文学フリマ福岡9 サンプル「名前のない料理」

来宮ハル

小さな飲み友

 金曜日の夜、静寂の中でビールの缶を開ける。その音はドアを開けて外に出る音と似ていると思う。両手を広げて、ようやく土日に向かえる。

 プシュッ、という音に続いてどこからともなく「ひゃっ」と子どもの声が聞こえた。


 あたりを見回しても、子どもなんていない。というかこんな時間に子どもがいるはずない。

 まさか……とごくりと喉を鳴らしたら、アパートの隔板の隙間にちらちらと黒い影が動いた。ホラー映画のワンシーンを思い出して、大人気なく声を漏らしたら、黒い影はぴたっと動かなくなった。


 勇気を出して隣のベランダを覗き込むと、男の子がおそるおそるこちらを窺っていた。


 男の子は下の前歯が一本抜けていた。愛想を振りまこうとしているらしく、はにかんでいる様子はまるで小さな大人だ。俺よりも器用な子だと感心する。


「こ、こんな夜になにしてるの?」

「眠れなくて星を見ていました」


 男の子はちかちか光る星を指さす。まわりの星とは少し違う、金色をしていた。はぐれたように明るく光る星は、救助隊を見つけた遭難者みたいだ。ビールの色にもちょっと似ている。


「そ、そっかあ。でも早く寝ないと」


 男の子は頭をもたげる。だけど、俺からそう言われるのをどこかでわかっていたふうでもあった。


「……お腹が空いて、眠れなくて……」


 男の子は恥ずかしそうに指を絡ませた。思わず、ちょっと待ってて、と缶ビールをエアコンの室外機の上に起き、部屋の中へ戻った。……あった!

 冷蔵庫の中からコンビーフの缶詰とキャンディーチーズを取り出し、チーズを四等分くらいに切ってコンビーフとざっと混ぜ合わせる。よし完成。


 この料理と呼びがたいものは、ひとり暮らしを始めたばかりの頃に開発した。混ぜたら美味いんじゃね、という短絡的な思いつきによるもので、これが大成功だった。それ以来、俺はおつまみに困るとこればかり作っている。


 男の子の元へ戻り、コンビーフを適当な皿に盛り、ミネラルウォーターと一緒に渡した。


「なんですか、これ」

「コンビーフ……とチーズを混ぜたもの。お、美味しいよ。お腹、空いてるなら、どっどうぞ」


 男の子はそれを口にするなり、ぱっと目を輝かせた。

 それを見て、厳しいことを言ってしまった罪悪感が軽くなった。かわりにこんな時間にこんなものを食べさせた罪悪感が生まれてきた。


 男の子は美味しい美味しい、と一気にたいらげた。おかわりは、と尋ねたら勢いよく打ち返されたピンポン球のように「いる!」と言ったので、またお皿に盛ってあげた。

 しばらくすると、男の子は目をこすり始めたので、部屋に戻るよう促した。


 ひとりになったベランダで、ビールで火照った頬を冷ますように風が吹きすさぶ。小さな針が無数に襲いかかるような風に身震いした。男の子がいなくなった後のベランダを、ぼんやりと眺めていた。


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