第32話天使みたいに綺麗は地雷

「うーん……」


 朝日が、柔らかなレースのカーテン越しに広いベッドを明るく照らす。ミアはもぞりと手を動かし、毛布を頭の上まで被せて丸まった。


 悪魔は朝が苦手だ。ミアも例にもれずそうだった。サタンやクロムは早朝から元気よく働いているが、おそらくあれは寝ていないのだとミアは確信している。それに常に薄暗い地獄と違い、人間界の朝は特に身体が重く感じるのだ。このまま昼過ぎか、もしくは夕方まで寝ていたい。そして夜から地獄へ出勤だ。ミアは寝ぼけた頭で今日の緩いスケジュールを思い描いた。


「ミア! ミア!?」


 しかし、ミアのそんな計画は、数秒もしないうちに打ち砕かれた。自分を呼ぶ聞き慣れた声。バタバタとした足音はだんだん大きくなり、少しの遠慮もなく、布団が勢いよく捲られる。


「ミア! 良かった……ちゃんといた」


 眩しさにぎゅっと瞑った目を少しずつ開けると、最近付き合いだした恋人の姿が視界いっぱいに映った。燃えるような赤髪。安心したように息を吐く一方で、深紅の瞳は揺れている。人間と付き合うのは初めてだ。正体を明かせないミアの事を、彼はどう思っているのか。


「……どこか行ってたの?」

「近所に熊が出たから、狩りに行ってた。庭で解体してちゃんと肉も食うよ。毛皮も剥いで売るし、全部無駄にしない……いいだろ?」

「うん。お肉は好きだよ。残さず食べよ」


 カイルが心から安心したような笑みを浮かべる。それを見て、ミアはようやく起き上がった。背中から魔のオーラが漏れ出すのを押さえながら伸びをする。うっかり翼を広げたりしたら一大事だ。


「今日は休み?」

「夕方から仕事行くよ。職場がごたごたでね。ちょっと忙しいんだぁ」

「何の仕事してんだよ」

「えー……ナイショ」

「またそれかよ」


 カイルは溜息をつきながら部屋を出て、リビングへと向かった。慌ててミアもあとを追う。


 庭が広い二階建ての一軒家に彼は一人暮らしだ。特に金には困っていないが、街中から少し離れていて凶暴な動物や時々魔物も出没することがあるこのエリアの家は、長期で借りれば街中の宿屋よりも割安で住めるのだ。普通の人には嫌がられる物件だが、カイルは剣の鍛錬にもなるこの場所が気に入っている。


「クマは?」

「庭に吊るしてある」

「大きいの?」

「かなりな。見るか?」

「うん! 解体手伝おうか? 皮剝ぐの得意だよ!」

「え……マジかよ」


 ミアは悪魔の中では筋力の弱い方だが、それでも人間とは比べ物にならないほど身体能力が高い。それほど強い魔物じゃなければ、素手で皮を剥ぐくらいはお手の物だ。しかしカイルは何故か引いた顔をしている。どうやらまたズレが生じたらしいと、その顔でわかった。


(あ、そっか……人間の女の子って皮剥いだりしないんだ)

 

 うっかり剥ぐ前に気がついてよかったと思いながら、階段を降りた先の大きなリビングに入る。窓から見えた庭には確かに大きな熊が吊るされていた。日当たりが良いこの部屋はカイルのお気に入りだが、ミアには眩しくて、実は少し苦手だ。しかし今日はとても居心地がよく感じた。先程寝室にいた時よりも窓から入る光が減って、急に視界がクリアに感じる。しかし嬉しそうに微笑んだミアの隣で、カイルは顔を顰めていた。


「やべ。雨降りそ」


 ザア、と勢いよく大雨が、瞬く間に大きな熊を濡らしていく。カイルは恨めしそうに空を見ているが、ミアはその光景に心が躍った。思わず窓を開けて、手を外に出して雨粒の感触を確かめる。天国にも地獄にも雨は降らない。人間界でだけ味わうことのできるレアな光景だ。湿った匂いも相まって、最高に居心地がよく感じた。


「雨だ、雨! すっごいね。最高っ!」

「……お前、やっぱ変」


 はしゃぐミアに、カイルは疑いの視線を向けた。彼女はやはりおかしい。出会った時から変だとは思っていたが、近づけば近づくほどに常識のずれを感じる。雨が好きなのは別にいいが、この初めて見るようなテンションは何なんだ。


「雨見た事ねーの?」

「え? えぇと……あるよ?」

「その間は何なんだよ」

「なんかほら。珍しくて」

「そっか。あのさ、ずっと聞こうと思ってたんだけど……」


 カイルはミアの両肩を掴んで、その大きな瞳を真っ直ぐに見た。逃げることは許さないと、視線に込める。


「お前、本当は人間じゃないんじゃないか?」

「……そ……それ、は」


 目に見えてミアが動揺した。もしや黒い翼が出てしまったのではないかとチラリと背中を確認してしまった視線の動きをカイルが見て、また疑念を深める。


(翼がある何かなのか……?)

