それはざらつく砂のような
その直後入って来た九国さんは、私をチラリと見ると静かに私のバッグに向かって歩いた。
(バレた・・・)
心臓が早鐘のように音を立てる。
パニックに陥りながら、必死に何食わぬ顔を保つ。
冷や汗が止まらない。
だが、九国さんは私のバッグを持つと言った。
「お嬢様、起きてください。今からここを出ます」
「え・・・出るって?」
そう言いながらも、安堵で僅かに声が震えているのが分かる。
良かった。さっきの話は聞かれてない。
「この場所が知られた以上、速やかに移らねばなりません。まして情報を得られなかった以上、こちらが圧倒的に不利なので」
「う、うん。分かった」
私はすぐに立ち上がった。
やっとここから出られる。
そして何とかして雄大さんに・・・。
そんな私を九国さんはじっと見ていたが、その表情や目からは何の感情も見えなかった。
私はその目を見るのが嫌で視線を逸らせ、九国さんの後に着いていった。
あの目で見られると、自分が彼女にとって何らかの目的にのみ存在する、言わば道具なのだと感じさせられて辛い。
特に昔の夢を見た後だと余計。
早く、雄大さんに会いたい。
そして、九国さんを・・・こんな目で見る彼女を私の世界から追い出したい。
「あの・・・バッグくらい持てるわ」
「いえ。お持ちします。それとも何か不都合な事でも?」
「そんな事・・・ただ、私は子供じゃ無い。自分の物くらい自分で持つ」
先ほどの男に対する九国さんの圧倒的暴力を見た後なので激しく心臓が高鳴ったが、幸い九国さんはすぐにバッグを渡してくれた。
このバッグは九国さんが私の高校の合格祝いにプレゼントしてくれたものだった。
こんな事になってもまだ私はこのバッグを宝物のように・・・
つくづく滑稽だな、と内心苦笑いをする。
そして無言で歩き出す彼女の後を追いながら、私たちはエレベーターに乗り地下駐車場に向かった。
そしてそこに一台だけ停めてある、ランドクルーザーに乗り込んだ。
九国さん、こんなのに乗るんだ・・・
メイドとして居てくれてた頃、九国さんのプライベートは全く分からなかった。
当然乗っている車も。
これは彼女の普段乗ってる物?それとも仕事用?
そんな事をボンヤリ考えていると、車は滑るように駐車場を出てやがて国道を走り出した。
「あの・・・さっきの人は・・・」
「それは知らなくて良いことです」
沈黙に耐えかねておずおずと言った私に、九国さんはピシャリとさえぎるような口調で言った。
そんな言い方しなくたって・・・
「あの男からは何も有益な情報は得られなかった。それだけです」
その簡潔な補足は私の中に却って恐ろしい空想を湧き上がらせた。
これ以上詮索するのは止めよう。
だが、車内の空気の重さに耐えかねたのと、先ほどの長い夢の心地が忘れられなかった私は意を決して言った。
「あのね、私・・・夢を見たの。覚えてる?九国さんが私をとっておきの場所に連れて行ってくれた時のこと。あの時言ってくれた事も全部覚えてる。『世界は変わる』って言葉も。あなたがくれたマカロンの味も。おぶってくれた時の街路樹の景色も」
話しながら九国さんの横顔を見るが、何の色も見えない。
「ねえ、何かの間違いだよね?私・・・覚えてるよ『私がいます』って言ってくれたよね?私、世界が全部私を嫌いになってもあなただけは、私の・・・」
「85点」
「え?」
突然の言葉に狼狽えた私に九国さんは言った。
「あなたの心を掴むことも任務の一つ。数々の仕込みが功を奏したようで何よりです。あの場面に限っては85点と評価できる、と言ったところですか」
その言葉を聞きながら、私は自分の心のどこかがまるでざらつく砂のように崩れるのを感じた。
崩れて、流れていく。
「・・・そう。私も言って良かった。『任務の成果』の確認になったんでしょ?高得点、おめでとう」
そう言いながら、自分の言葉が上の方から聞こえるように感じた。
「はい。有り難うございます、お嬢様」
「お嬢様と言わなくてもいいと言ったはずだけど。大変だったでしょ?こんなめんどくさい女に仕込みをするのは。どこまでが仕込みだったか分からないけど」
「ご説明しましょうか?」
「いい。もう充分だわ」
「補足すると、あなたをめんどくさいと思ったことはありません」
「嬉しい。すっかり手懐けられてたもんね、私」
私は窓の外を見た。
そして密かに指を動かし、さりげなく竜頭を押す。
1,2,3,4,5
自分でも驚くほどに冷静だった。
これでいい。
それから車は30分ほど走り、国道から高速に乗った。
「お嬢様。お手洗いは大丈夫ですか?」
「そうね。どこかのサービスエリアで止まってくれない?」
「かしこまりました。ではもう5分ほどお時間頂ければと」
「有り難う。充分」
きっと雄大さんは私の現在地を確認してくれている。
だったら、次の場所に移るまで出来るだけアチコチに寄っておかないと。
どこかで合流できるかも知れない。
その時は・・・
私は雄大さんから聞いた、腕時計のもう一つの仕込みを思い返した。
それからほどなくして、九国さんの言ったとおりサービスエリアの灯りが見えてきたので、車は滑るように入っていった。
「有り難う。じゃあ行ってくる」
「はい。では私も」
思った通り九国さんも一緒に降りてきた。
どうにかして一人で行動できると良いけど、そんなに甘くない。
外の空気は蒸し暑さで身体にまとわりつくように重い。
夜の10時過ぎのため、サービスエリアの周辺の山は黒い絵の具を塗ったような黒だった。
その時。
右斜め前に停まっている車のヘッドライトが点滅した。
それはやや不規則ながら・・・3回。
私は全身から汗が噴き出るのを感じた。
いよいよ・・・
さっきの男性二人組の末路が浮かび、鳥肌が立つ。
もし、失敗したら・・・
もう次は無いだろう。
手が震えて上手く動かない。
どうしよう。これじゃ・・・
その時。脳裏に先ほどの車内での九国さんの言葉が響いた。
(85点・・・)
まるでそれがスイッチになったかのように、冷や汗がひいた。
そして、腕時計を触る。
世界は変わる・・・そうね、私もそう思う。
私は九国さんに腕時計を向けると竜頭を強く引っ張った。
すると、小さな腕時計から信じられないくらいの勢いで霧状の液体が噴き出した。
そう、催涙スプレー。
さすがの九国さんも予想していなかったのだろう。
顔を覆うと、そのままその場にうずくまった。
私はすぐにヘッドライトの方に走り出した。
すると、車のウインドウから雄大さんが顔を出した。
「蒼ちゃん!乗って!」
私は助手席のドアを開けると飛び込むように乗り込んだ。
そしてそれを合図にするかのように、車は走り出した。
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