BAR iriser 〜七色のカクテル物語〜
女々しさが原動力
虹の前夜 〜 B&B〜
駅から歩いて徒歩7分。閑静な住宅街の片隅に私の城はある。
真っ白な外壁に小窓が一つ。重たい扉を開ければ一転、ダークウッドを基調とした空間が広がり外界の音を遮断する。
扉の横、シルバーのプレートに刻まれた『BAR irisee』
"イリゼ"と発音しフランス語で"虹色の"という意味の店名はホテルで培った7年の経験と7坪7席、そして私の名前「虹橋 七美」から名付けた。
漫画で見た"完璧"な一杯を作り出すバーテンダーに憧れ20歳で業界入り。女だからと舐められぬように常に"完璧"を目指し腕を磨いた。
全国大会でも結果を残こせる様になった頃、お世話になったチーフバーテンダー川崎正の「七美ちゃんはもう一人でもやって行ける」の一言で独立を決意した。
外装、一枚板のカウンターやアンティークの椅子。
お酒のラインナップから音響機器。
こだわりを詰め込んだせいで少しばかり借金をする事になったが、直ぐに返せる自信が私にはあった。
洗練された技術と知識。毎日磨き上げ、一切の曇りが無いグラスとボトル。
日々の喧騒を忘れさせる穏やかなBGM。
お酒の香りを邪魔しない程度に焚いた白檀の香り。
大丈夫。直ぐに借金なんて返せる。私が求める物が詰まった完璧な店な「バタン!!!!!!!」 ら。
「おう!来てやったぞ!今日も暇そうだな!」
大きな音と共に開いたドアから低い声が店に響く。
「石田様…。何度も申し上げておりますが扉はゆっくりと開けて下さい。」
「飲み屋がイチイチ細かい事を言うな!嬢ちゃんとりあえずビールだ!」
彼は石田巌。毎日の様に泥で汚れた作業着で店に来ては大声で悪態をついて帰る。ハッキリ言ってこの店には相応しくないと感じる客だ。
「飲み屋ではございません。当店は"BAR"です。声のボリュームを落として下さい。それに嬢さんでは無くマスターとお呼び下さい」
「いつ来ても客はわし1人なのに声がデカくて誰に迷惑がかかるんだ?」
石田は豪快に笑うが私の胸はチクリと痛む。
事実この1年、客の入りはお世話にも良いとは言えない。
何の返答も出来ないままおしぼりを渡すと石田はゴシゴシと顔を拭き、チャーム(お通し)のナッツに手をつけた。
「………お待たせしました。"G-ジェリー・エステラ"でございます。こちらのビールは優しいエステル香にモルトの…「あぁあぁ…ウンチクは良いよ。どうせ違いなんてわかんねぇんだから」
そう遮ると脚が無い特殊な形をした美しいグラスを乱暴に傾け、あっという間に飲み干した。
ギリっと奥歯を鳴らす。
60日の熟成。樽詰め後即発送。
職人達のこだわりが詰まったエールタイプのビール。一気に飲み干す様な物では無い。
「グラスだって古代の酒器を…」
「あ?なんだって?」
思わず心の声が漏れてしまったが
「何もありません」と誤魔化した。
それから1時間相変わらずBGMをかき消す程の大きな声で
「娘が冷たい」とか「若い職人が頼りない」とか「嫁の味噌汁が薄い」とか。
よく尽きないなと感心する程、石田は日々の愚痴を喋り続けた。
いい加減にウンザリして来た頃、来客を拒んでる様にまで見える程重たい扉が「キィ…」と音を立てゆっくりと開いた。
「新規のお客様だ。ようやく腕を振るえる。」と久しぶりの石田以外の客に心が弾んだが、一瞬で打ち砕かれる事になる。
強烈な香水の匂い。杏や桃やバニラといった甘ったるい匂いが店内中に広がり、白檀の香りをかき消した。
「……いらっしゃいませ」
表情に出てはいないだろうか?あまりにもキツイ匂いに気分が悪くなる。ホテル時代なら入り口で断るレベルだが石田に言われた言葉が頭をチラッつきグッと堪える。
「うわぁー!凄い!知らないお酒ばっかりだぁ!」
石田に負けず劣らずの大きな声で言った女の呼気からは、これも香水に負けない程のアルコールの臭いがした。
「私こんなところ来たの初めてだから何注文したらいいかわかんないやぁ!あっあれ作れます?ロングなんちゃら…」
「ロングアイランド・アイスティーですか?ただお客様、相当酔われてますので少々強いかと」
「酔ってる?そりゃそうじゃんお酒呑んでんだからぁ!お姉さんおもしろーい!」
そう言うと「バンバン!!」と強くカウンターを叩いた。
何がそんなに面白いのだろうか?
