第7話

 厩新築の件は、修正した案を再度家老に説明する段取りとなっていた。


 この日、朝から説明に行った武藤を待ちながら、猪四郎は庶務役御用部屋の格子戸から見える木々の葉が風に揺れているのをぼんやりと眺めていた。ここのところ、何をするにしても手が付かなかった。気付くと、みをの事を考えているのだ。ため息だけが出ていた。


 ドスンと目の前に三浦が座った。


「どうした猪四郎、元気がないではないか」


 あの日以来、三浦は猪四郎に対する態度をすっかり変えていた。二人だけの時でも気に触るような言葉は言わなくなった。だが、聞こえてくる心の中は相変わらずで、要するに皆と同じになったというだけだ。


「今家老に説明している案は、ほとんどお前が意見したものとなったな」

「いえ、私の意見というよりも、御家老の意向がそうではないかと思ったもので」

「つまり、お前の考えだろう」

「御家老の言葉からそう受け取っただけです」

「しかし、一緒に家老の言葉を聞いた組頭は、ただ褒められたとしか受け取らなかったようだぞ。あのはしゃぎ様はお前も見たろう」


 猪四郎は言葉に詰まった。奥歯にものが挟まったような曖昧な言い方などせずに、はっきりと自分の意見だと言った方が楽に思えてきた。どうせ、分かることなどないのだ。だが、実際には家老の心の内が聞こえただけで、自分がそう思った訳ではない。裏山崩落から馬を救ったことで褒美をもらったことも、うしろめたい気持などないと言えば嘘になる。このことでも、自分が出来る者だと周囲に誇示することには遠慮があった。出世への欲望は強くなっていたが、超えることに踏ん切りがつかない一線は残っている。


「そもそも、組頭は自分の意見などない男だ。どうすれば上に気に入られるかしか頭にない。お前も分かっているだろう」

「まあ、そうですが」


 三浦が周囲に目を配りながら大きな体を低くして声をひそめた。


「良いか、だから気を付けろ。組頭は自分のことしか考えていない。部下の手柄も隙あらば自分のものにしてきた。例の件も、皆が見ていたからお前の手柄とせざるを得なかったが、誰も見ていなければどうなっていたか、そういう男だぞ」

「はあ・・」

「もし、今回の練り直し案が家老に認められたら、あいつは自分が考えたものだと言いかねない。本当はお前の意見なのに」


 三浦の言うことは十分に理解できたし、そう忠告してくれる気持ちも嬉しかったが、モヤモヤしたものが素直になる気持ちを妨げていた。ここのところの自分に対する周囲の評価と実態とはかなり解離していると感じているからだ。言うなれば滅多にない幸運が何度か続いたようなもので、それを実力と勘違いするほど愚かであってはならないとの思いもあった。


 部屋がざわついて猪四郎は視線を入り口に向けた。武藤が戻ってきた。


 皆が注目する中、やや硬いとも取れる顔色の武藤がゆっくりと席に着いた。表情からはその成否は読み取れない。場が静まって数名が心配そうに武藤の周囲に集まった。三浦が武藤の前に座って身を乗り出した。


「如何でしたか」


 武藤がもったいぶったように一呼吸置いてゆっくりと頷いた。


「喜んでくれ、家老が見直し案を了承された。これでやってくれとのことだ」


 オオッと皆が表情を崩し場が和んだ。だが、武藤は、口元は緩めているものの、目には密かな企みを含んでいるような鋭さを残していた。


「皆、よくやってくれた。家老からお褒めの言葉があったぞ」

「どのような言葉があったのですか」


 三浦の問いに武藤が少し考えた。


「そうだなぁ、やはり、場所と丈夫な造りへの見直しについてだな。よくそこに気づいたと言われた。城内の意見を集約したことには、大層驚かれたようだった」


 三浦が猪四郎に視線を向けた。


「つまりは、猪四郎の意見が評価されたということですか」

「そういうことだな」


 武藤が頷くと、三浦が武藤に視線を戻した。


「その経緯は説明されたのですか。猪四郎が意見を入れて、案が練られたことを」

「無論、全て語った。部下の功績を報告することが上役の務めだからな。家老はいたく感心しておられた。鹿山、今回も大した働きだったのう」


 武藤も視線を向けて来た。にこやかに笑みを浮かべているが、目には鋭さを残している。


 猪四郎は武藤を注視した。


「・・家老から評価されたのに、部下の意見を取り入れたなどと言う訳にはいかないだろう。全て儂が考えて指示したことにしないと、儂への評価は上がらぬ。どうせ家老に何を言ったかなど、この連中はわからないのだから・・」


 不意に殴られたような驚きだった。嫌なものに触れた不快さもあった。確かに、三浦が言うように、自分もこの男のそういう面を感じてはいたが、その露骨な醜さを目の当たりにした衝撃は小さくなかった。


 時刻が経過しても、なかなか猪四郎の気持ちが治まらなかった。お役目が引けると、早速三浦をつかまえて話をした。


「あの組頭の言葉は嘘です。全て、自分の手柄にしています」


「だろうな、俺もそう思った。そうに決まっている」


 意外にも、三浦はあっさりと認め、しかも平然としている。熱い言葉を期待しただけに、猪四郎は肩透かしをくらった気がした。


「であれば、お役方が皆で苦労して作り上げたのに、あまりではござらぬか」

「しかし、証拠がある訳ではないからな」


 証拠、という訳ではないが、確かなものはあった。だが、それを言う訳にはいかない。もどかしさが、猪四郎の口を止めた。


「今にして思えば、誰かが説明に付いて行っていれば違ったのだろうが、そこは上手くやられてしまった。敵もさる者だ」


 猪四郎は力なく頷いた。


「まあ、お前としては悔しいだろうな」


 この三浦の言葉は猪四郎の急所を突く響きがあった。武藤の卑劣な行為と、役方皆の評価が蔑ろにされたことで気持ちが昂ぶっていたとばかり思っていたが、結局は、自分の働きが家老に届かなかった悔しさのためだったと、そう気付いたのだ。


 意外にも、自分に対する嫌悪感や自制心は起こらなかった。目の前の幸運を活かさないことも、また愚かなことかも知れない。そう思えた。


 吹っ切れた割り切り感があった。

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