04 食事の準備を始めましょう。
「……平和だなぁ」
長椅子に座り、図書室から借りてきた本をめくりながらお茶を飲む。これが近頃のシルフィールの日課となりつつある。
ヴェリテ城に来てからおよそ一週間が経過していた。
窓がない、というこの城の難儀な特徴のせいで正確な時間経過はわからないのだが、眠った回数は数えている。感覚的には七日、といったところだ。その間、定められた特別な行事もなければ仕事もなかった。使用人として慌ただしく動いていたイヴェルでの日々が嘘のように、静かな暮らしだった。
「これさえなければ、結婚したということさえ忘れそう」
ちら、と薬指に視線を向ける。薔薇の花が彫刻された指輪は、繊細で細身のデザインなのに、ずっしりと重く感じた。
正式な式はまだだが、と断ってローズレイ公爵から渡された指輪だった。結婚指輪はローズレイが代々受け継いで来た骨董品だそうで、シルフィールが今回もらったこれは仮の指輪らしい。エンゲージリングといったところだろうか。
ため息を吐き、指輪をそっと撫でる。輪の細い部分をよく見ると、薔薇の花が彫られていていた。
「さてと、そろそろ行きますか……」
大きく伸びをしてからシルフィールは椅子から立ち上がる。結婚相手である公子、ルイとはまだ話をしたことがなかった。
理由は単純、ルイが常に眠っているからである。むしろ起きているところを一度も目撃していない。
昼夜逆転しているとかで、彼が起きている時間に尋ねられないのかもしれない、と思い、ルイの部屋で一日過ごしてみたのだが、なんと寝返りすら打たなかった。
さすがに気になったので、病気なのかとそれとなくローズレイ公爵に尋ねたところ「ただねぼすけなだけだよ」と胡散臭いウィンクが返って来た。
「おはようございます。ルイ様。起きてくださいー」
揺さぶっても、頬をつねっても効果はない。何をしても反応がないことは確認済だ。
個人的にはこのままルイと交流がなかろうが一向に構わないのだが(むしろ面倒だ)様子を見に行ってほしい、と義父……の実感もさほどない、ローズレイ公爵から頼まれてはいるので仕方がない。
幸いにも部屋が隣なので移動は楽だ。定位置に置いた椅子に座って、時々、声をかけながら本を読む。どうせ難しい哲学書や歴史書ばかりだと思っていた図書室だが、思いのほか、イヴェル家では低俗だと鼻で笑われていた小説もあれば、挿絵つきの図鑑のようなものもあった。
そしてシルフィールが眠くなってきたら部屋に戻って、寝る。そんな毎日が、ひたすら繰り返されている。
実際、端正なルイの寝顔を眺める日々はさして悪いものではなかった。
シルフィールは彼ほど綺麗な顔をした男なんて、いままで見たことがない。
だが、顔と性格は一致しないものだと経験上わかっていた。
使用人仲間にも、それなりにイイ男だと言われていた侍従がいたけれど、メイド数人に同時に手を出したうえ、その一人を身ごもらせたとかで袋叩きに遭い、侯爵の部屋で情事を楽しんでいたことが発覚して屋敷も追い出された。
身近な例がそんな末路を辿ったので、顔のいい男なんてろくなものではない、とシルフィールには刷り込まれている。
早く目を開けてこちらに笑いかけてほしい、とか。甘い声で愛の言葉を囁いてほしい、とか夢見がちなことは考えていない。ずっと眠ったままでいてくれても構わない。
ただ、こうして悪くはない平穏な日々を送っていると、シルフィールのような小心者は罪悪感をおぼえずにはいられなかった。結婚ってこんなのでいいんだっけ、と申し訳ないような気持ちにもなりつつある。
「どうして旦那様も奥様も、お嬢様も、この結婚を嫌がったんだろう……? そんなに悪くない、どころか、私はひたすら気楽で最高なんだけど」
シルフィールには、メイドを養女にしてまで、この境遇を避けたい理由が思い当たらない。
帰省も許されないし、派手好きなシルヴィアにはひどく退屈な場所ではあるかもしれないが、シルフィールにとっては自由気ままな贅沢な生活を送れている。
好きな時に寝て、好きな時に起きて、好きなことをする。毎日が休日のようで、まるで夢みたいだった。
そもそもシルフィールは一人で過ごすことが苦ではない。
空想をすることは好きだし、城内を散歩することは適度な運動にもなる。舟着き場から城までの気が遠くなるほど階段も、靴を履き替えて何度か往復するうちに、それほど息が上がらなくなった。
傍からどう見えているのかはわからないが、シルフィール自身はこの生活を満喫していた。
「……んー、そろそろお腹が空いてきちゃった。ルイ公子様、私、食事してきますね」
いちおう断りを入れて部屋を出たが、もちろん返事はなかった。
階下の厨房に向かい、貯蔵庫に収納されている食材を確認し、続いて棚の中身を背伸びして覗き見た。
お願いしたとおり、調味料と香辛料の種類が増えている。材料は限られているし、料理人でもないから凝ったものは作れない。結局同じようなものを作ってしまいがちだった。瓶を片手に思案する――味や風味を変えれば、同じ調理法でも雰囲気が変わっていいかもしれない。
