異界回廊は迷宮回路を隠す

水丸斗斗

プロローグ

「心配か?」

「心配だし、恐ろしくもあるわ」

 言葉とは裏腹に、メイが見せたのは、蕾がほころぶような笑みだった。

「私は大丈夫だと思うがね」

「ファリーザはいつから予言ができるようになったの?」

「私は予言はしない。ただそう思っただけだ」

「——あなたの言葉は、予言よりも頼もしいわ」


 ファリーザは励まそうと思ったわけではなかった。

 このままだと、メイが心配する通りになる。

 だが『何か』が動いている気がしたのだ。

 不安の要素に『何か』を加えると、事態は別の方向に転がる。

「二人の運次第だな」

 メイは頷く代わりに窓の外に目をやった。





 ロソが麗しのお師匠さまのもとを離れて、はや二ヶ月経つ。

 麗しのお師匠さまは、ロソの師匠であり、育ての親でもあった。


 ロソは九歳。


 その九年間は、全て麗しのお師匠さまとの歴史だった。

 ロソのお師匠さまへの想いは、半端ではない。

 師弟愛や家族愛を超え、もはやロソの全てであった。


 だからロソは今まで、誰よりも美しく麗しく優しいお師匠さまの側を離れるなど、考えたこともなかった。

 しかしお師匠さまはなにを思ったか、ある日突然ロソに旅立ちを命じた。


 ロソは泣いて嫌だと訴えたが、駄目だった。離れるぐらいならいっそのこと死んだ方がましだと思ったが、麗しのお師匠さまの命令は絶対だった。


 ロソは泣く泣く旅に出た。


 旅には連れがいた。

 名をギースという。


 いまギースとロソは、商都マルカラヴィアへ向かう隊商の護衛をしている。


 マルカラヴィアはメウラニア第二の都。向かう隊商は多いが、その分それを狙う賊も多い。


 二人は偶然隊商を救い、腕を見込まれてマルカラヴィアまで雇われた。

 幼いロソまで雇ってくれたのは、ギースの口添えもあったが、賊に襲われた隊商を間一髪で助けたのがロソだった、ということもある。


 盗賊の刀があるじの首を一薙ぎする寸前、ロソは賊の手首を蹴りあげた。ついでに宙に舞った刀をもう一方の足で軽くはたいた。

 神の火で鍛え上げられたと称えられるタオラシャの逸品が、真っ二つに折れた。それだけで他の賊も逃げた。


 値段の交渉をしたのはギースだった。当のロソはお師匠さまに教えられた技を誉められたことだけが嬉しかった。


 以来ギースは「お師匠さま」の名をとても有効に使っている。



 その晩、墨を落としたような闇の中で、ギースは起き上がった。


 闇の中に動くものはなにもない。人も馬も、とっくに寝静まっている。

 この夜、ギースはわざと人の少ない、火の届かない辺りを選んで寝た。もちろん目的があってのことだ。


 起きあがった気配に気づいたか、ギースの懐で暖かいものが動いた。ギースは布団がわりにかけていたマントをめくりあげた。


 ロソのお師匠さまは、一体どういう理由があってか知らないが、誰かが側にいないと眠ってはいけない、と教えたらしい。つまりギースがいないと、ロソは絶対に眠れないのだ。

 無理に一人で寝かせようとしたら、一晩中膝を抱えて泣いていた。すすり上げる声が気になって、ギースまで眠れなかった。だから仕方なくギースはロソと一緒に眠ることにしている。


 そのロソは、寝起きが悪い。一度眠ったら、雷が鳴ろうと、土砂降りになろうと決して目を覚まさない。


「んん」


 ロソがうなる。

 目を覚ましたか、と思ったら、単に寝返りをうっただけだった。信頼の証とはいえ、深い寝息がねたましかった。


 ギースはロソの頬を軽く叩いた。

「やっぱり起きないか」


 ギースはつぶやいた。諦めが混ざっていた。

 ぷっくらと柔らかい頬をぎゅーっとつねりあげると、ロソは小さくうなった。やっと起きてくれるかと思っていたら、手を伸ばし、なんとギースに抱きついてきた。


 そして首を引き寄せ、一緒に寝ようという仕草をする。唇からもれた名は、麗しのお師匠さま。

「全く、どういう師弟関係なんだか」


 ギースはロソを首にぶら下げたまま立ち上がり、昼間の間に見つけておいた木の側まで行った。


 ロソは変わらず熟睡している。


 ギースはちょっと思案して、握り拳をつくった。

 ギースの顔が豹変した。一瞬のうちに恐ろしい殺人鬼の顔が現れる。

 まさか寝起きが悪いからといって、殺す気では……!


 ロソの目がカッと開いた。金色の、炯々と輝く鋭い眼。


 人間のというよりは、獣の目だった。


 小さな体が宙を飛んだ。

 その破壊力がギースに届く寸前、


「待った!」

 鋭くギースは叫んだ。


「……ギース」


 ギースは脳天の寸前にある手を、冷や汗混じりで見上げた。いかに石頭とはいえ、これを食らったら脳味噌が弾けるだろう。

「……お前を起こすのは命がけだな。いちいち殺気を込めないと起きられないとは」


「ここ、どこだっけ」


 寝ぼけ眼に戻ったロソは、辺りを見渡した。金色の瞳も、元の茶色に戻りつつある。


「マルカラヴィアの手前。それよりも、逃げるぞ」

「どうして?」

「奥さんに手を出した。正確には、出されたんだが」

「——また?」


 ロソがつぶやいた。意味はよくわからないが、いつもこのセリフで夜逃げ同然で宿を後にすることになる。


「悪い」


 ギースは少しも悪くなさそうに言うと、「ほら」と言ってロソの肩を軽く押した。ロソは素直に体を返した。

 一人で眠れないだけではない。ロソは自分で髪を結えなかった。


 しかしまあ、見事な黒髪だった。女でもこんなに綺麗な髪の持ち主はいないだろう。

 無関心のせいで、ざんぎりになっているが、手入れすればさぞ美しく光をはじくに違いない。


 ギースはこめかみの辺りに手を回した。手触りが、微妙に変わった。心なし温度まで違う気がする。

 ロソの髪は、こめかみから生える一房だけが、見事な銀髪だった。鳥の羽のように柔らかで軽い一房は、鬘屋かつらやが大金を積んでやってきそうな代物だった。


「給金がもらえるんでしょ?」

「もらった」


 ギースは木のウロから、隠しておいた荷物一式を取り出した。


「マルカラヴィアに着いてからでないと、貰えないって聞いていたけど」

「だから勝手にいただいた」

「それは泥棒と言うんじゃないの?」

「気にするな。残りの二日分は差し引いてある」

「気が利く」

「——本気にするなよ」


 ギースは走り出した。ロソがその後を追う。臆病な兎でさえも、足音には気づかなかった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る