モモンガの欠席 1
「すっかり仲良くなったんですね、殿下。いい傾向じゃないですか」
エイミーの歌の特訓をはじめて十日余り。
学園の医務室へ頭痛薬を取りに来たライオネルは、にやにや笑いのウォルターに言われて眉を寄せた。
「何がだ?」
「エイミー様ですよ」
「何を言っている」
「何って、ケビンから仲がよさそうだって聞きましたけど……」
ケビンとは、ウォルターが学園の常駐医師として離れる二年間、ウォルターのかわりにライオネルの侍従を務めている男だ。
ライオネルは顔をしかめた。
「勘違いするな。俺は仕方なくやっているんだ」
「仕方なくエイミー様の手作りのクッキーを食べて談笑して、楽しく歌を歌っているんですよね」
(ケビンめ!)
練習に使っているのは防音室だが、侍従であるケビンは用があるときには出入りを許可している。エイミーも、あの意味不明な歌詞なら音を外さないことがわかったので、聞かれてもそれほど問題にはならないだろうと、立ち入り禁止を解除したからだ。
確かにここのところエイミーの手作りクッキーに釣られて一緒に茶を飲んでいる。エイミーもライオネルが時間を割いてやっていることを理解して感謝しているのか、城に通ってきても強引に抱き着いてきたり匂いを嗅いだりしないので、ライオネルもそれほど邪険にはしていなかった。
(だが、断じて仲良くなったわけじゃない!)
ライオネルはエイミーのことが好きじゃない。
婚約を解消したい気持ちは今も昔も変わらないのだ。
(うっかりモモンガに近づきすぎたな。……いやだが、音楽祭の練習がはじまるまでにあの悲惨な歌を何とかしなくては)
意味不明な歌詞なら音は外さないが、意味不明の歌詞のまま人前で歌わせるわけにも行かないのだ。ゆえにここからが正念場である。いかに正しい歌詞で音を外さずに歌わせられるかが最大の課題なのだ。
(しかし周囲に仲良くなったと思われるのはまずい。何よりエイミーが調子に乗るからな)
エイミーにはきっちりと、ライオネルがエイミーを嫌いだということを理解させなくてはならないのだ。そうしてエイミーの方から婚約解消を持ち出させる。それがライオネルの計画だった。
歌の練習で当初の計画がうやむやになっていたが今からでも遅くない。しっかりと「嫌いだ」と言うことを伝え続けるのだ。
「忠告助かった。俺はどうやらあのモモンガにペット的な愛着を感じはじめていたのかもしれない。だがあれはモモンガであってモモンガではないんだ。ペットにはできん」
「……何言ってるんですか殿下」
「とにかくモモンガと人間は一緒に暮らせないということを、きっちり理解させてやらねば」
「意味がわかりませんよ。結局モモンガなんですかモモンガじゃないんですか」
「モモンガだ!」
「違いますエイミー様は人間ですよ」
ウォルターは嘆息して首を横に振った。
「モモンガだとか、落とし穴だとか、もうお互いに十六歳なんですから、そろそろそのあたりを抜きにして向き合う時期じゃないんですか? いつまでも子供みたいなことを言うのをやめて自分の気持ちと向き合わないと、そのうち痛い目にあいますよ」
「だから向き合っているじゃないか。俺はあいつとの婚約を解消したいんだ。それより頭痛薬をよこせ。朝から頭が痛いんだ」
「気圧ですかね? 殿下は気圧の影響を受けやすいんで。……はいどうぞ。食後ですよ」
「わかった」
ライオネルは頭痛薬の薬包を受け取り、医務室を後にする。
ウォルターにわけのわからないことを言われたせいで、頭痛がさらに増した気がした。
(何か適当に食べて薬を飲むか。……二限目はさぼろう)
どちらにせよ頭が痛すぎて教師の話が頭に入りそうにない。
ライオネルは食堂へ足を向けた。
食堂はランチの時間以外でも、お菓子やお茶なら出してくれる。
ライオネルは、腹にたまりそうなスコーンとそれから紅茶、薬を飲むための水を頼むと、それを持って窓際の席へ座った。
ガラス窓の向こうの空は、灰色の雲が覆っている。
クルスデイル国は、夏に雨が多い国である。来月の六月はまだましだが、だんだんとこのように天気の悪い日が増えるだろう。
(憂鬱だ)
ウォルターの言った通り気圧の影響で頭が痛くなるライオネルは、天気の悪い日が嫌いだった。特に嵐の日は最悪だ。頭が割れそうに痛くなるのである。
(そういえばあと少しで六月か。モモンガが生まれた月だな)
エイミーは六月生まれだ。毎年六月のはじめに誕生日パーティーを開いては、ライオネルも駆り出される。
ライオネルはエイミーの誕生日など祝ってやりたくなかったが、父と母がうるさいので仕方なく出席しているのだ。
(気が乗らんがプレゼントを用意しておかなくてはな)
プレゼントを持って行かなければ、あの頭のおかしいエイミーは「プレゼントはキスでいい」とか意味不明なことを言い出すのだ。
(そういえばあの勝負のキスはまだだったな。……忘れているのか、よしよし)
魔術の基礎の授業での賭け事だが、ライオネルがエイミーが作った穴に落ちて気絶したせいか、そのあとの報酬についてはうやむやになっていた。エイミーも要求してこないので、このままうやむやなままにさせておくのがいいだろう。キスなんて嫌だ。
ライオネルはスコーンにクリームを塗って口に運ぶ。
もそもそするスコーンと甘すぎるクリームに、ライオネルはすぐに紅茶に口をつけた。
食堂には一流の料理人が雇われているが、一流の人間が作ったものでも、どういうわけかお菓子は口にあわない。
もともとライオネルはお菓子はあまり好きではないのだ。今でも、美味しいと思えるのはエイミーが作るクッキーくらいなものだった。
しかし、この時間は食堂にはお菓子しか置いていないのだから文句は言えない。
スコーンを紅茶で胃に流し込むと、ライオネルは薬包を手に取った。
少し苦いそれを多めの水で飲み干して、ふうと息を吐く。
このまま、薬が効きはじめるまでここでのんびりしていようと、特に見るものもない窓の外へ視線を向けたときだった。
「まあ殿下、どうなさったんですの?」
妙に甲高い声が聞こえてきて、ライオネルは振り返った。殿下と呼ばれるのはこの学園にはライオネルしか在籍していないからである。
すると、紅茶とケーキを手に、赤茶色の髪に緑色の目をした女が立っていた。
(この女は確か……パトリシア・スケールか)
学園の一つ上に在籍しているスケール伯爵家の令嬢だ。そして、ライオネルが五歳の時に婚約者候補に上がった一人でもある。
「スケール伯爵令嬢こそ、今は二限目の授業中だろう? こんなところでどうしたんだ」
「わたくしは気分が優れなくて。ご一緒してもよろしいですか?」
(なんでガラガラなのに俺の隣に来る必要が?)
