ディオザニア帝国物語
柿うさ
第1話 ディオザニアの伏鯉
紀元前2万年前、人類最古の文明がクレーヌ川流域に生まれた。
それから幾つかの国が興っては滅びを繰り返し、紀元前758年に太祖・武神帝フェルディナントが分裂していたディオザニアを絶対的統治のもとに置き、帝政国家を建設。ディオザニアの版図を確立し、2000年続く政治形態を定め、文字・貨幣・
時の皇帝アウレリウス3世はディオザニアの領土を大きく拡張し、大運河を建設、国の発展に大きく寄与したが、相次ぐ戦役など諸政策により国庫は傾き、臣民は大いに疲弊した。
財政難を解決するために新たな税を設置したり、爵位・官職の売買、
金権政治が蔓延すると、民衆は大いに怒り深い憤りが国に渦巻いた。
◇
澄み切った青空に、目映い太陽と白い雲のコントラスト。
穏やかに吹き抜ける風が、帝城の中庭に咲き誇る花々を優しく揺らし、芳しい香りが庭園一帯に拡がっていった。
庭園北側には、ターコイズブルーに染まり、何種類もの
いくつも
そんな池の畔に設置された四阿のそばで、一人の青年が穏やかな表情を浮かべながら釣り糸を垂れていた。
金と青で縁取られた、
黒色がかった髪は、後ろで束ねられており、横顔から見える瞳は知性的だ。
歳は二十代前半といったところであろうか。
整った顔立ちには、凛々しさと聡明さが感じられた。
ルシエル・デイン・ラヴェンブルク。アウレリウス3世の長子であり、
釣りに興じるルシエルは玉座にいたときの皇帝としての顔は影を潜め、青年らしい若々しさと躍動感を湛えている。
やがて、彼の浮がピクッ、と反応して沈み込む。
彼はその変化を素早く察知すると、糸を引く。
水の中を優雅に泳ぐ魚が、小さな虹を作り水中から飛び跳ねる。
当たりだ。
彼はタイミングを見計らって釣り竿を強く引き上げると、両手で抱え上げられるくらいの大きさの鯉が雨のような水しぶきをあげて釣れた。その鯉は見目麗しく、2対のヒゲが特徴的で瞳から気品を感じる。大きな鱗もやや青みがかって見えた。
1尺6寸(約48cm)を超える大きな鯉がぴちぴちと跳ねて、濡れた鱗が陽の光に反射して美しく輝く。
「陛下は大きなヴェルス鯉を釣り上げられたぞ! 見事な腕前であられまする」
すぐ横でルシエルの釣りを見守っていた、
すると、それに合わせて周囲を取り囲む兵士たちが感嘆の声を上げた。
「陛下万歳! 万歳!」
と皆が歓声を上げ、宮廷楽団は釣れた魚を讃えて音楽を奏で始める。
四阿で釣りに興じるルシエルの周囲では、すでに十数人の兵士達が集まっていた。
彼らは皆、皇帝の身辺を警護する親衛隊だ。目線は一様に皇帝へと注がれ、祝詞を口にしている。
彼らの振る舞いに、ルシエルは笑みを崩さずに軽く右手を上げて応えると、視線を鯉に戻した。
まだピチピチと元気に跳ねている魚を見ながら、彼は側にいた侍従に命じる。
「これを生け簀に」
「承知致しました」
侍従が恭しく頭を垂らすと、すぐに針を外し鯉を抱えて四阿の横に設置された生け簀へと運んでいった。
大きな生け簀には、先に釣り上げたヴェルス鯉が3匹ほど泳いでいる。
ルシエルは自身の成果を満足気に眺め、それから大きく背伸びをする。
背中がポキポキと鳴り、少し痛んだ。
長時間釣りをしていたせいだろうか。肩の筋肉が凝り固まっているようだ。
竿を持ちながら腕を伸ばし、軽くストレッチすると再び四阿の椅子に腰掛ける。そして、澄み渡る空を見上げると、彼は内に秘める言葉を誰に聞かせるわけでもなくポツリと呟いた。
