第8話

 あの時が最後だったのかもしれない。彼女と僕の最後の日。


 決められていたように思えるのだ。あの日にもっと違うことが言えていれば、彼女はもしかすればと考えてしまう。


 いや、それを望んでいながら、彼女のピアノ人生を破壊することを良しとは思えず、そんな懐の広さもない。怖がって遠ざけて、結果、すべてが無くなった。

 

 彼女が日本を去って一週間が経ったある日、僕はあの音楽室に向かった。

 特に意味はない。

 

 ただ、体が自然にその場所へと動いた。

 

 ドアを開け、いつもの定位置に椅子を移動させ腰かける。

 

 ピアノが教壇の隣にあり、そのピアノを一瞥する。


 意味のないことだ。

 もしかしたら彼女がまだ座っており、演奏してくれるのではないかと馬鹿げた感傷に浸る。ただ、そのために来たのか………

 

 いや、彼女が本当に去ったことを自分に認識させるために来たのかもしれない。

 

 音楽室には冷気が漂い、手がかじかむなか、一つ、また一つと暖かみが生まれる。そして零れ落ちていく。


 頭には彼女の音が鮮明に残っている。彼女の音を頭に流しながら、どこかでこの空虚な音楽室の中を探している。


 それは見つからないものなのに。

 ただ、探して、またピアノを窺っている。

 この作業を繰り返して、徐々に彼女がもういないという事実を体に馴染ませているようだ。

 

 と思えば狂ったように涙が体から、また零れ出て、嗚咽の中でピアノを凝視する。もう鳴らないピアノを。

 

 

 

 そんな馬鹿なことを繰り返している日々の中、気づけば大学生になっていた。

 

 もう何に対しても興味を見いだせなくなっていた。他人にも自分自身にも。

 ただ時間は流れて、季節は過ぎていき、体は大人の男になっていく。精神とは反比例するように。

 

 しかし、遊びの誘いなどはすべて応じた。家にいると気が狂ってしまいそうだったからだ。


 彼女がいなくなったことで、意地を張ることを辞め、誰にでも適当に接するようになると、自然と周りに人は寄ってきた。

 そいつらの誘いを全て受けて、家に一人でいる時間をなるべく無くしていた。

 

 大学に入学時、部活やサークルの新歓コンパには顔をよく出していた。その時、どこどこの新歓コンパにもいたよね?と声をかけてきた人間がいた。それが愛美であった。

 

 正直、数多くの新歓コンパに出ていた僕は、愛美のことも、その他の人間と同じく、顔も名前も覚えていなかった。

 しかし、携帯によく愛美からの電話やメッセージが飛んでくることが多く、愛美と一緒にいることが増えていた。

 

 完全に彼女を認識する頃には、もう男女の関係になっていた。

 

 数多くの人間と遊びに行き、彼女といえなくもない存在が出来たことを考えると外側から見るに僕は健全な人間になっていた。

 しかしながら、どこか地に足がつかない大学生活をおくっていた。

 

 誘われれば、どんなところでも行き、男も女も関係なく、どんな誘いにものった。愛美が泣こうが、知人が止めようが自分に暇な時間を作らなかった。


 どこの女か知らないが、それは日ごとに違う体をしている。違う声で啼くし、違う事を要求するものだ。

 愛美の悲しむ姿にも心は動かない。


 それよりも、なによりも一人になって、頭に曲が流れ込むのを恐れた。


 誰が隣で寝ていようと、明け方、一人目を覚まし、朝の風を浴びると、自然とピアノの音が聴こえた。


 煙草を吸って、酒を飲んで、女と遊ぼうが、その女の顔も身体も次の瞬間には忘れているのに、彼女のピアノの音だけは頭から離れなかった。

 

 暇になると、気が狂ったように涙が体を圧迫し漏れ出てしまう。


 彼女のすべてを一から思いだしては自責の念に駆られ、寂しさが涙と一緒に出ていく。それでも足りずに、また思い返す。

 

 四度、季節が移り変わるころには、彼女は海外のコンクールで入賞するほどの演奏者になったと親からの連絡で知った。

 

 その時、ただ素直に喜べない自分がいる。まだ、馬鹿な感傷を続ける。悲劇の主人公にでもなったのかと自分を問い詰めるも、結局、そんな客観的に自分を見つめることなど、この時の僕には不可能なことであった。

 

 

 

 大学を卒業するころには適当な企業に内定が決まっていたため、独り立ちし、親元を離れ、何もないこの町から少し離れた都会に引っ越した。


 しかし、その町も地元となんら変わらない。何もない町であった。

 

 愛美は大学卒業と同時に同棲を提案してきたが、僕は二の足を踏めず断った。


 確かに、愛美と生活すれば、この感情が薄れるかもしれない。

 しかし、僕はそれを断った。愛美は何も言わず、また少し時間をおいて考えようと無理やり自分を納得させていた。


 馬鹿な女である。

 こんな馬鹿な僕に付き合うなど馬鹿としか言いようがない。

 

 自分にここまで尽くしてくれる人間が悲しんでいるのにも関わらず、なんの感情も湧いてこなかった。そのことにまた自分は駄目な人間であると自覚していく。

 

 彼女はその後、CDデビューなど、コンクール入賞、有名な指揮者との協奏など、成功していった。

 対して、僕は企業でアホのように仕事をしては、家に帰るというサイクルを繰り返し、時に彼女のピアノの演奏を聴いては感傷に浸るだけの人間になっていた。

 

 親から自立し、会社に勤め、彼女もいるとは一見、真っ当な大人のようであるがその実、精神面は高校時代のあの時から止まっている。


 大人の入れ物に馬鹿に幼い精神は不釣り合いであるように、この生活に不和が生まれると、ただ、その事実に目を閉じ、昔の感傷を引っ張りだしてきているような気がしてならない。

 

 ほら、人生は辛い、悲しい、苦しい。ああ。これ、この感情の根元は彼女の記憶により引き起こされている。


 恨みを持って愛して、悲しみをもって生へと変換されるなら、生きる理由には適している。


 そう思えば、この下らない人生にも少しは価値があるように思えた。

 

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