第36話署名と印は慎重に

 突然の「勇者」の登場に煉獄が大騒ぎしはじめる、少し前のこと。


 何故か救護室前の廊下を熱心に拭いていたクロムを捕まえたサタンは、大きなマグマの滝の前で腕を組んで睨むように滝を見つめていた。


「で、これが何だって?」

「魚がいたんすよ! この滝を昇ってて」

「見間違いだろ。何度あると思ってんだ」

「いや、マジで見たんすよ! なぁ!」

「ほんとっす! 自分ら捕まえようと思ったんすけど素早くて」


 この滝担当の悪魔たちが必死にサタンに伝えているのは、高温のマグマが流れる滝で、何故か魚が滝登りをしていたという信じ難い話だった。


 サタンは一応目を凝らすが、当然魚など影も形も見えない。どうしたものかと思っていると、滝に近づいて様子を見ていた大きな翼が隣に降りてきた。


「どうだ?」

「何もありませんね」

「や、ほんとにいたんですって!」

「おぉ、そりゃ嘘だとは思ってねぇが……どう思う?」

「やはり鯉でしょうか」

「あ? 恋? お前が? 嘘だろ?」

「? 何がですか?」

「相手は誰だ? やっぱシルバーか?」

「やっぱり! ついにクロム様とシルバー様が!?」

「早く言ってくださいよ!」

「は?」


 突然色めきたった悪魔たちに一瞬怪訝な表情を向け、クロムは滝に視線を移した。滝登りといえば鯉だろうかと魚の種類を考えている真面目な横顔は、どう考えても恋人を想っている雰囲気では無い。サタンはあ、これ違うな、と即座に切り替えた。


「入ってみるか?」

「中は見えないので手探りになりますが……網とか」

「溶けるだろ。あー……餌とか」

「何を食べるかわかればですが」


 見間違いだと言いつつもマグマの中に魚がいる前提で真面目に話し合う二人はやはり優しいのだと、周囲の悪魔たちは安心した表情を浮かべた。暫く話し合っていたクロムとサタンだが、このままでは埒が明かないと同時に飛びあがる。


「とりあえず入ってみるか。お前右な」

「はい。では行きま……っ!!」

「何だ!?」


――ジリリリと、大音量のベルが地獄全域に鳴り響いた。滅多にならない緊急警報、しかもかなり上位の緊急事態を告げるものだ。地獄が始まって以来、この音は鳴ったことがない。


「大変だぁーー!!!」


 上の方から、大勢の悪魔達が飛び込んできた。マグマの滝は下層にある。どうやら中層以上の層に何かがあったらしいと、サタンとクロムはその表情にさっと緊張を走らせた。


「どうした! 何があった!?」

「サタン様! 大変です! ゆ、ゆう……あの」

「落ち着け。大丈夫だ」


 近くを飛んでいた若い悪魔を捕まえて、サタンは事情を聞いた。明らかに怯えているその肩をしっかり掴み、落ち着かせるようにゆっくりと話しかける。地獄一頼もしい金の瞳に縋るように、彼はやっとのことで震える唇を動かした。


「勇者が……あらわれました」

「何?」

「勇者が聖剣を振り回し、悪魔を次々と殺しています。煉獄はもう……」

「わかった。大丈夫だ、俺がどうにかするから。ここにいろ」


 泣きながら煉獄の惨状を報告する悪魔の肩をぽんぽん叩き、サタンはクロムと視線を交わした。念のために何名かに聞き込みをするが、皆口を揃えて同じことを言っている。肩や背中から黒い煙を出している者も多く、それは未熟な悪魔が天国に行こうとして身体が溶けてしまった時に出るものと酷似していて、明らかに、聖なるオーラに焼かれたのだとわかった。


「確認しに行きますか」

「お前は駄目だ。すぐ勇者に手ぇ出すだろ」

「俺の魂程度で被害を最小限にできるならそうしますが」

「絶対行かせねぇ」

 