いや、そんな事はどうでもいい。
店の顔と言っても過言では無いカウンターを。この店にあるどのボトルよりも。グラスよりも高価な一枚板のカウンターを叩かれた事に私の蓄積した怒りが限界を迎え、喉元で何とかせき止めていた言葉を外へと溢れ出させた。
「お帰り下さい。貴女にお出し出来る物は当店にはございません」
女の眉間に皺が寄る。
「は?意味分かんない。私客なんですけど?」
「泥酔した状態での来店。大声。過度な量の香水。そしてカウンターを叩くなど備品を雑に扱う行為。役満です。お帰り下さい。」
溢れ出した言葉が止まらない。言わなくていい言葉。言うべきで無い言葉と分かっていながら自分を制御出来ない。
「BARと言うのは"大人の社交場"です。貴女はご存知無いかも知れませんが"客だから"が通用しない世界もこの世にはあります。ここはそういう場所です。貴女がBARの扉を潜るのは10年早い。もう一度申し上げます。お帰り下さい。」
「はぁ?感じ悪っ。はいはい…わかりました。こんな所出ていきますぅ。ネットで最低な店だって口コミ書くから覚悟しろよ!ばーか!」
先程の猫撫で声は影を潜め、ドスの効いた声で一頻り罵声を吐いた後、女は扉が外れるのでは無いかと思う程の音を鳴らし住宅街へと消えた。
「あーあ…。嬢ちゃん、やっちまったなぁ」
石田がニヤリとしながらコチラを見た。
「………マスターとお呼び下さい」
「はいはい、マスター。さーて、今日はちょと飲み過ぎちまったしそろそろ行くかぁ。お愛想。」
「はい…」と短く返事をしペンを取るが手が震える。
BARという空間を理解しようとしない客。それを制御し切れない自分の未熟さ。
色々な感情が入り混じり小学生でも書ける数字4桁が書けない。
俯きながら一向に伝票を出せないでいる私に、石田は作業着からヨレヨレの一万円札を差し出し
「今日は給料日だからな。釣りはいらねぇよ。」
とだけ言い住宅街とは反対方向へと消えて行った。
最悪だ。石田の悪態をつかれ、愚痴を聞かされイライラしていたとはいえ新規のお客様を怒らせて帰らせるなんて。
確かにあの女のマナーは酷かった。だが石田で溜まったフラストレーションさえ無ければこうはならなかったのでは無いか?
独立して約3年。毎日の様に現れては大声で話ながら酒を呑む。
多くは無かったがそれなりについた常連客だっていた。中には20歳になったばかりの男の子も。キラキラと目を輝かせ私が作り出す色とりどりのカクテルを眺めては「すげぇ…」と呟いていたっけ。
でもそんな客達も石田の飲み方を嫌ってか、次第に姿を見せなくなった。
やはり、石田は貧乏神なのではないか?
私の"完璧"を目指す店には相応しく無いのではないか?
いっそう出禁にしようか?
