢饉についてですが……」
ルシエルは今の状況をフランツに手短に説明するが、話を聞くにつれ、彼は難しい表情になっていった。
彼は話を聞き終えると、腕を組むと静かに目をつぶった。
そして、そのままの状態で黙り込む。
しばらくの間、その静寂が空間を支配していたが、やがて彼はおもむろに目を開けると……意を決したように切り出した。
「承知しました。この老臣が陛下のお役に立つのであれば、ぜひお使いください。しかし、先ずはボエモンド宰相の許可を得なくてはなりません」
「しかし、それでは……」
ルシエルが表情を曇らせると、フランツは毅然とした態度で答える。
そして、諭すように言葉を続けた。その口ぶりに迷いはなく、一つ一つの言葉が重く感じられる。
それはまるで重厚な鋼鉄の鎧を着込んでいるかのようだった。
「今のユリウス・ボエモンドは政権、軍権を掌握し、強大な存在です。宰相は今朝の朝議で民を見捨てる決定された。それを僅かな時間で否定し、無断で困窮する民を救済すれば恐らく快く思わない。つまり、竜の逆鱗に触れることになるのです。ただでは済みませんぞ」
今のユリウス・ボエモンドは神話に出てくる貪婪な怪物のように強大な存在だ。位人臣を極め、ディオザニアの全てを支配している。
ひとたび彼の逆鱗に触れれば……それは激しい怒りとなって轟雷の如く襲いかかるに違いない。そうなれば本人だけでなく一族も皆殺しにされることだろう。そして、フランツはそれを懸念していた。
「だから、受け入れられそうな条件を付けたし提案するのです。宰相を立てつつ、陛下にご協力いただけるような……。いいですね?」
「先生、それは無理ですよ」
ルシエルはそんなことは分かっているとばかりに、憮然とした表情になり否定の言葉を口にする。
「先生もユリウス・ボエモンドの魂胆をご存知のはず。あの男はずっと帝位を狙っている。朝廷に困窮する民を見捨てさせるのは、私の徳が地に落ちたことを天下に示すため。許可など出すはずがない」
「いかにも、それがあの男の考えでしょう。見抜いておられたとは、感服いたします」
フランツは感心したようにうなずくと、素直にルシエルに賛辞を送った。
しかし、その賞賛にもルシエルの表情は変わらない。むしろより険しい顔つきとなったぐらいだ。
「されど、今の宰相に逆らうべきではありません。あの男は性は狡猾にして残忍。もし陛下が宰相に歯向かえば、そのお命だけでなく、ご自愛のフィオナ皇女殿下、そして多くの臣民に害が及ぶやもしれません」
フランツの警告に対し、ルシエルは眉を寄せたまま押し黙る。そんな彼の苦悩を
「なるほど。先生はそのようにお考えなのですね」
そして、ルシエルは俯いて何やら思案を始めた。その美しい眉間には深く皺が刻まれている。それは苦渋の選択を強いられた若き皇帝の姿だった。それを見て取ったフランツも一言たりとも発さず、静かに瞑目するのみだ。
そうして、長い沈黙が部屋に下りた後……彼は不意に面を上げると口を開いた。
「先生のご高説は的を射ている。やはり、ここは……」
だが、ルシエルの言葉は途中で途切れてしまった。
それを聞いていたフィオナが彼の意思を推察したかのように発言する。
しかし、その表情には僅かな失望と怒りが混じっていた。
その雰囲気は荒々しく、どこか刺々しいものがある。
「陛下、一体どういうつもりですか? ボエモンドに帝位を譲りたいのですか?」
言葉遣いこそ丁寧だが、そこには相手を非難する辛辣な響きがあった。その声は冷水に長くつけておいた金属片のようにどこまでも硬く冷ややである。そんな彼女を
「そんなに怒るな。冷静になれ。私も分かっている」
「いえ、何も分かっていません。ユリウス・ボエモンドがあなたに手出しできないのは、あなたが皇帝だからです。もしあなたが困窮する民を見捨てたなら、民心は必ず離れます。そうなれば、禅譲を迫られる日も近いでしょう」
フィオナはそう言って席を立つと、ルシエルに向かって詰め寄った。その気迫に押されるように、彼は座ったまま後退する。その顔はいつもと違ってやや青白かった。
そんな彼の様子を見て、彼女は更に言葉を続ける。
「いいですか。帝位を手放せば、あの男は躊躇なくあなたの命を奪います。我々を殺す理由はあっても、生かす理由がないのですから」
「ああ、その通りだ」
ルシエルは苦笑しながら答えた。
それを受けると、フィオナはフランツに視線を移す。
「ローレンス大臣、これは陛下だけの問題ではありません。先生にも大いに関係します。奴が先生と一族を排撃しない理由は単純です。陛下と名士の信望が厚い先生を罷免、或いは処刑などすれば臣下らの反発は避けられない。それ故に、手を出さないのです」
そして、彼女は淡々と言葉を続けた。その口ぶりには怒りと軽蔑が混じっている。まるで
「あの猜疑心が強いユリウス・ボエモンドが皇帝の座に就けば、陛下や私、そして先生を含めた旧臣は必ず排除され、市場でその首を晒すことになります」
フィオナのその指摘は的確であり、それが決して絵空事ではないことをフランツはよく知っていた。そして、それはルシエルにも思い当たる節がある。彼は険しい顔で唇を噛みしめると、ゆっくりと首を縦に振った。
「よくお考えください。ここで何もしないのは自殺と同じ。ご両名に伺います。わざわざ己の首を斬る者がいるでしょうか?」
そんなフィオナの言葉に、二人は顔を見合わせて沈黙する。
すると、フランツが重い口を開いた。
「確かに仰る通りですな。殿下の言葉で目が覚めました」
フランツは深く頭を下げると、更に言葉を続ける。それはもはや宣誓だった。
「この日より私は陛下に命を捧げます。この老骨が砕けようとも必ず陛下のご期待に応えます」
「やはり先生は義理堅いお方だ。先生の心意気に感服いたしました。どうか、拝礼をお受けください」
彼の言葉には深い感謝と尊敬の念が込められていた。その態度と言葉に、フランツは思わず落涙する。
それはディオザニアの最上位に位置する二人が心を一つにしたことを示す瞬間だった。
この時より、ユリウス・ボエモンドの絶対的権力は陰りを見せ始める。
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