第5話
「分かった。それは良い。問題は天候だ。今後も好天が続くという保証は無い。その場合の対応もしっかりと考えておくようにしてくれ」
家老御用部屋から葉山藩家老仲里登四郎(なかざととしろう)の声が聞こえていた。穏やかだがしっかりとした口調だ。猪四郎は武藤と共に控えの間で順番を待っていた。この日、庶務役として新しい厩の建築案を説明することになったが、猪四郎は家老に対し殿より頂戴した褒美のお礼を述べるため武藤に付いてきたのだ。
「もちろん、雨だけでなく、逆に日照りということも考えられる。昨年のような凶作も無いとは言えない。抜かり無いようにしてくれ」
藩は家老が全てを仕切っている。仲里は、頭は切れるが穏当な性格で、どのような場合でも声を荒らげることは無く、誰に対しても平等に対応することから、表立って反発する者は見られなかった。用心深い面もあり、気付いたことには用意周到に先手を打っていることも、敵が出来ない理由なのだろう。
先代である父長忠の死を受けて藩主に就いた長政は、幼少の頃から親しかった仲里を家老に抜擢した。当初は先代に近い家臣からの反発もあり、藩内に幾度となく不穏な動きも見られた。仲里は、反発する勢力の実情を把握し、見込みある者へは処遇により切り崩しを行いながら、強硬な者へは弾圧を持って対応することで、徐々に騒動の芽を摘んでいった。やがてそれらも収まり新体制は安定して行った。
仲里の、喜怒哀楽を表情に出すこともなく、心の内を見せずに物事を進めていく姿勢は、家老職の威厳を保つことには役立っているが、近寄り難い冷たい印象を周囲の者に与えていることも否定できない。
農政の説明が終わったようだ。襖が空いて武藤が呼ばれた。猪四郎は武藤に付いて部屋に入り、仲里の前に座り一礼した。
武藤がゴホンと咳払いした。
「ええ、厩新築のご説明に入る前に、先日、例の件で上様よりご褒美をいただいた鹿山猪四郎が御家老に対しお礼を述べたいと申すので連れて参りました」
仲里が穏やかな笑みを浮かべた。
「おお、そうだったな。御苦労であった。これからもしっかりやってくれ」
猪四郎は、ハハっと返事をして頭を下げた。
「・・これが例の男か、確かに貧弱だな。だが、藩は容姿端麗な者を必要としている訳ではない。要は、使える者かどうかだ・・」
武藤の説明が始まった。四、五日前から役方を相手に稽古してきた成果を出している。聞き慣れた口上を耳にしながら、猪四郎は仲里を注視した。一見すると穏やかだが、口元が固く結ばれている。
「・・分かっていないな、倹約しろ、節約しろとは言っているが、単に安い物を作れば良いという訳ではない。四、五年しか持たない物より、十年、二十年持つ物を作ることが余程節約になるだろう。大事なところは金を惜しむなとも何回言ったことか。しかも、場所が安易に前の厩の隣とは。城全体の配置や使い勝手という視点が欠けている。他の者の意見も聞いてはいそうにないな・・」
仲里が右手を上げた。
「わかった。まず場所を先に決めよう。私も現場を見てみたい。その上で、皆と話し合い、その場所に適した作りを考えようではないか。なかなか吟味された良い案であった。ご苦労」
猪四郎は武藤に視線を移した。
「・・おお、家老から褒め言葉があったぞ、良い案と言われた・・」
武藤の悦に入っている表情を見ながら、仲里の「わかっていないな」という言葉が思い出され、思わず苦笑しそうになったが、不安も芽生えていた。仲里としては、武藤の面目を考えて即座に否定する事をせずに、気を使ったのは明らかだった。しかし、武藤は真に受けてしまっている。このまま武藤が話を進めて行けば、いつか必ず大事になりそうな予感がした。
同時に、猪四郎の気持ちを仲里の「使える者」という言葉が前向きにさせていることも確かだった。例の件で、自分の名が仲里の記憶に留まったようだ。まだ使える者として刻まれた訳ではないだろうが、その候補には上ったとも取れる口調だった。庶務役が抱える厩新築の件がうまく運び、そこで何がしか名を上げることが出来れば、使える者として認められる事がそう遠い先ではないとも思えた。
庶務役詰所に戻ると武藤は皆を集めて一頻り自慢を語った。話が終わるのを見計って、猪四郎は武藤の前に進み出た。
「組頭、先ほどは御同行させていただきありがとうございます」
武藤が紅潮していた痕跡であらうほのかな赤みが残る顔で頷いた。
「うむ、良かったではないか。ところで、どうだった、拙者の説明ぶりは」
「はい、さすがでございました。敬服いたしました」
「そうか、そう思ったか」
「はい、ところで、説明ぶりは完璧でしたが、内容にいささか気になる点がございまして」
なに、というように武藤がジロリと睨んだ。
「どの様なことだ」
「はい、先ず場所でございます。城全体の配置や使い勝手を考えると、元の場所で良いのかどうか。そこを御家老が気になさって、自分で確かめると言われたのではと思います」
武藤が腕を組んだ。
「しかし、良く練られた案だと言ったではないか」
「もちろん、良い案であることには変わりません。ただ、そういう視点でも十分検討したとなれば、御家老も安心なさるのではないでしょうか」
武藤がジッと図面に見入った。
「そうなると、確かに、他に良さそうな場所はあるなぁ」
「それともう一つ」
武藤が顔を上げた。
「何だ、まだあるのか」
「はい。後家老は倹約、節約に務めろと言われていますが、同時に、大事なところには金を惜しむなとも強調されております。多少費用が張っても、丈夫で長持ちする厩の方が、御家老の意にかなったものとなるような気がしました」
家老の意向という言葉に反応したのか、武藤は急にソワソワし出した。
「しかし、また家老にどう見直すか聞くわけにも行かないだろう。どうするか」
「ここは、他のお役方の意向も踏まえては如何でしょうか。城内の総意となれば、御家老も納得されるのでは」
「なるほど」
武藤は早速案の練り直しを命じた。
他の役方との話し合いが何度か持たれて、猪四郎もその場に立ち会った。その結果、練り直した案は城内の総意が集約された形となり、概ね、家老の意向に沿ったものとなったように、猪四郎には感じられた。
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