第10話

 茶屋町を抜けて樽石川を越えると、あとは百姓家が点在するだけで、繁華街を目にした者にとってはやや心細い風景が広がる。更に先に、初代藩主白鳥長久公が建立した松間寺という浄土宗の山寺がある。杉林の参道が途切れると寺へ続く多くの石段が待っている。


 陽は傾いていた。


 大森が石段を上って行く。奴が松間寺に何をしに行くのか、と思ったとき、猪四郎はあることに気付いた。この寺には、前藩主長忠の弟である長宗が出家して暮らしていた。


 大森らの謀反が、単に仲里の追い落としだけでなく、藩主の交代をも企むのであれば、擁立するのはこの長宗をおいて他になかった。仲里に信頼を寄せる藩主長政は、確かに、大森らにとっては大きな壁になる。謀反を成就させるためには、そこまで考えるのは当然とも思えた。


 大森が長宗に会うとなれば、謀反の具体的な動きと見るに十分だった。


 猪四郎は石段を上って行った。俗に百段といわれているが、さほど苦には感じない。体が軽いせいだけでは無いと思った。気が張り詰めている実感はあった。


 境内に入ると、薄暗がりの中で、左翼の建物の一部にわずかに明かりが見て取れる。猪四郎は小さな体を更に低くして、慎重に歩を進めた。


「儂には、そのような野心はない」


「藩のためです。長政公は完全に仲里の言いなりで、公正な判断が出来ない状況。仲里は一部の側近だけを重用し、意図的に民や家臣の声が上まで届かないようにしています。このままでは、藩は立ち行かなくなるのは必至」


「ここ数年は天候の不順による凶作が続き、それでも何もしない無策ぶりに農民の不満は高まっています」


「政は、よく解らぬ」


「仲里は近江屋を重宝し、藩の財政に食い込ませ、その見返りに多額の賄賂を受け贅沢三昧。これだけでも、仲里を斥ける理由に十分値します」


「確かに、仲里は近江屋とは関係が深いとは聞いている。しかし、先代の時でも、領内で商売する商人とは持ちつ持たれつの関係ではあったろう」


 聞こえてくる声から、話をしているのはどうやら四人のようだ。一人は大森で、もう一人は長宗に間違いない。あとの二人は判らないが、長宗以外の三人の口調からは激しい憤りが感じ取れる。


「儂が断れば、どうするのだ」

「何もしない訳には行きません。我らだけでも立つまで」


「勝算はあります」

「例え仲里を追い落としても、長政の怒りを買うだけだぞ」

「いえ、そうとも一概には言えません。城内の多数が、どう動くかにかかっています」


「ほとんどは様子見のはず。我らに分があると見るや、一気に流れは来ます。そうなったら、長政公もそれを無視は出来ません」


 大森らの分析にも一理あると思われた。武藤の名を挙げるまでもなく、どう行動するかは、自分にとって有利になる方に与するだけだ。今は仲里に取り入ろうとしている者でも、状況が変われば、行動を変える者がほとんどだろう。


「まあ、しかし、藩の混乱は好まぬ。何とか穏便に収められないのか」

「仲間に諮っても、何もしないという者はいないはず」


「ご決断を」


 沈黙している。長宗が考えを巡らしているのだろう。ただ、長宗の答えがどうであれ、大森らは長宗抜きでも事を起こすと言っているのだから、謀反が起こるのは必至と見て間違いない。急ぎ家老に知らせねばと思い、猪四郎はこの場を去ろうとした。


「仲里のあとは、誰を家老にするつもりなのだ」


 猪四郎は動きを止めた。これは何としても聞かなければいけない事柄だ。背を向けていた体勢を戻し、自分と四人を仕切る障子戸に体を近付けて聞き耳を立てた。


「今日集まったのは、そこを決めるのが主な目的でした」

「我らにも腹案はありますが、新藩主の意向がなによりも大事」

「ここは、是非とも正直な思いをお聞かせいただきたい」


 三人の声の調子が明らかに変わった。しかも、低く小さな声になった。


「うーむ、仮に、儂が藩主となればだが・・」


 長宗の声も小さく呟くような調子になった。なかなか聞き取りづらい。


「是非、思いのうちを・・」

「そうだな・・」


 聞こえない。猪四郎は更に顔を障子戸に近づけた。耳は聞きたい一心で前に行くが、体は引き気味である事が災いした。つんのめってしまい、顔が障子戸に当たってしまった。


「誰だ」


 障子戸が勢いよく開いた。大森と二人の武士が刀に手を掛けて身構えている。前のめりで這いつくばっている猪四郎は、斬られる、と覚悟した。


「がきが何をしている」


 期待を裏切られる言葉ではあったが、絶体絶命の危機からも肩透かしを喰った状況ともなった。なにはともあれ、猪四郎には逃げるだけの余裕が出来た。


「は、はい。失礼しました」


 立ち上がり背を向けて去ろうとした。だが、幸運の女神も気まぐれだ。


「待て」


 大森の声が背中に刺さった。足が止まった。


「お前、庶務役の者ではないか」


「・・何だとう、仲里の犬か・・」

「・・騙しやがって・・」


 背中を殺気が襲う中、猪四郎は慌てて逃げ出した。


「待て」

「・・斬り捨ててくれるわ・・」

「・・逃してなるものか・・」


 追ってくる三人の言葉と心の叫びが浴びせられる中、境内を出て、石段を転がるように降りて行った。暗くてよく見えない中を感覚に頼って足を動かすが、地の底に向かっているようで、百段がとてつもなく長く感じられる。


 前方に灯りが見えてきた。提灯が何個も揺れている。それが何かを見極めようと気を取られた瞬間、足が滑った。


「うわっ」


 転がって頭を打った。

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