火傷の記憶(後)


「ねえ、上がっていってよ。少し話そう。逃げも隠れもしないからさ」


 男は何も答えなかったが、促すと抵抗することなく部屋に上がってくれた。警戒されるかもしれないと思ったが、どうやら自分の能力に相当の自信があるらしい。あるいは恵が抵抗する想像をまったくしていないという可能性も、ありえなくはないだろうか。


「なんで私がやったってわかったの? あ、そっち座っていいよ」


 ソファを指して言いつつ恵はベッドに腰かけたが、男は一瞥しただけで座らなかった。しかし立ったまま質問には答えてくれた。


「……最近、この辺りの火災は妙に多かったからな。事件性が報じられていないのは、火元がキッチンなり煙草なり単なる事故としか思えないものだからだろう。その上で、仮に人為的なものだとすれば魔術師が絡んでいる疑いは強い。そう考えた」


「それでどうして私が犯人になるの?」


「火元があるのは犯人の魔術が単なる発火じゃねえからだ。何か間接的に火災を起こせる魔術の使用者ってだけで、ある程度容疑者は絞り込める。あとは候補をひとつずつ潰していけばいい」


「ふうん」


 確かに、恵の魔術は物質を燃えやすくするものだ。人体をガソリン並みに燃えやすくしてしまえば、ガスコンロや煙草の火で簡単に引火する発火装置の完成である。人体が気化するわけではないので理屈と現象がちぐはぐに感じるが、しかし魔術とはそのようなものなのだ。この世界の法則では説明できないことが魔術でなら起こり得る。


 あるいは、このように自分の魔術への理解が浅いあたりが恵の魔術師としての程度ということなのかもしれない。真に優秀な魔術師は発動した魔術という現象だけで満足せず自分の契約魔族の有する性質を探求し、それを活かして複数種の魔術を使い分けることもある。もしも別の魔術を編み出せていれば犯行を隠すもっといい方法があったのだろうが、恵はその域に至ることはできなかった。それを思うと、この結末は妥当なのだろう。


「ちなみにさ、私は何人目?」


 候補をひとつずつ潰せばいいと男は言った。それならば恵はいったい何人目の候補だったのか。半ば答えを確信しながら尋ねた。


「……」


 男は押し黙るように口を閉ざした。その沈黙は一瞬だったかもしれないし、数秒はあったかもしれない。いずれにせよ、男がその問いに答えたのは何らかの感情の機微のようなものを感じさせる間の後だった。


「一人目だ。確信したのは、いくつかの現場の近辺に住んでるのがわかってからだが」

「……そっか。真っ先に疑われちゃったんなら、しょうがないか」


 倒錯的な話だが、今、恵の胸中にあるのは決して不快な感情ではなかった。むしろそれとは正反対の感情だ。そしてそれは恵にとって、特別理解のできないことでもなかった。


「私を捕まえてもたいしたお金にならないんじゃない?」

「だろうな」

「それでも捕まえるんだ?」

「当然だろ。お前は、やっちゃいけねえことをした」

「そっか。……そうだね」


 昔とは違う。今回は自分の意思で事件を起こした。魔術で人を殺した。


 機関の仕者であるこの男は、それを見過ごすことができない。それだけのこと。


「奏ちゃんは今も一緒?」


 その問いで少しは動揺を見せるかと思ったが、男は無表情のまま返した。


「俺が死ぬまでは」

「そっか。……妬けるね。でも、よかった」


 どちらも心からの言葉だった。


「二人には幸せになってほしい。こんな私を助けてくれた、世界で一番優しい人たちだから」

「俺は何もしてねえよ。お前を救ったのはあいつの詭弁だ」

「ううん、ミカくんも必死に守ってくれた。ちゃんと覚えてるよ」


 忘れるはずがない。恵にとっては、真っ当に生きるための拠り所だった思い出だ。救われた恩を、救おうとしてくれた気持ちを、無意味なものにしてはならないと。そう自分に言い聞かせ続けてきた。


 でも、思い出は摩耗する。


 どんなに大切な思い出も時が経てば単なる記憶に成り果てて、抱いた感情は忘却の淵へと消えていく。嬉しかったはずだという認識だけが残って、単なる情報に変わってしまう。そうして感情はより新鮮な欲求や強烈な衝動に塗り潰される。