いや…石田のせいだけでは無い。
そもそも石田の悪態なんていつもの事だ。
貧乏神なのは事実だが、客が離れたのは間違い無く私の力不足だ。
貧乏神と馬鹿にする石田が来なければ家賃を払う事すら危うい現状。
無くなった自尊心。
"完璧"なんて程遠い…。
泥に汚れた一万円札を握り締め涙を落とす。
そんな持ち主の状況など意にも介さない様にカウンターの隅に置いたスマートフォンが
1つ星を知らせる通知を小さく鳴らした。
次の日、街には大雨が降り続いていた。
いつもは、19時の開店から10分も経たないうちに来る石田もこの日は流石に21時になっても姿をみせない。
いや…あんな事があったのだからもう二度と来ないかも知れない。
今までも何度も声や態度などに注意をして来たが、あそこまでの怒りを見せた事は無かった。
直接的な注意では無かったが、石田にも当てはまる所は大いにある。
バツが悪くなって来なくなっても不思議では無い。
「はぁ…家賃どうしよ」
普段は漏れない弱音が思わず漏れた。
がタイミングが最悪だった。
「どうしよって…そりゃあ払って貰わないと」
「あっ…」 なんとも間抜けな声が出る。
大柄な身体に真っ赤なワンピースを纏い真っ白なペルシャ猫を抱えて仁王立ちした大家、
陣内 野薔薇が意地の悪い笑みを浮かべている。
「そんなに高い家賃でもないでしょう?昔お世話になった川崎さんの紹介だから安心してここを貸したのに…毎月振り込みが遅れるんですもの。心配で心配で。ねぇジャック?」
彼女の言う通りここ1年は家賃の支払いが滞る事が多くなった。
この物件を紹介してくれた川崎チーフ。
雨の中、こんな嫌味をいう為だけに連れ出されたジャックには申し訳ない気持ちになったが不思議と一番迷惑をかけている陣内に対しての罪悪感は湧かなかった。
「ねぇ貴女、迷惑かけてると思ってるの?」
「え…ええ勿論」
一瞬心を読まれたか?と焦ったが私のそんな様子を気に止める事も無く陣内は嫌味を続ける。
「"全国にも通用するバーテンダーだ"とか"彼女の作るカクテルは素晴らしい"だとか散々褒めてたのにこれじゃあねぇ。川崎さんの見る目が無かったって言われてもしょうがないわよねぇ?」
「チーフは関係ありません。全て私の問題です」
「だからそのチーフの顔に泥を塗ってるのは貴女だって言ってるのよ?わかってるかしら?」
また何も言えなかった。言い返す言葉は無い。全面的に悪いのは家賃を払えていない私だ。
「貴女ももう30歳でしょう?いつまでもバーテンダーなんてやってないでちゃんとした仕事するか結婚でもしたら?」
「バーテンダーはちゃんとした仕事です」
思わず言い返すが
「ならちゃんと家賃は払いましょうね」
の一言に私はただ謝る事しか出来なかった。
結局、陣内は私にネチネチと嫌味を言った後一杯も呑む事無く店を後にした。
ドッと疲れた…。時刻は22時。閉店まであと3時間。
外は大雨。これはノーゲストも覚悟しなければならない。
「もう…辞めよっかな」
駅から離れた住宅街でBARマナーを求める事が間違いだったのだろう。
少ない人通り。居酒屋やスナック感覚で騒ぐ客達。
私はお酒の味を。文化を。歴史を楽しんで貰いたいのに。
「酒の味の違いなんてわからない」「ウンチクなんて明日には忘れてるから」
「BARなんて女を口説く所じゃないの?」
そんな言葉達が少しずつ私の心をささくれ立たせた。
「いいかい七美ちゃん。お酒は。カクテルはね。僕達にとってはいつもと変わらない作業かもしれない。でもね、お客様にとっては何か特別な一杯になるかも知れないんだ。」
ふっと川崎チーフの言葉を思い出す。
「変わり映えの無い毎日に、世界から色が無くなる。そんな風に感じる事無い?そんな時に世界を"虹色に輝かせる"一杯を出す。お客様の世界に色を付ける事が出来るなら。こんな素晴らしい仕事は無いよね」
チーフの優しい笑顔が浮かぶ。
「チーフ…。私わかりません…。私の世界にはもう色が見えません…。」
「あの…まだ営業されてます?」
「うわぁっ⁉︎」
