第3話 その日、私の小さな世界は壊れた
母は私の頭を撫でながら慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
「お母さんもそのつもりでした。
「どっちも、だったりするかもしれないぞ」
父はそう言って大口を開けて魚にかじりついた。期待されていることに、思わず背中がくすぐったくなって体の中から熱くなっていくような気がした。
「頑張りますっ」
「おぉ、その意気だ。葛ならきっとできるさ」
わかりやすく言葉で、激励してくれる父に対して、母は私に微笑むばかりだった。
「今の葛なら、憑依も使えるようになっているかもね」
正直なところ憑依を覚えることは楽しみではあった。他の妖怪から疎まれる原因とはいえ、使えることこそ妖狐らしいとの思いもあったからだ。
しばらくして、家族全員で魚を平らげると父は夜の闇の中へ歩いていった。やはり、監視の目を長い時間空けてしまうのは警備のことを考えると良くはないのだろう。
私と母は座って向き合った。
「今日はもう暗いから、憑依の体験をしてもらって明日から本格的に稽古に入ることにしましょうか。これから、葛に憑依をします。お母さんとお父さんがしている、思考の階層での意思疎通です」
私が頷くとそれは、すぐに始まった。母は喋っていないのに声が聞こえてきたのだ。
『聞こえますか? 聞こえたら頷いてね』
たしかに聞こえていたので私は頷いた。不思議な体験だった。両耳から二人の母が耳元で囁いているような感覚だった。
父と母はいつもこうして会話を交わしていたのだと理解した。
『これが憑依の意識を伝える、という初歩の段階ね。明日からはお母さんに憑依を使って話しかけることをまず、覚えてもらいましょうか』
頷くことしかできなかった。
どんな原理で言葉が伝わってくるのか皆目見当もつかなかったからだ。
そして母は憑依での会話を続けた。
『憑依も変化も妖狐にとって大切だけど、妖怪の世界は化かされたら負けという弱肉強食が絶対の節理だから、どんな辛い境遇になっても負けないでね。葛が生き残るために必要なら、お母さんは辛い試練だろうと容赦なく与えます。いつか私たちを上回る、何者かが現れた、その時に生き残るためにね』
まるで、今生の別れに伝えるような母の言葉に少しの違和感を抱きながらも、言っていることは大切なことであることは同意できた。
私が小さい頃から「化かされたら負け」という言葉は父からも聞いていた。改めて意識の階層で聞かされることで、より言葉の重みを感じた。
その日は気持ちが昂って、すぐには眠れなかった。尻尾も増えて、新しく憑依を学び始めることが楽しみだったからだった。時間がかかりながらも、気付くと私は深い眠りについていた。
翌朝、空気が重苦しいような不快さで目を覚ますと珍しく両親が揃っていることに気付いた。いつもだったら、私が起きる頃には父か母のどちらかが、すでに外へ出て見回りをしているはずだ。
だが、両親は異様に周囲を警戒して、緊張した様子だった。ただならぬ様子に私の眠気もすぐに泡と消えてなくなった。
『喋らないでね、葛。今、周りを他の妖怪に囲まれてしまったの。もしかしたら、憑依への対策をついに見つけられたのかもしれない』
その言葉に私は思わず唾を飲んで全身に緊張が走った。それは平穏の終わりを意味することに他ならない。他の妖怪から逃亡生活の始まりか、全面戦争か。待つのは悲劇だ。
そして、ついに攻撃が始まった。小屋に火が付き瞬く間に燃え広がっていった。
すぐさま、父は水に変化して周囲を囲み、熱を通さないようにしてくれていた。
『大規模な攻勢を仕掛けてきたからには、憑依への対策を済ませているでしょう。万一のため、葛の記憶には憑依でできることの全てを記憶に刻んでおいたから、あとで思い出してね。お母さんとお父さんで、この小屋が焼け崩れると同時に撃退に出るわ。葛は焼け焦げた木片に変化して身を隠して、動かないでいて』
私は言われた通りに、焼け焦げた木片に変化し、その瞬間を待った。
小家が崩れるまでは客観的には一瞬の出来事だったかもしれないが、私にとっては緊張のせいか、長い時間が経ったかのように感じた。
ついに小屋は音を立てて崩れ、母は私という焦げた木片を持ち、小屋を突き破ると同時に延焼してこない安全な場所に放り、私は地面に転がった。
そうして、襲撃してきた敵の戦力が判明すると、思わず私は気が遠くなるような錯覚を起こした。人型でいたなら、ガタガタと全身が震え、足腰が立たずに地面にへたりこんでしまっていたことだろう。
天狗を筆頭に、鬼神、土蜘蛛、牛鬼、雪女、妖狸、猫又、犬神など、見渡す限りの
一人の天狗が前に出て、堂々と宣誓をした。
「お前たち妖狐の家族を粛清する」
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