追いかけてこないモモンガ 2
「エイミー⁉」
シンシアの悲鳴が青い空に吸い込まれていった。
エイミーの艶やかな金髪は一瞬にして泥にまみれ、ぼとっと頭の上から泥の塊が滑り落ちる。
幸い、足元に気をとられたときだったので顔にはかからなかったが、ねっとりとまとわりつく泥の感触に、エイミーはぱちぱちと目をしばたたいた。
「あー……」
ぼんやりしていて、油断していたらしい。
移動教室のために中庭を歩いていたエイミーは、空から降って来た泥で汚れた教科書を見て、へにょんと眉尻を下げた。
いつもは避けられたのに――今日に限って泥とはついてない。
(テニスボールとか、本とかだったら汚れなかったのに……)
教科書は紙だ。泥を落としたところでこれでは使い物にならないだろう。
シンシアが大慌てで教師を呼びに行く後姿を見やりながら、エイミーはどうしたものかと考えた。
教科書は買いなおせるが、エイミーは授業中のメモを教科書に直接書き込む癖がある。せっかく書き込んだメモがぱあになってしまった。
ぼとぼとと頭の上からまだ泥が落ちてくる。
エイミーが前かがみになって頭の上に乗っている泥を下に落とそうとしたときだった。
「おまっ――それは一体どうしたんだ⁉」
大きな声が聞こえてきたので視線を上げると、ライオネルが血相を変えて駆け寄ってくるところだった。
「殿下、近づくと汚れてしまいますから」
「そんなことを言っている場合か⁉ 何をどうしたらこうなる⁉」
「ええっと……ちょっとへまをしちゃって」
「はあ?」
「でも大丈夫ですから、お気になさらず」
エイミーは泥だらけだ。ライオネルの服を汚してしまうので、できれば近くに来てほしくない。
(それに、こんな顔、あんまり見られたくないし……)
ライオネルにこれ以上嫌われたくなくて追いかけるのをやめたエイミーだが、ライオネルへの気持ちが消えたわけではない。好きな人の前ではいつも綺麗でいたいのだ。だから、あまり見ないでほしい。
「殿下、ほら、授業に遅れちゃいますよ」
「お前は……!」
ライオネルが、何故か苛立たし気に舌打ちした。
エイミーはどうしてライオネルが苛立っているのかがわからずに、しょんぼりと肩を落とす。
嫌われたくなくておとなしくしているのに、エイミーの何かがライオネルを苛立たせてしまったらしい。
(泥まみれだからみっともないと思われているのかな?)
水の魔術を使って、頭から水をかけて流してしまってもいいが、六月になってジャケットを脱いでいるので、上は白シャツ一枚だ。水をかけると下着が透けてしまうので、できれば人前ではやりたくない。特にライオネルの前では絶対に。
「とにかくそのままでは困るだろう。ええっと、怪我をしていないかどうかも確かめる必要があるし、ひとまずウォルターのところへ――」
行くぞ、とライオネルが手を伸ばしてきたので、エイミーは慌てて逃げた。だからエイミーは泥まみれなのだ。ライオネルが汚れたら大変なのに、どうして触ろうとするのだろう。
エイミーが逃げると、ライオネルがさらに苛立たしそうになった。
(どうしてそんな顔をするの……)
戸惑いながら、とにかくライオネルから逃げないとと考えたとき、シンシアが教師たちを連れて戻って来て、エイミーはホッと胸をなでおろす。
「殿下、先生たちが来てくださったのでもう大丈夫です。どうぞ、殿下は授業に行ってください」
「…………わかった」
ライオネルは納得できない顔で頷くと、あからさまなため息を一つついて、校舎に向けて歩き出す。
後片付けを教師に頼み、エイミーは教師が持ってきてくれたタオルを泥が落ちないように体に巻き付けると、シンシアとともにシャワールームへ向かった。
個室に区切られたシャワールームで泥を落として、シンシアが借りてきてくれた着替えに袖を通す。そして泥で汚れたは水魔術でざっと洗った後で火の魔術で乾かし、袋に詰めておいた。白いブラウスは泥のせいで茶色いシミになっているので、もう着られないだろう。
(家には替えの制服があるからいいけど、お父様たちが見たら心配するわね)
入学してから、頻繁に空から何かが降ってくることは、両親たちにも言っていない。教師たちにも親を心配させたくないから言わないでほしいと口止めしているので、この事実は教師たちとそれからシンシアしか知らないのだ。
