賢治とマグノリアの木

 宮沢賢治に「マグノリアの木(1923) 」という短編がある。

 彼が仏教思想のことを書いたようなのだが、私はよく理解できてはいない。でも、小説から宗教的部分を別解釈しても、取り除いても(それはだめでしょ、という人もいると思うが)、小説は幻想的で、おもしろい。よくわからなくても、なぜか惹かれる。

 今日はその短編について、書いてみようと思う。


 こういう話である。

 諒安(りょうあん)という男が霧深い山谷を歩いている。名前からして僧侶のようだ。彼は半分底が抜けた靴で、険しい山道を谷底へ峰へ、峰から谷底へと懸命に歩いている。もしもこの霧の中を泳いでいけたらいいとは思うけれど、自分はやっぱり苦労して歩かねばならないことはわかっている。

 諒安は痛い思いをしたり、孤独を感じながら歩き続けるが、あるところに行くと、疲れすぎて、大地に身を投げ出して寝てしまう。

 すると、「本当は、これがお前の世界なのだよ」

 という声が聞こえる。

「そうです、いかにも私の景色です。だから、仕方がないのです」

 この歩いてきた暗闇の醜い景色が、あなたの姿なのだよということらしい。


 彼の苦行はまだまだ続き、恐ろしい灌木の岩が目にはいった。彼はくろもじの枝にとりついて上った。すると、とうとう平らな枯草の上に立つことができた。


 しばらくすると、霧がとけて、山谷のぎざぎざした斜面に、いちめんに真っ白なマグノリアの木の花が咲いているのに気がついた。


 すると、ほおの木の下にふたりの子供がいて、歌う。

「サンタ、マグノリア、枝にいっぱい光っているのはなんですか」

「天に飛び立つ銀の鳩」

「セント、マグノリア、枝にいっぱい光っているのはなんですか」

「天からおりた天の鳩」


「マグノリアの木のあるところは、苦しみのない平和な世界だと聞いていますが、ここはどこですか」

 と諒安が訊く。

 子供達はわからないと答えるが、

「そうです、マグノリアの木は寂静印です」

 と言う声がうしろから聞こえる。


 その声の人は「私はあなたで、あなたは私だ」という。

 この彼はもうひとりの諒安のような存在で、時には、諒安の弟子のようにも見える。

「マグネリアの花びらは天の山羊の乳よりもしめやかで、あの香りは、尊い教えを人に送ります」

 と諒安が言い、

「すばらしいことです」とその人は答える。


「では、人間の世界では、誰が善をするのですか」

 と諒安が尋ねる。

「人格者がします」

「そうです。人間が行う善で、平和になった場所もあります。しかし、険しい場所にも、革命や、疫病にもあります。それは人間が善だと思ってやっている善で、私達がめざしている善ではありません。ここでは、マグネリアの木のような完全に平和な善だけが、善です」

 そうですね。諒安とその人は、また恭しく礼をした。


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 一応書いたのだが、私の勝手な解釈で、自信はない。


 先日、エッセイで、今年の旅の途中、JRの雑誌で賢治の記事を読んだというを書いたが、東北でない場所でも、賢治の記事は3回も目にした。賢治の石碑は全国に150以上あるそうだし、こんなに愛されている作家っているのかと思う。

 東の賢治、西のサン=テグチュペリ?

 ふたりとも、(代表作は)童話のような語り口なのに、訴えていることはやさしくはなく、私には理解できない部分もある。でも、読んだ後には、やさしい絵が浮かんできて、清涼感がを覚え、心がやわらかになる気がする。

 それは、賢治も、サン=テグチュペリも、心がピュアな人だったからなのだろうか。


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