思わず大きな声が出る。いつから居たのだろうか…。入口には肩を濡らした若い男が困った顔し立っている。
「いやぁなんか悩んでるみたいだったんで声かけづらくって…雨宿りしていっても大丈夫ですか?」
独り言を聞かれただろうか?恥ずかしさが込み上げてくる。
「…どうぞ。気づくのが遅くなり申し訳ありません。お飲み物はどうされますか?」
「あっおしぼり温かい。濡れちゃって寒かったんで嬉しいなぁ。一杯目なんでジントニックを。ジンはマスターにお任せします」
そう男は言うとバックバーをゆっくりと眺め始めた。
栗色の髪に緩やかなパーマ。見た感じかなり若そうだが、オーダーを聞く限りBARには慣れてそうな雰囲気が有る。
この店に来る客にしては珍しい。
「かしこまりました。ドライな物か華やかな香りの物だとどちらがよろしいでしょうか?」「んー。じゃあ華やかな系を!」
「かしこまりました。」
このやり取りが嬉しい。なんでも良いと言う注文が多い中で、久しぶりのオーダーのキャッチボール。
「"NORDÉS GIN "スペインで作られる香り高く飲む香水の称されるジンです。お待たせ致しました」
セージ、月桂樹の葉といった11種のボタニカルを使用したジン。私のお気に入りの一本。
「あっ良い香り。ライムじゃ無くてレモン絞ったんですね。爽やかで美味しい」
男がクシャっと笑うと私も釣られて笑顔になる。
なんとも言えない空気を放つ子だ。
人の懐に入るのが上手いと言うか、人の欲しい言葉を的確に投げてくると言うか。
温かい空気放つ。私とは正反対だなと思った。
それから2時間以上なんでも無い話をした。
20歳の頃あるキッカケがあり、日本中を旅している事。
旅館に向かおうとしていた道中、強風で傘が壊れた事。
雨宿り出来る所を探している時にウチを見つけた事。
年は23歳で名前は「多田 太陽」と言う事。
名前を聞いて何となくピッタリの名前だと感じた。
「それにしてもマスターは凄いですよね。知識は豊富だし技術も凄い。この"ギムレット"もめちゃくちゃ美味しいです」
4杯目のカクテルに口を付けながらそう言う。
なかなかに酒は強いようだ。
「さっきも言ったんですけど、やりたい事探す為に旅してるんですけど全然見つかんなくて。やりたい事を見つけて仕事にしてる人って憧れるんですよね」
「そんな事ないですよ。やりたい事をやるだけでは上手くいかないという事を最近、実感させられてますから」
この男の放つ空気感のせいだろうか、普段は客には言わない弱音が漏れる。
「やりたい事だから。好きな事だから我慢出来るって事は沢山あるんです。ただ、やりたい事だからこそ。好きな事だからこそ苦しくなる事もあると言うか…。」
そこまで言ってハッっと我に返る。こんな事客に聞かせてどうする。と思ったが
多田はウンウンと頷くだけだった。
「全然話変わるんですけど俺、今一つやってみたい事あるんですよね」
「何ですか?」そう聞くと私の手元を指さした。
「カクテル。作ってみたいんですよね!道具買おうか悩んでるんですよ。」
目を輝かせながら多田は語る。
「昔、入ったBARのマスターがカッコよくて。胸張って、背筋は伸びて。その時俺、ちょっと疲れてたんですよ。色々と。」
そこまで言うと多田は軽く頭を掻きヘヘッと笑う。
「昔から俺、人間関係で困った事無くて。誰とでも仲良くなれるって言うか。それが悪い事だと微塵も思ってなくて。」
昔から人付き合いが苦手で無愛想だと言われた私からすれば羨ましい事この上無かったが続きを黙って待つ。
「でもある時、聞いちゃったんですよね。大学で友達だと思ってた奴から、太陽は八方美人だ。教授に気に入られて贔屓されてる。仕舞いには先輩の彼女を寝取ったとか有る事無い事言われてて。」
人への嫉妬で陰口を叩く。どこにだってそういった輩はいる。私だって沢山見てきた。そうなってしまいそうな時もあった。
「結構応えたんですよね。人との繋がりが馬鹿らしくなって。そのままの足で大学辞めちゃって。今思えばどんだけ心弱いんだよって思うけど、当時の俺には凄くショックで」
純粋だったのだろう。名前の通り温かく、周りの太陽の様な存在。