と思ったが、ライオネルは口にも顔にも出さず、にこりと作り笑いを浮かべた。
「構わないよ」
スケール伯爵は重鎮だ。パトリシアは敵に回さない方がいい。
そういう意味ではエイミーもそうだが、あれはモモンガで話が通じない異界人だから、どんなふうに扱おうと構わないのだ。なぜなら本人はまるっきり堪えていないからである。
パトリシアはライオネルの向かいの席に腰を下ろして、優雅にティーカップに口をつける。
なんとなくその所作を見ていたライオネルは、心の中で、エイミーの所作の方が綺麗だなと思いながら、また窓の外に視線を戻した。
(あのモモンガは、破綻している性格以外は完璧だからな。あれで性格がまだまともならよかった――って、だからモモンガと人間は一緒に暮らせないんだ!)
エイミーの性格なんてどうだっていいのだ。あれはモモンガ星のモモンガ星人だからモモンガの星にあるモモンガの国のモモンガの巣へ帰るべきなのである。
ほーっと窓の外を眺めていると、ぽつりとガラス窓に雨粒が当たった。どうやら雨が降りはじめたらしい。
ぽつぽつと窓ガラスに模様をつけていく雨粒を見ていると、ティーカップを置いたパトリシアが話しかけてきた。
「わたくし、殿下には同情しておりますのよ」
「……は?」
いきなりなんだと、ライオネルは怪訝がった。
振り向けば、パトリシアは憂いを帯びた表情を浮かべている。
「毎日毎日、エイミー・カニング様に追いかけまわされているでしょう? いつもお疲れのご様子ですし……今日も顔色が悪いですわ。きっとエイミー様のせいね」
「いやこれは……」
「かばわなくて結構ですわ。殿下はお優しい方だと知っておりますけど、わたくしの前では本音を言ってくださってもよろしいのよ」
(何を言っているんだこの女は……)
ライオネルはますます訝しんだ。
そもそもライオネルはエイミーをかばったつもりはないし、あのモモンガ相手にはいつも本音でぶつかっている。優しくした覚えも今のところ一度もない。
第一、たとえ本音を隠していたとしても、何故パトリシアにそれをさらけ出す必要があるだろう。
ライオネルが返答に困って黙っていると、パトリシアは続けた。
「殿下は婚約を解消なさりたいのでしょう? でも、エイミー様が頷いてくださらないから、婚約が解消できない。そう聞きましたわ」
それは半分正解で半分間違っている。婚約を解消したいのもエイミーに今のところそのつもりがないのも本当だが、婚約が解消できないのはエイミーが国王夫妻にやけに気に入られているからだ。だからライオネルの力だけでは解消できないのである。
「殿下には、殿下が望む婚約者を選ぶ権利がございますのに、エイミー様は本当にひどいですわ」
(俺が望む、婚約者……?)
ライオネルは王太子だ。
王太子は結婚し、世継ぎを設ける義務がある。
エイミーと婚約を解消しても、別の誰かと婚約し、結婚する必要があるのだが――、ライオネルはまるでその事実に今気づいたかのように目を見張った。
(そうか、あいつと婚約を解消したら別の女を探さなくてはならないんだな)
王太子であるライオネルは自由に恋愛はできない。次の婚約者も、父や母、重鎮たちによって挙げられた候補の中から選ぶことになる。
さすがにエイミーのような変人はもういないだろうが、他の候補たちが気に入らなくても、いつまでも「嫌だ」と逃げ続けることはできない。
(ああでもまあ、普通の貴族令嬢なんて、適当に言うことを聞いて機嫌を取っておけば、だいたい問題ないはずだし……)
お姫様扱いをして優しく接してやれば、きっと満足するはずだ。エイミーと違って扱いやすいはずなのである。……それなのに、心がもやもやするのは何故だろう。
「早く婚約が解消できるといいですわね」
邪気のない顔で微笑むパトリシアに、ライオネルは「ああ……」と、ぼんやりとした返事を返した。
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