今日はライオネルに見られてしまったが、泥が落ちてくるところを目撃されたわけではない。きっとエイミーが馬鹿をやったくらいにしか思っていないだろう。
帰るまでに制服を汚した言い訳を考えておかなければとエイミーが唸っていると、シンシアが躊躇いがちに口を開いた。
「ねえエイミー、あんた、殿下との婚約を解消した方がいいんじゃない?」
エイミーはびっくりしてはじかれたようにシンシアを振り返った。
「どうして?」
「だって、今までいろんなものが空から降って来たけど、それって殿下が関係しているんじゃないかって思うのよ。あ、殿下の仕業だって言っているんじゃないのよ。殿下と婚約者のあんたのことが許せないって思ってる誰かがいるんじゃないかってこと。だってそれ以外にあんたがこんな嫌がらせを受ける理由が思いつかないもの」
「そんなはずないわ」
「エイミー」
エイミーは首を横に振った。
シンシアの言う通り、もしそうだとしても、ライオネルとの婚約は解消したくない。
ライオネルに嫌われていたっていい。本当は好きになってほしいけど、それが無理なら、嫌われたままでもいいのだ。それでもエイミーは、ライオネルの側にいたい。
「このままだったら、そのうち大怪我をするかもしれないのよ?」
「気を付けるもの」
「どうしてそう意固地になるの? だって……だって殿下は、あんたのことをこれっぽっちも大切にしていないじゃない! 愛されていないじゃないの!」
「――っ」
エイミーは息を呑んで、それからきゅっと唇を引き結ぶ。
わかっている。わかっていた。
でも、それをほかの人の口から言われると――指摘されると、それがまぎれもない事実なのだと突きつけられるようで、ちゃんとわかっていたのに胸が痛い。
「エイミー、あんた、殿下に愛されないままの結婚生活を送りたいの? 婚約して十一年変わらなかったものが、結婚後に変わるとか、そんな希望は捨てたほうがいいわ」
「……わかっているわ」
「わかっていないわ、エイミー。ううん、わからないふりをしているのよ、あんたは。そろそろ現実を見ないと、そのうちあんた、ボロボロになっちゃうわよ」
そうかもしれない、とエイミーはずきずきと痛む胸の中で思った。
現実から目を背けてライオネルを追いかけまわして、そうしていればそのうち振り向いてくれるのではないかと、振り向いてくれるはずだと、自分に言い聞かせてきたのかもしれない。
(その結果、わたしは殿下に、あんな顔で『嫌い』なんて言わせてしまったのね……)
真剣な顔で、理解しないエイミーにわからせるように、はっきりと「嫌い」だと――優しいライオネルに、そこまで言わせた。
政略結婚なのだ。必ずしも相手に愛される必要はない。
でも――エイミーのことを、大嫌いなライオネルにとって、そんな結婚生活は苦でしかないのではないか。
エイミーはいいのだ。どれだけ傷ついても、どれだけボロボロになったってかまわない。ライオネルが好きだから、側にいられるだけで幸せだから、たとえ一生涯嫌いだと言われ続けたって、その結果心がズタズタになったって、覚悟の上だ。どんなに傷ついても、ライオネルの側にいられない方が苦しいから、だからいい。
けれどライオネルは違う。
「ねえ、エイミー。これはいいきっかけだと思うわ。今日のことを理由に、身の危険を理由に、殿下に婚約の解消を持ち掛けてもいいんじゃないかしら?」
「……でも」
「殿下があんたを愛していて、大切にしているならわたしもこんなことは言わないわ。でも――違うでしょう? 何も返してくれない男のために、あんたはこれ以上傷つき続けるの?」
「…………」
シンシアの言うことはわかる。
わかるけれど、エイミーは頷けなかった。
否、頷きたくなかった。
黙り込んだままのエイミーに、シンシアはため息交じりに続けた。
「このままエスカレートして、殿下を巻き込むようなことになっても知らないわよ」
ドクンと、エイミーの心臓が、嫌な音を立てた。
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