第9話 穏やかな日々
「わぁ、この時期の海もいいな」
「でしょう?人が少なくて結構いいのですよ」
梅雨が明けたばかりでまだ海開きを開かれていないこともあり、人がまばらであった。予想よりも穏やかな海はキラキラと太陽の光を反射して綺麗だなと雨霧は感じる。潮風の冷たい風が頬を掠めていくが、嫌な気分にはならなかった。
「でも、まだ海の家は開いていませんね」
「そりゃ、まだ6月だよ」
「ちょっと残念です。海の家好きなので」
「じゃあ、夏にまた来よう」
「えっ、一緒に行ってくださるのですか?」
「うん、その時には別々のところで住んでるかもだけど。こうして一緒に出かけたいなって」
「とても嬉しいです。ありがとうございます」
「いいんだよ。そんなかしこまらなくていい。一緒にいたいからだし」
雨霧は恥ずかしがらずに自分の気持ちを晴明に伝える。まだ部屋を見つけられていない。いつかは別々に暮らしていくのだろうが、そこで終わりにしたくはない。まだ話していたいし、何が好きかも分からない。あの日拾ってくれた理由も聞いてみたい。雨霧の中で、出雲よりも晴明の存在が大きくなっていた。だからこそ知りたい気持ちが日に日に強まっていく。秘めた感情に未だ名はなくとも芽生えてはいた。
「ねぇ、せっかくだし海に入ろうよ」
「えっ、でも……」
「足だけだから大丈夫だよ。おれは入るよ」
雨霧は靴と靴下を脱いで海の中へと足を踏み入れる。まだ時期が時期なので冷たくて気持ちがいい。キラキラと太陽に照らされる水面と潮風の香り、楽しそうに鼻歌を歌いながら、足で水を蹴っている雨霧。もうすぐ夏が訪れようとする光景に、晴明は眩しそうに目を細めた。
「私もせっかくだし入りましょうかね」
「本当?やった。入ろぜ」
晴明も靴と靴下を脱ぎ捨てて、海へと入っていく。季節外れの海は想像していたよりも温かなもので晴明は内心驚いた。その心情に気づいた雨霧は子供のように楽しそうに笑う。
「結構気持ちいいだろ?おれも初めて入ったけどいいよな」
「そうですね。今の時期なら人も少ないし、遊び放題ですよ」
二人は暫くの間海の中を散歩した。波をかきわけるように歩けば子供時代を思い出す。もう子供というには大きすぎる身体だが、虹の端を追いかける気持ちで端まで歩いていく。お互い今だけは二人だけの世界だと信じていた。
久しぶりの海に夢中になっていたものだから、気づけばいつの間にかカシスオレンジの空になっていた。
「そろそろ帰らなくてはですね」
「そうだな……」
帰らなくてはいけないということは雨霧も分かっていた。永遠なんて言葉は存在していないことは十分に分かっていたのに、夕方に帰る寂しさに似た感情を抱いていた。そんな雨霧に気づいた晴明は苦笑いを浮かべる。
「そんな顔しなくても、また一緒に行きましょう」
「本当?」
「えぇ、例え一緒に暮らしていなくても私は誘いますよ。その、私は雨霧さんを友達と思ってますから」
その言葉に雨霧は嬉しい反面心の奥が鈍い痛みが襲う。晴明は自分が旅立っても今日のように一緒に遊んでくれるだろう。親身になって話を聞いてくれるだろう。だが、心の奥で足りないと叫び醜い自分がいる。そんな自分が嫌であった。
「友達嬉しいな。ありがとう」
叫ぶ自分を無視して雨霧は笑う。そして、笑顔を見た晴明も笑った。カシスオレンジの空の下で笑う晴明はとても綺麗で触れると壊れる黒水晶のようだと思ったとき、雨霧は気づいた。あぁ、自分は晴明に恋をしているということに。
そして、その感情はバレてはいけない。実らせてはいけない。だって、優しい彼は避けることはしない。ただ困ったように笑うだろうと予想がつくからだ。自分の身勝手な思いで振り回したいわけじゃない。咲いた恋の花が萎れてしまうことを願うこと。それが友人雨霧 翔平ができる恩返しであった。
二人は陸へと上がり、帰る準備をする。車の中で他愛のない会話を繰り返すが雨霧は悟られないか不安で仕方がなかった。雨霧の不安など知らない晴明は途中コンビニに寄る。一人になった雨霧は大きなため息を吐く。新鮮な酸素に先ほどから火照った身体を冷ましていく。意識しないようにすればするほど晴明の瞬き一つすら気になってしまう。時々覗かせる優しさが自分だけのものじゃないかと勘違いしてしまう。そんなことないのに、恋とは一種の感情により引き起こされたバグのようだと感じられた。
「どうしよう」
答えなど一つしかないのに、穏やかな日々に侵された脳は現実を拒否してくる。言いたいのに言えない矛盾を抱えたまま、友達として接することができるのか。終わりが見えないトンネルに心が折れそうになっていた時、突如首筋に冷たいものが当たる。
「うわっ、つめた!」
「ふふっ、すみません。疲れている様子でしたので、コーヒーを買ってきましたよ」
驚いた雨霧に悪戯が成功したような楽しそうな笑みを浮かべて晴明は缶コーヒーを渡す。こんなことされるとまた勘違いしてしまうだろと悪態を心の中でつきながらも受け取る。
「ありがとう」
「いいえ、私がしたいからしただけですから」
カシュッと音を立たて開けられたコーヒーは安っぽい香りがする。毎朝晴明が淹れてくれるコーヒーには見劣りをするが、まるで自分の抱いた恋の味みたいで嫌いにはなれなかった。休憩が終わると晩御飯として、ハンバーガーショップでドライブスルーをし、マンションへとたどり着いた。
その後はいつも通りの日常へと戻っていた。ただ変わっているのは雨霧が抱いた恋心のみ。
自分の勘違いだと言い聞かせても、時より見せる笑顔や意地悪な顔にますます惹かれていく。穏やかな日々の中で、今の関係を保つため、ひた向きに隠す雨霧の前に嵐は静かに近づいているのであった。
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