「後世の書物に私はどう評価されるだろうか……」
その言葉は辺りにいた兵士たちの耳に届く。
今まで騒ぎ立てていた親衛隊が皆黙り込む。周囲の音が不自然にぴたりと止まると、その場は静寂に包まれた。まるで、音という音が息を潜めるように僅かな音さえ消えている。
「はぁ」
ルシエルは心の奥底からため息を一つこぼす。
「賊を除くこともできず、国を安んじることもできない。私がラヴェンブルク家に生まれて、何の意味があったろうか」
誰の耳にも届かぬように、小声で言葉を漏らす。
そして彼は右手で握り拳を作った。
それは、自らの無力さと愚かさを悔やむやるせなさからくるものだった。
力のない拳は、ゆっくりと解かれる。
「……続けようか」
ルシエルはため息一つこぼすと、竿を振るい釣り糸を垂らす。
しばらく釣りを続けていると、誰かが自分に近づいてくる気配が感じられた。
振り向くと、そこには麗しいドレスが似合う美しい娘が女官2人をお供に控えていた。金色の長い髪は、瞳の色と同じ瑠璃色の髪飾りでまとめられている。その表情には自信と誇りが
彼女こそフィオナ・デイン・ラヴェンブルク。皇帝ルシエルの実妹であり、女神と見まごうばかりの神々しさ、その神聖な血に相応しいだけの慈悲深い精神の輝きは天下を遍く照らすことから〝黄金の太陽〟と謳われる女性だ。
フィオナはルシエルのそばまで近づくと、弾んだ声を上げ拝礼する。
「フィオナ・デイン・ラヴェンブルクが陛下に拝謁いたします」
「フィオナよ。我々は主従の関係なれど兄妹だ。何も畏まることはない」
「いえ、陛下の御前ですもの。礼節を疎かにしてよいわけがありません」
そう言うと、彼女は微かに笑んで会釈をする。そしてルシエルが着席を促すと、四阿に入り彼の隣に腰を下ろした。
「見事な鯉ですね。陛下が釣られたですか?」
「ああ、そうだとも」
「それは凄いです。そう言えば、鯉で思い出したのですけど……」
それから、フィオナは釣り糸を垂らすルシエルに向かって明るく話しかけた。
彼女の言葉に、彼は時折相槌を打ちながら耳を傾ける。
それは他愛無い話題ばかりだが、それで良いのだ。いや、むしろそれが良いのだ。
人が心底何気なく楽しめる会話といものは、この瞬間に生まれる斬新な発見や英知の泉ではなく、言葉の意味や意図を誤解しないように注意を払う必要もなく、気の利いた返しをひらめく必要もない。底が浅くて、意味がなく、記憶からも消えてしまいそうなぐらい取るに足らないものだ。
それは農民であろうと、皇帝であろうと変わることはない。
ルシエルはそんなやり取りを続けていくうちに、心の中に
そして話し始めてから20分後──四阿での会話がちょうど盛り上がったタイミングで侍従の一人がルシエルに声を駆けた。
「陛下、そろそろ朝議のお時間です」
「そうか、もうそんな時刻か。それではフィオナよ。私は朝議に参るゆえ失礼するよ」
ルシエルは立ち上がると、軽く礼をした。
「お忙しいところ申し訳ありませんでしたわ」
「いや、そなたのおかげで、我が心の憂いが晴れた。感謝するぞ」
「陛下のお気が少しでもお晴れになったのであれば幸いです」
フィオナも立ち上がると、スカートの裾を両手で軽く持ち上げて優雅に礼をする。その仕草は実に気品があり、見るものを惹きつける魅力がある。
そして彼女は供の女官たちを引き連れて、四阿をあとにした。
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