自由人のお散歩

九月ソナタ

ドラクロアは好きですか

 散歩をしながら、私もエッセイを書いてみようかなと思った。その朝、ある方のエッセイを読んだからだと思う。

 

 三年くらい前までは、私もあるブログにエッセイを書いていて、書かない日でも、千人くらいの方が来てくださっていた。☆をつけるとかいうシステムはなかったので、ただ読んでくれていたらしいということだけれど。(なんか、すごく自慢っぽいですね。赤面)

 今年の初めから、ウェブに小説を載せ始めて思うのだけれど、あの読者数はキセキ。あれは何だったのか。


 ということでもないのだけれど、上述の方がフランスの「文化遺産の日」について触れられているのを読んだ時、ふと思い浮かんだことがあり、そのあたりからまたエッセイを書いてみようかなという気になった。


 たとえば歌手の場合、どんなに声が美しく、音程が広くしっかりしていても、誰もがその人を好きかというと、そういうことではない。

 音程をはずしても、なかなか味があり、かえって好きだということもあるだろう。

好きならどこまでも好きで、嫌いならその逆かな。


 さて、私がそれほど美術のことをよく知っているかというと、ノーなのだけれど、絵画に興味はある。好きな画家はたくさんいる。でも、数は少ないが、嫌いな画家もいる。

 その嫌いのトップが、ウジェーヌ・ドラクロア(1798-1863) 。

 あの「民衆を導く自由の女神」を描いた人。あの絵は、嫌いな部分はそれほど出てはいないけれど、あのマリアンヌの顔とか。バックとかはないよね、とかは思う。

 ルーブル美術館に彼の絵がたくさんある。「ショパン」の肖像画もある。もともとはジョルジョ・サンドの姿も隣りに描かれていたそうだ。(それは近況ノートに、アップ)

 これについては褒めようと思えば褒められるけれど、正直な感想はやっぱり下手。きらい。


 嫌いなら嫌いでいいんじゃない。わざわざ言う必要があるのかと思われるかもしれない。でも、ここは私のスペースなので、ねっ、勝手に書かせてください。


 かなり前の話だけれど、その「文化遺産の日」についてのテレビ番組があった。アメリカ人の年配の女性、フジコ・ヘミングに似た印象の女性がパリの路上で絵を描いていた。そこは絵描きの多いモンマルトルではなくて、フジコ風はカラフルな服を着て、ひとりだった。カンバスの絵は素人っぽく、これで生活できているのだろうかと思った。

 インタビューに答えて、彼女はドラクロアが大好きで、「文化遺産の日」にだけ一般に公開される彼が描いた議会図書館の天井画が見たいのだという。その日が近いので、恋しい人に会えるかのように喜んでいた。

 そんなにドラクロアが好きな人がいるんだと思った。


 そう、私には不思議でならないのだが、ドラクロアはブリュクサンブール宮殿やパリ市庁舎、教会などの大きな仕事を依頼されている。彼の時代に、これほど公的な注文を受けた画家は思い浮かばない。

  

 彼は24歳の時に、サロンに「ダンテの小舟」、続いて「キオス島の虐殺」を描いたが、やはりあの描き方だから、ブーイングが起こったのだった。特に、新古典主義が凌駕している時代なのだから、それは無理はない。私が当時そこにいたら、ブーブー言っただろう。

 しかし、それらの彼の絵は、すぐに国がお買い上げして、隠されてしまった。

 なぜなのだ、と私は思う。


 ドラクロアがその当時、どのくらい指示されていたのか、されていなかったのか、実際にはよくわからない。しかし、ゴリ押しされている感じはする。

 しばらく干された時期もあったようだが、その後で、また大きな仕事がはいり、58歳からはサンジェルマン・デ・プレ地区に住んだ。近くのサン・シュルビス教会の仕事をするためだが、今、その建物はドラクロア美術館になっている。たしか、その美術館は今は国立で、ルーブル美術館が管理しているはず。

 その家が思ったより質素だという人もいるが、私にしたらそこはため息がでるくらい理想的、こんな家に住んでみたい。

 当時、画家といえば、貧乏に決まっていた。

 彼が死んだ後に生まれたあのモジリアーニだって、安アパートに住み、一枚千円とか、万円で売っていたのに、ドラクロアには大きな仕事が舞い込み、何千万円という制作料が支払われたという。なぜなのだ。


 ドラクロアは新古典主義と印象派の間の時代に生きた。

 デビッド、グロ、アングルなどの古典主義画家は、哲学歴史を学び、長い間描く修行をして、ようやくサロンに出すことができた。その作品には、筆の跡などあってはならなかった。

 一方、モネ、ルノアール、ピサロなどの印象派は、歴史ものは描かず、景色を見たまま絵具を重ねて描いた。絵具の進歩もあったが、そのほうが、光が表現できることを発見した。ピサロなどは、ルーヴルを燃やしてしまえ、などと過激的なことを言っていたそうだ。

 ドラクロアは時期的に、その中間にいた。


 ドラクロアは先生につき絵を勉強し、歴史も宗教も学んだが、その筆遣いは荒く、雑で、輪郭は正確でない。そこがアンチが嫌うところだ。

 しかし、こういう描き方を見て、マネ、モネ、ルノワール、ピカソ、そしてゴッホが影響を受けた。こういう描き方でよいのだ、と力づけられたのだと思う。ドラクロアと印象派が前にいなかったら、晩年のゴッホがたどり着いたあの画風は生まれなかっただろう。

 だから、そういう意味では、ドラクロアは偉大な画家だと言える。

 しかし、好きかどうかは別の話。


 そのテレビで見たフジコ風の絵描きの話に戻るが、「文化遺産の日」にドラクロアの天井画が見られると本当にうれしそうだった。その当日、撮影クルーは、まるで恋人に会いに行くかのようにうきうきしている彼女の姿を撮った。

 どんな顔で帰ってくるのかと期待していたら、あっという間に、疲れたおばさんの顔になってが戻ってきた。あんなに元気に出かけていったのに、告白を拒否されてしまった人のようにその顔は不機嫌そうで、口も聞かない。むすっとして、去ってしまった。

 ナレーターが彼女が想像していたドラクロアではなかったそうだと説明して、そこで、その番組をなんとかまとめた。


 あの女性画家、何を期待していて出かけて、あんなにがっかりしたのだろうか。

 たぶんだけれど、花なんかが描いてあると思ったのだろうか。天井画だから細部の筆使いは見えないし、わりとしっかり描いてある壁画だったからかしらね。

 

 このテレビ番組を見た頃、私はグーグル検索というものを知ったので、ドラクロアのことを調べてみた。彼の父親は外交官だったが、十代の頃に亡くなっている。しかし、実の父親はタレーラン・ペリゴール(1754-1838)という政治家だと言われているという。

 えーっ、あの頃は波の少ない暮らしをしていたから、久しぶりに驚いた。


 ペリゴールはルイ十六世に仕えたが、革命が起きるとすぐに方向転換。ナポレオンについたが、彼が失脚すると今度は王政復古側に回り、ルイナポレオン三世にも近かったという大物政治家。

 おお、もし彼が実の父なら、ドラクロアが優遇されたのがわかるというものと思ったが、DNAテストのない時代なので、真相はわからない。ふたりは顔がよく似ていると書いてあったが、私が写真を見たかぎりでは、似てはいない。

 でも、そう言い出したい気持ちはわかるなあとアンチは思う。



          ーーーーーーーーーー


 そんなわけで、ニュー・エッセイ一話としては、文化遺産の日の「フジコ風画家とドラクロア」の話。ちょっと意地悪系の内容で、気分は爽快ではない。


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