 サタンはクロムの手を引っ張って、法律書を取りに向かった。そのうちクロムも諦めて、二つの翼は猛スピードで最下層に降りていく。


「勇者って人間だよな?」

「おそらく」

「聖剣出したって?」

「魔を祓うらしいですよ」

「だからって悪魔大虐殺かよ」

「悪魔以上に狂ってますね」

「そんなだったか勇者って」


  勇者の伝承は地獄にも伝わっていた。聖剣を持ち、魔を祓い、天使を味方につけて人間の世界を平和に導く強き者。それが何故か煉獄で大虐殺を行っているらしい。信じ難い話だが、事実ならば恐ろしい事だ。

 

つえぇのか?」

「勇者というより、厄介なのは聖剣かと。聖なる剣のオーラは、地獄を吹き飛ばすほど凄まじいそうですから」

「それは聞いたことあんな。魔王おれを殺せる聖なるアイテム……でも勇者って善人しかなれないはずじゃねぇの?」

「何故か大量虐殺犯が持っているらしいですが」

「何でそうなったんだよ」


 最下層へ辿り着いても少しの速度も落とさずに、彼らは滑り込むように黒の部屋へ入っていく。そのまま本棚へと走り、サタンは一冊の本を開いた。【地ノ国ノ法律書】と金糸で縫われた黒い本を捲り、該当箇所を素早く探す。


「『悪魔は他種族を傷つけてはならない』これだな」

「これがある限り、勇者とは戦えないですからね」


 クロムは横から法律書を覗き込んだ。この地獄で法律は絶対。破るとたとえ魔王といえども容赦なく地獄堕ちしけいだ。


「そういえば、勇者の名前を聞いていませんが」

「識別できればいいから『勇者』でいいだろ。勇者はこの世に一人しかいねぇ」


 サタンは法律書の該当ページに迷わず「勇者」と書き込み、ペンを挟んで両手で持った。

 

「勇者の情報自体があいつの流した偽情報デマという可能性は」

「ねぇだろ。あれは聖剣で出来た傷に間違いねぇ。ミカエルが「武器」持って戦争仕掛けて来てなきゃな」

「……それは流石に考えにくいですね」

「だろ? あと念のため、あいつの派閥じゃねぇ悪魔に聞いたし」

「派閥? そんなものが……」

「知らねぇのか? 針の山と血の池はあいつの息がかかってる。あと、メルルと針の山に接点あるから毒の沼関係。この辺りは信用できねぇ」

「それをなぜあなたが知ってるんですか」

マスターは何でも知ってんだよ。さっさと行くぞ」


 法律書を抱えたサタンの合図で、二人は再び地面を蹴った。風圧で書類が舞うのも気にせず、とにかく速さを優先する。その時ガタンと棚の一部に指が触れ、クロムは反射的に落ちかけた小さな木製の箱を掴んだ。しかし戻す間もなくサタンが扉を出てしまう。仕方ない後で戻そうと、クロムは木箱をポケットに突っ込んだまま外に出た。


「ミア!」


 黒の部屋を出てすぐに、目当てのひとりは発見された。幸運だったとサタンとクロムは顔を見合せ、ミアの前へと並んで降り立つ。


「あ! あの、凄い警報が……あれって」

「勇者が出たらしい」

「勇者!?」


 ミアが驚きの声を出す。サタンは頷いて法律書を開き、ミアにペンを渡す。


「大丈夫だ。お前は何もしなくていい。ついでに何も聞かずにここに名前を書け」

「はぁい」


 それでいいのか、とクロムから呆れた視線が飛ぶが、ミアは本当に何も聞かずにサインした。魔王様のやる事に間違いは無い、が通説だが、文面を読みもしないのはいかがなものかとクロムは密かに思っている。


「できましたぁ」

「よし偉い!」

「えへへ」

「サタン様……」


 クロムの冷ややかな視線に構わず、サタンはミアの頭を撫でた。完全に子どもかペットの扱いだ。その後サタンとクロムは下層で最も見通しの良いマグマの滝の前で戻り、周囲の様子を見ながらもうひとりの指導者リーダーを探す。

 

「さて。次はケルベスだな」

「姿がわからないので探すのは大変そうですが」

「探す? 冗談だろ、向こうから来いよ」

 

 サタンは茶色のホイッスルを取り出して思いっきり吹いた。ケルベスを呼び出す時のものだ。澄んだ笛の音はクロムには全く聞こえないが、サタンの耳にはしっかり聞こえている。吹いた者と本人を繋ぐ笛の音は、おそらくケルベスの耳にも入っているはずだ。


