第1話 メアリーの残像 1ー⑹


「フォンダイスさん、お話の前に一つ、伺ってもよろしいですか」


 部屋のあちこちを無遠慮に眺めていた天馬が、おもむろに口を開いた。


「なんですかな」


「この船の模型は、フォンダイスさんが持ちこまれた物ですか」


 天馬が目で示したのは、薬箱ほどの大きさの船の模型だった。白木を組んでこしらえたと思しき素朴な模型で、見たところ外国の貨物船のように思えた。


「いえ、それは知らない人物から寄贈されたのです。私があちこち航海した話を聞いた誰かだと思うのですが、ある日、店先に私の宛名が添えられ、置かれていたというのです」


「奇妙な話ですね。本当に送り主に心当たりはないのですか」


 天馬が問うと、フォンダイス氏は「思い当たりませんな」と眉を寄せ、頭を振った。


「ここ匣館に来て以来、多くの人に私が体験した海での出来事を聞かせましたが、このような物を送ってくる人物には心当りがありません。だからといって捨ててしまうのも気が引けるので、こうしてそのままにしてあるのですが……」


 フォンダイス氏は青い瞳を忙しなく動かしながら、英語交じりの日本語で言った。


「なるほど、それは落ちつかないでしょうね。……お嫌でなければ、今日は私たちにもその手に汗握る冒険譚の一部を披露していただけませんか」


 天馬が揉み手せんばかりの低姿勢で請うと、フォンダイス氏は「いいですよ。どうぞおかけになってください」とビロード張りのソファーを目で示した。


「私が貿易商として、最初に船に乗ったのは二十年ほど前のことです。アメリカからイタリアへアルコールを運ぶ貨物船でした」


 フォンダイス氏は椅子の背もたれに体を預けると、身体の前で両手を組んだ。


「船には船長とその家族、そして八名ほどの乗組員がいました。航海は途中までは順調そのものでしたが不運にも突然、海に大渦巻きが発生して船が引き寄せられたのです」


「ほう、大渦巻きですか。それはさぞ、恐ろしかったでしょうね」


 汗をぬぐいながら渦の大きさを語るフォンダイス氏に、天馬が身を乗り出して頷いた。


「最初にたまたまデッキにいた船長の家族が放りだされ、助けようとした船長も渦に飲みこまれました。その後、他の乗組員たちも同様に放りだされ、最後に私一人だけが残りました。私は助かりたい一心で恐怖に耐え、海を覗きこみました。すると船から落ちた樽が海面近くで回り続けているのが目に入ったのです」


 フォンダイス氏は背もたれから身を乗り出し、膝を掴んだ手をぶるぶる震わせ始めた。


「私は意を決すると、積み荷の樽に自分の身体をくくりつけました。やがて私も海に放りだされ、樽と一緒に渦に巻きこまれました。……それからどのくらいたったのか、気づくと海は凪ぎ、渦の消えた海上を私は樽と一緒に漂っていたのです。私は渇きと恐怖に耐え、やがてアフリカの海岸に漂着しました。どうにか帰国したものの恐怖の記憶は私を責めたて、私は忙しさで気を紛らすべくイギリス、インド、中国と放浪の旅を始めたのです」


「それでこの匣館にたどり着いたというわけですか。いやあ、たしかに大冒険ですね」


 天馬は子供のように目を丸くすると、フォンダイス氏の冒険譚を手放しで称賛した。


「それからは様々な国で手あたり次第に商売を手掛けました。自分でも何を売って何を買ったか覚えていないくらいです。そんな暮らしが長く続いたせいか、この匣館にたどり着いた時、ふと身体を落ち着けたくなったのです。さすがにもう、大渦巻きも追っては来ないだろうと。なにしろ、大西洋からは地球の真裏と言ってもいいくらい遠い海ですからね」


 フォンダイス氏は一気に語り終えると、椅子から立ちあがって机の前に移動した。氏は引き出しからパイプを取りだすと震える手で葉を詰め、火をつけた。

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