第6話

 波の音を聞きながら、彼女のか細い声に耳を傾けていた。

 彼女はいつも凛とした芯の通った声を出すのに、この時ばかりは弱く、本当の自分を見せてくれていたような気がする。


 それを受け止めないで、軽くいなして、事をなかったことにするのは酷く浅ましく、卑怯な方法であると自覚していた。


 帰り際に見せた彼女の切なさとも、悲しさとも何とも言えぬ表情が忘れられなかった。

 

 

 

 高校二年生になった。

 高校一年生の時と比べて、彼女のことはこの一年を通じて、全学年に知れ渡っているようだ。

 後輩も先輩も、皆に人気であることは言うまでもない、

 

 この時期から、彼女がよく放課後、僕との待ち合わせに遅れたり、連絡が滞ることが増えた。


 この間の、外出から彼女は少しばかり僕から距離を置くようになったのだ。しかし、演奏会は毎週、恙(つつが)なく行われているようにも思える。


 僕はそうした彼女の心の迷いを察することは出来なかった。それはどこかで理解していたからこそ、察する努力も怠っているだけなのかもしれない。

 

 僕は彼女を待つことに徹したのだ。

 そうした選択をしたことで僕は知ることになる。

 

 それは、あの美貌と性格なのだ、彼女と付き合いたいという男は星の数ほどいるだろう。

 高校生は色恋に邁進する日々を過ごすのが通例である。

 

 いつの日か、彼女を好きだという男に彼女との仲を責め立てられた。

 

 その男は一学年上の上級生であり学内でも有名で、面も良く、勉学もスポーツも優秀な成績を修めている。

 世間でいうところの良い男である。

 

 その男が言うには、お前のような暗くて何の取り柄もない男は彼女にふさわしくないというわけだ。

 

 確かにその通りだ。

 

 しかし、僕はそんな事はお前の決めることではないと、その男に反撃した。

 

 高校生という年代は一つ、二つ、年が違うだけで、体格に大きな差がある。

 それは、僕の喧嘩の弱さもあるが、僕がその男に二度、三度殴られただけで、地面に這いつくばっている現状をみれば一目瞭然だろう。

 

 なぜこんな無謀な喧嘩を行ったのか?

 

 冷静に考えれば、その必要はないのかもしれない。文句を言われようといつもの僕らしく振舞い、その男からの侮蔑の言葉など受け流せばよい。

 

 しかし、僕は今、頬で地面の冷たさを実感している。

 知っていたのだ。彼が彼女と交際していることを。

 

 それが、何故か腹の底が煮えくり返るほどの怒りの起因だった。自分から逃げていながら、他人が妬ましくて、憎らしい。

 

 今まで、彼女との演奏会に馬鹿な優越感を得るのみで彼女に深く関わろうとはしなかった報いである。

 

 ただ、ピアノを弾く彼女を見つめて、彼女自身を見ようとはしなかった。いや、見てみぬふりをしていたのか。

 

 知っていたのに。

 そう知っていたのだ。

 

 小学校の時、そのシャツの袖の下に痣があったことも。

 

 ピアノの練習に行き詰まり、演奏が徐々に適当になり、やめようとしていたことも。

 

 中学校からは、僕との関係をクラスメートに聞かれ赤くなっていたことも。その事を揶揄した生徒と彼女との間で諍いがあったことも。

 

 高校に入ると無理やり僕との時間を作ってくれていたことも。


 分かっていて何も言わなかった。ただ見守るだけだった。

 

 励ましの言葉や、相談に乗ることはいくらでもできた。しかし、何も言わなかった。

 

 地面に寝転がりながら、昔のことを思いだす。

 

 彼女を信じるという言葉は、彼女をないがしろにして、ただ見守るだけの存在になるには体の良い言葉だったようにも思える。

 

 そもそも小学校の時代に、人を信じようと決心したあの日に、諍いのあった同級生と話し合い、和解なり、決別するなり、なにか終着点を見つけるべきだった。

 

 しかし、それをしようとは一切思わなかった。

 彼らへの恨みという自分の狭量さに嫌気が指す。また僕から彼女への接点を持たせないため。

 

 中学時代もそうだ。

 周りとの関係を一切断ち、彼女との時間だけに固執した。

 

 それも、彼女からの信用を勝ち得ている僕からの接点を断つため。

 

 僕は誰とも関わらない。

 だからこそ、彼女の近くにいられた。そうして、誰も彼女に近づけない。


 そして高校に入学してからも、また同じことをしようとしていた。

 そして見事に失敗した。

 

 理由は明白、明瞭。彼女が恋を知ったからだ。

 

 そして、その恋の線の先にいた人間からお前は邪魔だと言われたわけだ。耐え難い苦痛である。

 

 今まで、見守ってきた僕に対して、ポッと出の人間が奪うのか。トンビに油揚げをとはまさにこのことである。

 

 僕に怒る権利はない。ただ見守ってきただけの僕には。


 僕が恋をしたのは、彼女のピアノも含めてであり、それを阻害することは憚られた。そう思えば、誰が好きだと言えようか。


 彼女を好きになることは、それを含めて好きになることであり、結局、僕にはそのすべてを抱え込む度量がなかっただけなのかもしれない。


 いや、怖かっただけだろう。


 しかし、脊髄反射のように僕は彼に殴りかかった。どうしても許せなかったのだ。この整理しようのない感情は抑えられない。

 

 このドロッとした感情は、恋なんて華々しいものではない。

 ただただ固執する思いをいままで煮続けてきた。この思いは独占欲に似た感情。

 

 吐しゃ物に似た、ドロドロとしたヘドロのようなものが体中を巡っているのかと錯覚するような侮蔑すべき不快な感情。

 

 いままで、こんな下卑た心で彼女を見守ってきた。違う。独占してきた。そのくせ、彼女との距離は詰めず、飼殺す。

 

 そんな人間が一体どんな了見で彼に殴りかかっていったのか。

 唇から流れ出た血をペロリと舐めとると、それは鉄と塩の味がした。

 

 へたり込むと、空は夕刻に差し掛かろうとしていた。赤く燃え爛れた空に、澄んだ風が吹き込むとその腰をゆっくり持ち上げ、また来た道と同じ道を帰る。

 それは、また同じ道を同じように踏みしめて。

 

 

 

 その出来事が起こった翌週、彼女は僕の凸凹の顔をみて、何か気の利いた台詞でもいうのかと思っていたが、違った。


 彼女は泣き崩れて、その男に連絡を取ると、何やら喚き散らし、その男との話はぱったりなくなった。

 

 その、光景をただただ傍観する僕は今までにない程ひどい顔をしていたに違いない。

 

 


 

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