 

 人間に変化することのできそうな、翼の生えた何か。彼女はどこか別の世界から来たのかもしれないと、カイルは考えていた。


「え……えぇと。に、人間だよ?」

「嘘つけ。バレバレだっての」

「や。ほんと、に」

「目ぇ泳いでるぞ」


 明らかに動揺しているミアは、やはり怪しい。しかし、こんな風に責めたいわけではないのだ。彼女が何者であれ、どうしようもなく惹かれるこの気持ちは変わらないのだから。


「俺は、ミアの正体がどんなんでも、ミアのことが好きだ」


 カイルは正直な気持ちをぶつけた。人間じゃなくてもいい。何だって受け入れるつもりだ。たとえ見たことの無いほどの巨大なドラゴンだとしても、彼女について何も知らない今よりはマシだと思えた。


「…………何だと思う?」

「へ?」


 逆に質問され、カイルはミアの肩から手を離した。今度は反対に、ミアの瞳が不安に揺れている。打ち明けるかどうか迷っているのかもしれない。きっと翼のある何かだ。当てたら答えてくれそうな雰囲気に、カイルは急いで脳を回転させた。


「えぇと……ドラゴン、とか」

「ドラゴン……かぁ」


 ミアの微妙な反応から、第一候補は外れっぽいなと考える。急いで第二候補を考えた。


「……妖精」

「妖精って小っちゃいよ。こんくらい」

 

 親指と人差し指で十センチほどの隙間をつくるミアを見て、第三候補を考える。


不死鳥フェニックス

「熱くて触れないよ」

獣鳥グリフォン

「見た事ある?」

雷鳥サンダーバード

「……何で全部鳥なの?」

「だって翼が……あ」


 その時、カイルは唐突に、ミアと死後の世界の話をしたことを思い出した。酒場の扉の前で交わした会話を思い返す。あの時彼女は、何と言ったか。


――カイルは、天国に行けるかもね――

 

「天使だ!」


 半ば確信をもって、カイルはそれを口にした。ミアの表情が固くなる。それを見て、当たりかもしれないと思ってしまったのが最大の間違いだ。悪魔を天使と間違える。それがどれだけ彼女あくまの心を抉るのか、カイルは知らない。

 

「ミアって綺麗だし、きっと天から来たんだって思ったんだ。でも、もしお前の背中に白い翼が生えてても、俺は全然構わな……」


――シュッと、カイルの顔の横すれすれの距離を何かが通る。遅れてガシャンと食器が割れて、窓際に飾っていた花瓶がミアの手によって投げつけられたのだと気がついた。


 ドラゴンを倒した最強剣士でも反応出来ないほどの豪速球が女の細腕から放たれたという事実を上手く呑み込めず呆然と佇むカイル。その瞳に映ったミアは、泣いていた。


「……バカ!!」

 

「ミア!!!」


 バタンと木製の扉が壊れそうなほど乱暴に閉まる。外は激しく雨が降っているのに傘も持たずに出ていった恋人を追いかけようと、我に返ったカイルはすぐに走り出した。


「ミア、待てって!」


 雨でぬかるんだ道を走る速さは流石最強剣士というだけあってとても速い。しかしいくら走っても、すぐに追いつくだろうと思っていた恋人の後ろ姿は一向に見えてこなかった。


(あいつ、走るのもこんな速ぇのかよ……え?)


 分かれ道に差し掛かる。どちらに行くか決めかねて辺りを見回すと、灰色の空にうっすらと人影が見える。大粒の雨が視界を濡らしてあまりよくは見えないが、何か普通じゃないものが飛んでいるのは確かだ。


(もしかして……あれ)


 ミアかもしれない、とカイルは思った。追おうと思っても、普通人間は空を飛べない。しかし幸か不幸か、カイルには追いかける手段があった。先日討伐したばかりのドラゴンの翼だ。折りたたんで懐に入れてあったそれをばさりと広げて背中に装着すると、ふわりと身体が浮き上がる。この世に一つしかない特注品だ。


 空へ近づけば近づくほど、雨は激しくカイルの身体を打ち付ける。初めての慣れない飛行、視界が狭くて前がよく見えていないカイルには、彼女の小さな翼がどんなものかは確認できなかった。唯一見えたのは、彼女の長い脚といつも履いている黒いショートブーツ。女の脚を追いかけるというと聞こえが悪いが、カイルは必死だった。


 こうして二つの翼は、天国でも地獄でもなくその中間。煉獄へと真っ直ぐに向かっていくのだった。




             ◇




  ぽたぽたと雫が落ちる。雨が染み込んだ髪から、服から、瞳からは涙が。前が滲んで見えないのは、雨と涙のどちらのせいか。


「やっちゃった……」


 ミアは先ほどの行いを反省していた。つい天使や悪魔と話しているような気になって怒ってしまったが、よく考えてみれば無理もない事。正体を隠していた自分が悪いのだと、煉獄ここに来てから気がついたのだ。


「でも……だからって天使はないよ……」


 ミアは煉獄の白い廊下を水浸しにしながら小さく呟いた。ドラゴンは全然いい。妖精も、不死鳥も、獣鳥も雷鳥もまだいい。でも天使はダメだ。あの穢れのない真っ白な翼を一度でも想像された後では、この蝙蝠のような翼はとても見せられない。人間の魂を地獄に運んでいく仕事をしているなんて、彼が知ったらどう思うだろう。


(天使だったら良かったのかな)


 ミアは悪魔である自分が好きだ。魅惑の能力も自分のために作られた力であるかのようにぴったりと馴染んでいる。天使になりたいとは少しも思った事がないし、天国よりも地獄の方が落ち着く性分だ。しかし、人間にとってより魅力的なのが考えるまでもなくあの純白の翼であるということは、ミアにもよく分かっていたのだった。

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