第8話 キリル家の諸事情

 今日はご容態がよろしいので……


 バハ・キリルの部屋は、かすかに花の香りがしていた。

 タキトスは部屋を見渡した。

 母、ランファンの香だった。

 だが、母の姿はない。

 残り香だった。

 それと、病人の匂い。


「父上、お加減はいかがですか」

 タキトスの声には感情があまり入っていない。言い方を変えれば、冷たい。

 誰にでも冷たいわけではないが、父に限ってはこうだ。

 今に始まったことではないので、きっと父は自分の息子は感情を表に出さない性格だと思っているだろう。

 というか、父の関心は、その程度なのだろうと思っている。

 十九年間、その考えは変わらなかった。


「父上」

 反応がなかったので、もう一度言ったら、ようやくバハは顔を上げた。


「父上、そのままで」

「お前に……頼みがある」


 藪から棒に、一体なんだろう。

 今のうちに、伝えておきたいことがあるのだろうか。

 一族の土地や屋敷、別荘や宝物を始め、名馬、領地の収穫量に至るまで、一通りのことは調べてある。

 父よりは詳しいつもりだ。


 バハは咳払いをした。

 病人独特の咳払いだった。 

 この人は、本当にもう健康な体には戻らないのだなと、他人事のように思った。

 バハはその後もしばらく言葉を出さなかった。

 言いづらいことがあるとしたら、あれしかない。


 母だ。


 若くして嫁いでから現在に至るまで、国一番の美女の名を欲しいままにする母。

 もはや伝説になっている出自。


「父上」

 タキトスが強めに言うと、バハは覚悟したようにつぶやいた。


「実は、お前には義弟がいる」

「……はあ?」

 我ながら稀に見る間抜けな声だった。


 バハの眉間に、深い深い皺が刻まれた。

「いるのだ」

「父上には、生きているお妾さんがいらっしゃったのですか」

「いや、その子の母親は亡くなったが、子供は生きている」

「一度お伺いしたかったのですが、私に義兄弟姉妹きょうだいは何人いるんですか」

「一人だ」

「ちなみに亡くなった義兄弟姉妹きょうだいというのは」

「……私が知っているのは、その子だけだ。母親は亡くなったが、子供は生きている。間違いなく私の子で、しかも成長している」


 タキトスは額に手を当てた。

「信じられない。その子はいくつなんですか」

「十五歳だ」

「母上はそのことはご存知なのですか」


 バハは苦しそうに言った。

「話したことはないが……」

 母が知らないはずはない。


「一度聞いてみたかったのですが、母上以外の女性は、一体何人いらっしゃるんですか」

「どこまでを数えればいい?」


 タキトスはバハのおふざけに付き合う気は無かったので、重ねて言った。

「現在も生きている女性は、何人いらっしゃるんですか」

「多分、誰もいない」

「本当に女性達は亡くなられたんですか」

「……実はよくわからない」


 自分では確認していないということか。

 タキトスは相手が病人であろうとなかろうと、今しか聞く機会はないだろうと思った。

「父上のお妾さんが全員母上に殺されたという噂は、本当なのですか」

 バハは、ランファンに聞かれるのを恐れるように小声で言った。

「……わからない」

 タキトスは、つい詰問調で言ってしまう。

「殺される可能性があるのに、なぜ次々女性達に手を出したんですか」

「……殺されたとは限らないだろ。流行病かもしれない」

「都合よく発生する流行病ですね」

 タキトスは病人ということもすっかり忘れ、冷たく言い放った。


 だが、そうなのだ。

 父の言うこともわかる。

 彼女達が、母に殺されたかどうなのかは、分からないのだ。

 タキトスが調べられる限りでも、何も分からなかった。


 母は若くしてバハに嫁いだので、バハよりもかなり若いが、それにしても彼女の周りでは時が止まったのではないかと思われるくらい、母は若い。若いどころか、まだ少女のような面影すらある。


 だが彼女は、謎の暗殺集団エスメル族の姫なのだ。

 エスメル族は証拠を残さない。

 タキトス自身、自分の調査能力がエスメル族の母に足元も及ばないことは、よくわかっていた。


 ちなみに、バハが戦に出た時に敵が積極的に仕掛けてこないのは、相手国がランファンの報復を恐れてのことではないかと噂されている。

 実際のランファンは暴力的だったり破壊的だったりしたことは一度もない。

 それどころか、タキトスは天女のようにやわらかな笑みを浮かべているランファンしか、見たことがなかった。

 

「……すまん」

 バハの呟きに、タキトスもため息で応えるしかなかった。

「で、私は何をすればいいのですか」

「その子のことを頼みたい」

「どの程度のことを考えていらっしゃいますか。生活の保証?それとも、義兄弟きょうだいとして公表するくらいのことですか」

「それはお前にまかせる」

「ご希望を仰ってください」

 バハはうなった。

「とりあえず生活の保証を。キリル家に入れるかどうかは、お前に任せた」

 つまりは義弟への関心もその程度ということだった。

 放置するほどではないが、具体的なことは何も考えていないのだ。

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