だからこそ、その温かさや眩しさに当てられた人の言葉が分厚い雲になって彼の心を曇らせたのだろう。
「大学辞めて。毎日フラフラ当てもなく遊び回ってた時、フッとBARの明かりが目に入って。吸い込まれる様に入ったんですよ。感動したなぁ…。研ぎ澄まされた空気感。バーテンダーさんの自信と気品の溢れた表情。流れる様に作られていくカクテル達。」
「すげぇ!って思いました。この人はきっと周りからどんな言葉を言われても。どんな評価をされてもブレないんだろうな。って思って。それから俺はこの人みたいにやりたい事を見つけよう。やりたい事を突き詰めよう。何を言われても揺るがない。そんな人になろうって。それ以来ずっとバーテンダーに憧れがあって…。あっすいません長々と喋っちゃって」
「いえ、素敵なエピソードですね。素晴らしいバーテンダーに巡り会えたようで」
お世辞無しの言葉。そのバーテンダーはきっと素晴らしい仕事をするのだろう。
人生や生き方をお酒の力で変えてしまえる。記憶にいつまでも残り続けるバーテンダー。
私の届かない所にいる顔も知らないその人に少しばかり嫉妬した。
「良かったら…作ってみますか?何か一杯。」
「良いんですか!?」
目をキラキラと輝かせながら前のめりになった多田が言う。
オモチャで遊んで貰えると分かり、尻尾を振った子犬の様な姿に実家のトイプードルを思い出す。
「いいですよ。今日はもうお客様も来そうに無いですし。私も一杯呑みたい気分だから」
今までだったらあり得なかっただろうな。
聖域とまで思っているカウンターの中に素人を入れるなんて。
それぐらい今の私は疲弊しているのだろう。
何でも良いから、カウンターの外側に座って呑みたい気分だった。
「外の明かり切ってきます。道具お好きに使って下さい」
「ありがとうございます!やったー!バーテンダー体験だ!」
外は相変わらずの雨。時刻も1時を周り住宅街はすっかり寝静まっていた。
よくよく考えれば深夜によくも知らない男と店に二人。身の危険を感じてもおかしくはない状況だったが、何故かあの男にその様な感情は湧かなかった。
「うん、やっぱりマロンに似てる」
実家のトイプードルと改めて彼を重ね、何故安心感があるのか勝手に納得し店の中に戻った。
「おかえりなさい」
カウンターの中から多田が言う。
やはり、自分以外の人間がカウンターの中に居るのは少し違和感があったが私はゆっくりと椅子に腰を掛けた。
「作る物は決まりましたか?」
「はい、あの日バーテンダーさんが作ってくれたカクテルを。マスターへ。」
そう言うとロックグラスに丸く整形した氷を入れ、ぎこちなくメジャーカップでお酒を計った。
材料は レミーマルタンv.s.o.pが30ml
ベネディクティンDOMが30ml
「B&B?」 「正解です!流石ですね!」
カクテルを作ってみたいと言うのだから、シェイクなどの技法や鮮やかな色のカクテルだと思っていたが随分と地味な物だな。
「そんなので良いの?混ぜるだけでカクテル作ったって感じじゃないけど…」
「良いんです。あの時、俺を元気付けてくれた思い出のカクテルなんで」
そう言うと決して上手いとは言えない手付きで、グルグルと二つの材料を掻き混ぜた。
「お待たせしました。B&Bです!名前は…」
「ブランデーとベネディクティンの頭文字ですよね?」
「はは…プロに説明は不要ですね」
「頂きます」
ゆっくりとカクテルを口に運ぶ。
ステアが荒いせいだろう。無駄に氷を溶かし水っぽさが少しある。温度も下がり過ぎているせいでブランデーの香りも弱い。
ただ…
「美味しい…」
その言葉が素直に溢れた。ブランデーの香りが抑えられる事で、ベネディクティンのハーブによる慈悲深い味わいが感じられ、水が入りアルコール度数が落ちた分、疲れた私の身体には丁度良かった。
私の目指す"完璧"には程遠い。が
拙くも沁みる。そんな味わいだった。
「お口に合いました?」
「ええ…とても美味しいです」
よっしゃ!と多田は小さくガッツポーズをする。
「何故このカクテルを私に?」
