第2章
第11話 脅し
小高い丘の上に建つ白亜の神殿を背に、馬車は滑るように走り出す。
リアは敢えて窓の外に目を向けなかった。
神殿には見送りのため、新たなヴェルタの聖女となったアンナと、神官長や神官たちがいるのがわかっていたからだ。
膝の上で重ねる手に力を入れ、リアは瞼を閉じていた。
隣に座るのは、黒髪黒瞳の足を組んで座している男。
揺れたときに肩など当たらぬよう、リアは極力窓に寄っていた。
視線を感じて目を開けると、正面に座るゲルトが険しい顔のまま、リアを見つめている。
相当気が立っているらしいが、それでもリアはほっとした。
(ゲルトがいる。だから大丈夫)
その思いが伝わったのか、ゲルトもわずかに表情を和らげる。
生命の間で、クラウスが到底受け入れがたい発言をしたあと、リアとゲルトは戸惑い、そして怒りを感じた。
冗談にしては笑えないし、侮辱としては幼稚すぎると思ったからだ。
「何を考えている‼」
「何をとは?」
「この神聖な場で、そのような戯言は許されない!」
激昂するゲルトに、クラウスは薄く笑った。それがますますゲルトの気に障る。
「戯言ではない。聖女殿……いや、元聖女殿は、俺の屋敷で引き取ることになっている。神官長殿もそれで問題ないと」
ゲルトはキッと、身を竦めている神官長を睨み据えた。
「神官長にそのような権限などない。ましてや、聖女でなくなった者の行く末を、勝手に決める権利など誰にもない!」
ふざけるなと声を荒げるゲルトの腕をリアは引いた。
これ以上、ゲルトを矢面に立たせるわけにはいかない。それに、このまま放っておけば、腰の剣を抜き出しかねない。振り向いたゲルトと視線を合わせ、大きく頷く。後は任せて、と。このときのリアはまだ自分の置かれた状況を正確に理解していたとは言い難い。
自分たちには何の非もないのだし、順序だてて説明すれば、何の権限もないくせに了承したという神官長も、勝手な言い分を捲し立てる俺様クラウスも、最終的には納得し、引き下がるだろうと思っていたからだ。
リアは極めて聖女らしい落ち着きを払った表情を浮かべ、背筋を伸ばし、その場にいる全員へと順に視線を巡らせた。心の内はどうであれ、聖女としての姿を全うしたい。これがせめても、今しがたまでヴェルタの聖女であった者の矜持だった。
「クラウス様、たった今、私はヴェルタの聖女ではなくなりました。既に、水清めの神殿との縁は切れた身です。次の聖女が指名された今、私はただの村娘に戻ります。ですので、神官長が何を仰ろうとも、何を許可されようとも、私の行く手を決められるのは己のみです」
紫水晶の瞳に強い光を浮かべ、面白そうに口元を歪めるクラウスをひたと見た。
「それでは、これで。ゲルト、行きましょう」
今や疲労を忘れていた。清々しさすら抱き、リアは下ろした手を前で重ね、頭を下げる。そのまま流れるように踵を返すと、鋭い目つきをしたゲルトを従えて歩き出す。
「おやおや、いいのかな? そんなことをして」
小馬鹿にするような、面白がるようなクラウスの声を無視し、二人は広間の扉を目指す。
「エデルはどうなるのかな」
何を言われても聞き流そうと思っていたのに、自然と足が止まる。
(エデル……?)
なぜ故郷の名がこの男の口に上るのか。
神官長はそんなことまでクラウスに話していたのか。
歯噛みしたくなるような気持ちを抑え、リアは再び歩き出そうとしたが、
「お前がこのまま逃げるようなら、エデルは苦しむことになるだろう。思いもよらぬような重税か? はたまた子供や若い女を狙った人攫いが村を荒らすか、堅牢な石壁が不慮の事故で砕けるか。さて、どんな災難に見舞われるのか」
リアは目を見張り、踏み出そうとした足を留めた。
(なに……? どういうこと?)