「来るでしょうか」

「来るだろ。大事なチャンスだ……やらねぇけどな」


 金印を目にするかもしれないチャンスを、ケルベスは逃したくないはずだ。しかしサタンは彼に少しも金印を見せるつもりはない。そのために、クロムの署名は最後に残してあるのだ。


「クロム。お前は最後だ」

「当然です。しかし、あいつも最後に署名したがると思いますが」

「まぁな。だが、最終的には署名するはずだ……俺の信用を、まだ失いたくないだろうからな」


 中層から飛んでくる少し欠けた翼を見ながら、サタンは口元だけで笑った。痩せた青年の姿で現れたケルベスは、サタンに軽い礼をして、言われるがままにペンを持った。そして法律書に目を通し、少し考えて口を開く。


「サタン様……俺の署名は、最後にできませんか?」

「へぇ。何故だ?」

「あなたは「勇者」を、まだ見ていないでしょう」


 ケルベスは人差し指を立てて、上を示した。


「実は、俺もまだ見ていないんです。討伐対象が本当に勇者なのかわからない状態で、署名することは出来ません」

「あの聖なるオーラで受けた傷を見たか? あれは天使には付けられねぇ」

「しかし、天国には「武器」があると聞きます。考えたくはないですが……ミカエル様が何らかの事情で出した可能性もゼロとは言えないでしょう」

「なるほどな」


 サタンは腕を組んで少し考えた。サタンやクロムはミカエルに絶対の信頼を置いているが、他の悪魔にまで彼を盲目的に信じることを強制しようとは思っていない。ケルベスもおそらくミカエルを疑っているわけではなく武器の噂を利用しているに過ぎないと思っているが、一応言い分に筋は通っている。


「お前の言う事は一理ある。実はさっきクロムとも似たような会話をしたんだ。俺は九割九分勇者だと思ってるが、お前が信じられねぇのも無理はねぇ。だから、今見てこい」

「今……ですか?」

「お前の速度なら、一分もかからず煉獄まで行けるのはわかってる。一緒に行ってもいいが、勇者の暴れてる中で印を押す暇なんかぇかもしれねぇだろ」

「しかし、俺だけ見に行っても……」

「そのうえでお前がミカエルのせいだと言うんなら、討伐対象名をミカエルあいつに変えてもいい。ただ、それが嘘だとわかった時には……わかるな」

「……悪魔の嘘は、違反では……」

「そうだな。同族殺しも違反じゃねぇ」


 サタンは魔のオーラを強めて、ケルベスを威圧した。


「魔王に殺された最初の悪魔として歴史に名を刻みてぇか?」

「……いえ」

 

 圧倒的なオーラを前に、ケルベスは渋々ペンを動かして署名した。しかしサタンは動かず、クロムも署名をしない。ケルベスが不審そうに眉を寄せると、サタンは上を示して言った。


「よし。賢いケルベスに、俺から仕事だ。先に行って煉獄の避難状況を見てこい」

「クロムの署名もまだのようですが」

「こいつは俺の見張り役だ。金印を悪用しねぇようにな」

「……俺も同じ指導者リーダーですが」

「こいつとお前に対する信頼度が同じだと思ってんなら、お前は相当な勘違い野郎だ」


 要は、信用できないからこの場から出ていけ、ということだ。ケルベスはほんの一瞬悔しそうに唇を噛んだが、すぐに翼を動かして上へ飛んで行った。その姿が完全に見えなくなってから、サタンは改めてクロムを見る。それを合図に、クロムが最後の署名をした。リーダー全員の署名が並んだ一番下に印を押そうと、サタンが金印の入った袋を取り出す。


「これを押せば、勇者を討伐できる」


――バシャッ!


 その時、ちょうど背後にあるマグマの滝から大きな水音が響いた。マグマが水滴のように辺りに飛び散り、巨大な金色の鯉が現れる。美しく光る金の鱗は光の少ない地獄でも強く輝き、周囲の者は皆、その輝きに目を奪われた。


「今度は何だ!?」


 金印の入った袋を持ったままサタンが思わずそちらに気を取られたのは無理もないことだった。魚の姿は一瞬で消え、それが幻影だと気が付いた時には、もうサタンの手から、袋はきれいさっぱり消えていた。

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