 きっと人は思い出だけでは生きていけないのだ。少なくとも恵はそうだった。


「どうしてこんな馬鹿なことした」

「なんでだろ。たぶん、やってみたかったからかな」


 あえて軽い口調で答えてみた。

 すると、ずっと無表情を決め込んでいた男の顔が激昂に歪んだ。


「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ。お前はそんな馬鹿じゃなかっただろうが」


 その荒々しくて感情剥き出しの様子が想い出に重なって、場違いだけど、少し嬉しい。


「ううん、馬鹿だよ私。救いようのない大馬鹿野郎。逆恨みだってわかってたのに自分を抑えられなかった。馬鹿なことだってわかっててやったの。それってもうどうしようもない馬鹿だからでしょう?」


 善悪の区別がついていないとか、想像力が欠如しているとか、そういうことではないのだ。行為の意味を理解した上で罪を犯した。自分の感情が第一で、他のすべてを蔑ろにすることを自分で選択した。これが馬鹿でなくてなんだろう。


「最近こうなったんじゃないんだよ。昔からそうだった。例えば、顔の火傷が気になって好きな男の子に告白できなかったりとかさ。せめて気持ちだけでも伝えておけばよかったって、ずっと後悔してた。思ってることと考えてることと理解してることがぐちゃぐちゃで、つまらないことばかり気にして、間違えて、頭で考えてる通りに生きられなくて。……ほんと、どうしようもない大馬鹿なんだよ」


 だからさ、と恵は続ける。


「こんな馬鹿はもう、死ななきゃ治らないんじゃないかって思うんだ」


 言葉に応じたようなタイミングで炎が上がった。


 否、恵は燃え上がる瞬間を見計らって言葉を発したのだ。どうせ放たれるであろう否定の言葉を挟む間がなくなるように。


 火元は日差しの良く当たるベッドに置かれたペットボトルの下に敷かれた新聞紙。ペットボトル内の水がレンズの役割を果たし、強い日差しが新聞紙に火をつけた。そうなりやすいように魔術で新聞紙の燃えやすさを調整しておいたのだ。


 恵は初めから今日死ぬつもりだった。つい先ほど唐突にそう思い立って、事故死に見せかけるために新聞紙とペットボトルの水を買って帰ってきた。そんなタイミングでこの男が訪ねてきたのは、本当にただの偶然だった。


「おい! ふざけてんじゃねえぞ!」


 男が叫ぶ。感情を露わにした荒々しい口調で。


「消せ! 早く! 今すぐに!」

「無駄だよ。もう消えない。この部屋のものは何もかも全部、燃えやすくしたから」


 ベッドが一気に燃え上がった。すぐに窓枠に引火して、その頃には壁そのものが燃え始めている。恵は窓を開けて煙が外に出るようにした。その際、指先に炎が燃え移った。その炎が腕を伝って恵の体を侵食していく。足はもっと前から燃え始めていて、全身がまるで水分など含んでいないかのように炎に犯されていく。想像を絶する激痛だったが、どういうわけか、恵はすました顔でいることができた。


 唐突に、体を引っ張られた。強引に窓から引き剥がされ、床に押し倒された。


 必死な顔をした男が恵を見ていた。燃え続けて墨みたいになっていく恵の腕に、濡れた布を被せてくる。さっきまで男が着ていたシャツだ。咄嗟に水道水で濡らしたらしい。


 でも無駄だ。


 もはや室内は火の海。燃えやすくなった恵の肉体は、消火より先に燃え尽きるだろう。


「クソ、クソ、クソ、何やってんだこの馬鹿が! 消せ! 消せよ! 早く!」

「……無理だよ。私にそんな力ないもん。できないよ」


 もはやちゃんと発音できたかどうかもよくわからなかった。


 男はもう一度「クソ」と吐き捨てて流し台に向かった。鍋に水でも汲もうとしているようだが、もはや室内を満たす炎はその程度で消火できるものではない。


「逃げないと、一緒に燃えちゃうよ」

「言われずとも逃げるさ! ああ、逃げるから、もう黙ってろ!」


 男はそう怒鳴りつつすぐに恵の元に戻ってきて、恵の体を抱きかかえた。

 きっと、逃げる前に恵の体の炎だけでも消すつもりなのだ。そのまま抱きかかえて逃げたところで恵は焼け焦げて死ぬだけだとわかっているから、まずは消火して、それから恵を抱えて逃げるつもりなのだ。