おそるおそる振り返れば、勝ち誇ったようなクラウスがリアを見据えている。
その隣には、いつの間に移動したのか、新たな聖女となったアンナが底意地の悪そうな笑みを浮かべている。
背後の神官長は顔背け、無関係を装っているが、神官たちはお互い顔を見合わせ、不安げに事の成り行きを見守っているようだ。
「エデルの領主とは懇意でな。貸しも多分にある」
意味が分からず、リアは何か言わなくはと口を開きかけたが、クラウスの発言とその物言い、表情と態度から、胸の奥底から嫌なものがせりあがって来るのを感じ、息をつめた。
(まさか)
不敵に笑う悪魔が、頭に手を当て、挑むような漆黒の瞳をリアに向けながら、どこか妖艶な仕草で小首を傾げる。そう、黒髪黒瞳に黒衣を纏うこの男は、血の色を首に巻き、こちらを嘲笑うように見つめてくる。正に悪魔のようで、リアは身震いした。
「それは脅しか」
冷静な声音が頭上から降って来る。振り仰げば、氷のような無表情でゲルトがクラウスを睨み据えている。
「捉え方はお前たち次第だ。さあ、どうする?」
畳みかけるように言うクラウスにちらと目をやり、リアは目を伏せた。
(この男と行かなければ、エデルに危機が訪れる……そういうことなのね)
今朝、目を覚ましたとき、いつものようにそこにはゲルトがいて、身支度を手伝ってくれた。カーテンを開けた窓からは白い光が差し込み、目覚めも悪くなかった。
だから、今日一日がいつもと同じように過ぎると、何の疑いもなく信じていた。
けれど、どうだろう。
神殿に似つかわしくない二人組と対面してから、全てが狂い始めた。
そして、今リアは考えたこともないような決断を迫られている。
(なぜ、クラウスは私を自分の手元に置こうとするの? こんなことをしてまで)
初対面の聖女を我が物にしようとはどういう了見なのだろう。
クラウスという男の真意が読めない。
だが——
リアは視線を上げ、クラウスの勝ち誇ったような瞳を睨み返した。
(クラウスは本気だ)
彼はまやかしや冗談で、エデルの村の危機を口にしたのではない。言葉にしたからには、容赦なくエデルをいたぶるだろう。自分の手を直に汚すことなく。
クラウスとは会ったばかりだし、その人となりを知るわけではないが、彼の瞳に浮かぶ冷酷なまでの光や、人を人とも思わぬような残酷な表情から、どういう人間か予想がつく。
つと視線を逸らし、リアはゆっくり呼吸し、小刻みに震える体を慰めようとした。
そのとき、ゲルトがリアに近づき、その耳元に口を寄せた。
囁くような低い声で、ゲルトは短く告げる。
「リア、逃げるぞ」
はっとしてゲルトを見れば、こくりと頷かれる。
何の躊躇いもなく、ゲルトはこの場を逃げ出す道を選んでいる。
(村を見捨てて、自分たちだけ逃げると言うの?)
見開いた瞳に、ゲルトはわずかに動揺したように視線を外したが、すぐに迷う感情を振り切り、ゲルトはリアの腕を強く掴んだ。
「俺にとって大事なのはリアだ」
紡がれた言葉は、今まで幾度も耳にした言葉だ。
村では一番の友として、神殿では聖女を守る聖騎士として、彼は自戒であるかのようにそう口にした。
だから、村とリアを選べと言われたら、やはりゲルトはリアを選ぶのだ。
エデルは故郷で、ゲルトの両親だって健在だ。パン焼き職人の息子として、あまり快適とはいえない村生活であったとしても、郷愁を抱くべきかけがえのない場所には違いない。それでも、ゲルトはリアの手を取り、この場を去ろうと言う。
そのまま流されそうになって、それでもリアは動くまいと足に力を入れた。
ゲルトが驚いたようにリアを見下ろすが、腕の力は緩めない。
「外に馬車が待たせてあるんだが、出発が遅いと、夜までに屋敷に着けまい」
世間話をするような気軽さでクラウスは言い、肩を竦める。そして、アンナをその場にそこしたまま、リアとゲルトの元にゆっくりと近づいてくる。
「荷造りもあるだろう?」
反射的に顔を向けたゲルトは射抜くような双眸でクラウスを見た。
これ以上近づくなというように、歯を食い縛り、唸り声すら上げそうな勢いだ。
リアは覚悟を決めた。毅然として顔を上げ、既に数歩先まで迫るクラウスに顔を向ける。
「わかりました」
「リア⁉」
悲鳴のようなゲルトの声を受け止めながら、リアは続ける。
「私一人ですか?」
思わぬ問いかけだったのか、クラウスは足を止め、眉を上げた。
「そのつもりだが?」
「そうですか。では、私が大人しく従うにあたり、条件があります」
ひどく速い鼓動が、耳元で聞こえるような気がした。
それでも、平静を装い、凛とした佇まいでリアは立っていた。
腕を掴むゲルトの手の力が更に増していく。
「ほう? 条件?」
唇を下で濡らし、クラウスは酷薄そうな笑みを浮かべた。
「ゲルトも連れて行きます。彼の同伴をお認めにならなければ、私はあなたに従いません」
虚を突かれたように、クラウスは軽く目を見張ったが、徐々に表情を崩し、漆黒の瞳に卑し気な色を浮かべ、手の腹で顎を撫でる。
「愛されるために男の元へ行くというのに、そこに他の男を連れ込むと? これはこれは、強かな女だ」
黙ったまま挑むような瞳を向けていると、クラウスはふっと肩の力を抜き、眉を上げて見せる。
「良いだろう、認めよう。妾が男の一人や二人囲うくらい許容できない俺ではない」
では、決まりだとクラウスは言い、踵を返して、今までとは打って変わり能面のような顔のアンナの元に戻り、その肩に気安げに手を置いた。そして彼女をくるりと反転させ、今まで空気と化していた神官長の方へ歩いて行く。
「神官長殿、少しお話があるんですがね。聖女殿が支度を終えるまでの間で済みますよ」
クラウスが離れて行ったことで、ようやくリアはまともに呼吸ができる気がした。
深く息を吐きだすと、ゲルトがリアの腕を引っ張り、扉の外に出る。そして無言のまま、自室へと続く静かな廊下を歩きだした。リアも口を開けることなく、大人しく引き摺られていった。ちらりと目の端に映ったゲルトの表情は、一気に氷点下に下がったのかと思うほど冷ややかだった。
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