「さっきも言ったんですけど、俺初めてBARに入った時めちゃくちゃ疲れてたんですよね。全部嫌になっちゃうぐらい。そんな時に呑んだカクテルだからですかね。」
「ハッキリ言って出てきた時、なんて地味なカクテルなんだろうって思ったんですよ。でも飲んだら何と言うか…包まれる様な優しさを感じたと言うか…。あぁこんな物を作るこの人は神様みたいだなって思いました」
確かにベネディクティンは1510年フランスノルマンディ地方にあったベネディクト修道院で、多種のハーブを調合した長寿の秘酒が発明されたのが起源。私が感じた様に慈悲深い温かさがある。
「あの一杯から俺は活力と言うか…あぁ頑張ろって思えたんで。マスターにも元気になって欲しいなって言うか…。俺が来た時、凄く落ち込んでる様に見えたので。すいません余計なお世話ですよね」
なるほど…。やはり独り言は聞かれていたのか。
それまでに語ったエピソードも。突然カクテルを作りたいと言ったのも私を慰めるこの一杯を作る為。
「あの…怒ってます?」
「君はバカだね…」
「えぇ…?」
ショボンと分かりやすく落ち込む多田。
やはり犬っぽい。
「私みたいな見ず知らずのバーテンダーにここまでして…。ありがとう。とても心に沁みました」
「良かった…。やっぱ人に美味しいって言われるのって嬉しいですね!」
そうか。そうだった。
私は"完璧"なんて物を求めるあまり、凄く純粋で一番大切な事を忘れていたのかも知れない。
お客様に美味しいと喜んで貰う事。
お客様に来た時より少し幸せになって貰う事。
いつからかマナーが悪い。態度が悪い。お酒と向き合わないと勝手にイライラして
お客様と向き合おうとしなかった。
毎日来てくれる石田を貧乏神扱いまでして。
「まだまだ"完璧"なんてほど遠いなぁ…」
「えっなんか言いました?」
多田がキョトンとした顔で言う。
「世間には世話焼きなおバカさんも居るんだなぁと言いました」
「なるほど!バカ&バーテンダーでB&Bですね!」
「………普通、怒る所じゃないですか?」
「確かに!」
その言葉を聞いて私達は店に響き渡る大きな声で笑った。
次の日、昨晩の大雨が嘘の様に空は晴れ渡った。
自宅のアパートから店までの道のりを自転車で走り抜ける。
昨晩の出来事から少しばかり心が軽い。
「チーフ。私の世界にも少しだけ色が戻りました」
そう呟き七色の橋のかかる方へ。
ペダルを踏む足に力を込めた。
「七美さん、次はマティーニください」
「マスターと呼びなさい。マティーニね。わかった」
初めての来店から1週間。あれから毎日の様に多田は店に来る様になった。
いつの間にか下の名前で呼ぶ様になったが、石田さんが来なくなった穴を埋める様な形で席を埋めてくれるのは正直有難い。
欲を言うならもう一度、石田さんに来て貰いあの日のお礼が言いた「バタン!!!!!」い。
「おう、嬢ちゃん久しぶり!!今日も……ありゃ珍しく客がいるじゃねぇか!!」
低い声が店内に響く。
「石田さん何度もいいますが、扉はゆっくり開けて下さい。どうぞ。今日は何になさいますか?」
「おう、ちょっと現場が立て込んでてな。ようやく今日区切りがついたんだ!とりあえずなんか強い酒をくれ!」
「かしこまりました。そう言えば石田さん。前回、給料日だからと一万円を置いて行かれましたが給料日はまだ先では?」
「あっ?そんな事あったか?」
「ありました。あれではいくら何でも貰い過ぎですので。今日の一杯目は私からサービスさせて下さい」
「おう。そうかい。強けりゃなんでも良いよ。なんせ疲れたからな!」
小さく頷きカクテルメイクに入る。
ロックグラスに丸氷。
レミーマルタンv.s.o.pを30ml
ベネディクティンDOMを30ml
あの日は気づけなかった。
落ち込んだ私を慰めようとした不器用な優しさ。
泥だらけの一万円札に感謝と労いの気持ちを込めて。
「お仕事お疲れ様でした。お待たせしましたB&Bです」
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