 でも、もう遅い。


「これじゃ足りないよ」

「黙ってろ!」

「だーめ。もう、時間切れだから」

「っ!」


 ハッと両目を見開く彼の、すべてを察したような顔を愛おしいと思った。


 次の瞬間、恵の肉体は一気に燃焼した。

 魔術でより燃えやすくしたのだ。こうでもしないと彼はこの部屋に残り続けてしまうから。


「――――ッ!」


 彼が何かを怒鳴っているが、もうわからなかった。

 不思議な気分だった。体のほとんどが燃えて意識を失う寸前なのに、心はずっと穏やかなままだ。痛みにのたうち回ることもない。


 満たされている。

 それは今この瞬間が、恵の人生で最も幸福を感じた時間の再現だからかもしれない。


 最期に、奇妙なものを感じた。もう神経も焼き焦げて感覚なんてないはずの肉体で、包み込むような温もりを感じた。それは決して燃え盛る炎とは違う。もっともっと激しくて、もっともっと優しい何かだった。


    ◇


 夕焼けの住宅街を歩く明初御影の背後に、いつの間にか一匹の黒猫がついてきていた。


「随分とボロボロになったな」


 黒猫が言った。ほかの誰かに聞かれれば軽く騒ぎになるのは間違いなしだが、明初は驚かない。当然だ。この猫がただの猫ではないことを明初は知っている。何しろこの猫の正体は、明初にとって直属の上司といっても相違ない立場の魔術師なのだ。


「……何の用だクソ猫」


 振り向くことも歩く速度を変えることもなく明初は言った。


「用というほどのことでもない。お前の冴えわたる直感を賞賛しに来ただけさ」

「皮肉言ってんじゃねえよ。俺は何もしてねえ」

「何もということはないだろう。よくあれだけの情報から魔術師の関わる事件だと見抜いたものだ。たいした報奨金は出ないだろうが、些事であろうとも立派な仕事だ」

「うるせえ」

「何を気に病んでいる。相手は放火殺人の犯人だぞ。魔術師であることを差し引いても重罪人だ。それが因果応報で死んだだけ。お前が気にすることは何もない。私は賞賛されて然るべき功績だと」

「うるせえよ! 何もしてねえっつったら何もしてねえんだ! 引っ込んでろ!」


 つい怒鳴り声を上げてしまった。そのことに、明初自身困惑した。


「……はした金のためにいちいち書類まとめんのは面倒だ。確固たる証拠があるわけでもねえ」

「ん?」

「あれはただの火災だっつってんだよ。てめえに報告することは何もねえ」

「そうか。……なら、そういうことにしておこう」


 それにしても、と黒猫は言う。


「今日の火災は奇妙だったな。一部屋だけが全焼した一方で、同じアパートの他の部屋には一切炎が燃え移らなかったらしいじゃないか。全焼してもおかしくないボロアパートだったというのに」

「たまたま燃えにくくなってたんだろ」

「たまたま、か」

「ああ。たまたまだ。魔術師が関わっていたわけじゃねえんだからな」


 そんなはずはない。

 あれは恵がそうしたのだ。彼女は物質を燃えやすくするだけでなく、燃えにくくすることもできたのだ。


 だから本当は、彼女には助かる方法があったはずなのだ。一度は燃えやすくした自分の体をもう一度魔術で燃えにくくしてしまえば、あの火災から生還することはできたのだ。


 でもそうしなかった。

 そうしようと思わせることができなかった。明初には。


 仕方のないことだ。人の気持ちは簡単には変えられない。自殺をした人間に対してもっと寄り添うことができていればと後悔するのは簡単だし、それは残された側の気持ちの整理のためには必要なことなのだろうが、しかし、それでどうにもならなかったという現実が変わるわけじゃない。


 明初御影は機関の魔術師だ。仕者として魔術師社会の秩序を維持する者だ。


 魔術を悪事に利用する者を赦してはならない。

 己の利益のために他者を害する者を赦してはならない。


 だから、これはこの結末で正しいのだ。


「……そのはずだ。……ああ、そのはずなんだ」


 ふと立ち止まって空を見上げた。

 燃える炎のような茜色の中を、一羽のカラスが飛んでいた。











    ◇



〈お知らせ〉

 来週から第二部開始予定です。

 彩夜が主役の物語に戻ります。


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