こんど図書室で、料理のレシピ本がないか探してみようか。またひとつやることが出来た、とシルフィールは笑みを浮かべた。
「おや、シルフィール様。お食事のご準備ですか?」
差し支えなければ見学させていただいてもよろしいですか、と顔を覗かせたのはカトルだ。
シルフィールの知る限り、彼はこの城で唯一の使用人である――執事であり、従僕であり、つい先日までは料理長でもあった。
「もちろん大丈夫です! 食材と調味料を調達してくださってありがとうございました。カトルさん、お忙しいのに」
「いえいえ。【蕾姫】様が快適に過ごしてくださることが、私どもたっての願いでございますから」
「願い、ですか……」
「何しろ、この城にゲストをお迎えできるのは百年に一度ですし……ああ、失礼いたしました、シルフィール様はもう、ローズレイの一員でしたね」
白い僧衣を思わせる衣装に身を包んだ男は、切れ長の眼をさらに細め、微笑んだ。
とある事実が発覚したのは、シルフィールがヴェリテ城に来た翌朝のことだった。
こんこん、とドアを叩く音で目が醒めた。重たい瞼を持ち上げ、天井を眺める。ここどこだったっけ、とぼんやりとしつつ、シルフィールは酷使したふくらはぎに残る鈍痛に顔をしかめた。
そうだった、私は結婚するためにローズレイ領に来たんだった。
部屋の明るさは眠った時とほとんど変わっていない。
青光石をあしらったシャンデリアが、きらきらと輝いている。窓がないせいでいま何時なのか想像もつかなかった。
慣れない土地に来たばかりで疲弊しきった心身は、まだ動きたくないと駄々を捏ねていた。
そのとき催促するように再びノックの音が聞こえた。
寝台から飛び降り、爪先立ちでドアまで走る。
『す、すみません、お待たせしました……』
息を切らしながらドアを開けると、そこには昨日、舟でシルフィールを迎えに来た糸目の男が立っていた。昨夜と同じ白い服を着ているが、何か決まりがあるのかもしれない。
『お休みのところ、申し訳ありません。【蕾姫】様のところにお食事をお持ちするように、と主に言われましたので』
ワゴンを押して来たらしく、両手がふさがっている。ドアを開けてシルフィールは彼を中へと招き入れた。
『……そういえば、何も食べてなかったかも』
寝る前、部屋に用意されていた盥の水で身体は拭いていたけれど、食事のことは失念していた。イヴェル領を送り出される日は、ドレスの準備やら何やらで、呑気に空腹を訴えられる雰囲気ではなかった。
そもそも最後に食べたのがいつだったのか思い出せない。
意識した途端、現金なものでお腹がくうくうと切なげに鳴き始めた。
『それはよかった。私共はついつい忘れがちですが【蕾姫】様にはお食事が必要でしょう? 恥ずかしながら私、斯様な行為を試みたのは随分前でしたので、たいしたものは用意できなかったのですが』
男は笑顔で給仕を始めた。
わくわくしながらシルフィールがテーブルにつくと、目の前に静かに皿が置かれた。
『スープです』
『わあ……』
いかにも高級そうな青と金の縁取りがある深皿。日常的に使う食器は消耗品だから、とイヴェル家では領地内の陶器工房から安く仕入れたものを使うように指示されていた。こういうものを使うのは客人を迎える食事会のときだけだ。
そんな素敵なお皿に入れられたその中身は、スープだ。
がっかりなんてしていない。起きてすぐに重たいものを食べる気力はないので配慮が有難いとさえ思っているのだが、気になるところがありはする。
スープ、にしては、見た目が……こう、斬新だ。
汁は透き通っているので、具がふんだんに使われているのがよく見える。厨房で下働きをしていた経験のあるシルフィールでさえ名前のわからない茶色の根菜と葉もの野菜だ。
ごろごろと大きく切られたそれらの野菜が、色のついていないさらさらの汁の上で浮かんでいるどころか、どーん、と皿の中で自立している。
期待していたものとはすこし違いはしても、素朴ながらも滋養がある一品に違いない。そう信じてシルフィールは匙にたっぷりとすくい、スープを口に運ぶ。
『……………』
そして、無言のまま匙を皿に戻した。
不味い、わけではないのだ。そう言い聞かせる。
味付けがされた形跡がないのも、よくいえば素材そのもの味を生かしていると言えなくもないじゃないか――えぐ味と苦みが好さを掻き消してしまってさえいなければ。スープという名の野菜の煮汁を呑み込むあいだ、シルフィールは他に加点要因を探したがほかに何もいいところが思いつかない。
『お口に合いませんでしたか?』
『うっ』
嫁に来た身で贅沢は言えない、貴族令嬢ならずとも、それぐらいの良識はシルフィールだって持ち合わせている。
香辛料も塩も、貴重なものだ……いや、此処は島だから塩ぐらいはそこまで苦労せずとも手に入る環境のはずでは。
『あのう、大変、申し上げにくいのですが、糸目さん……』
『ふむ。糸目、とは私のことでしょうか?』
『あ』
内心、糸目呼ばわりしていたことがあっさりばれてしまった。
『ご、ごめんなさい、失礼なことを言ってしまって! お名前で呼ばせていただけますか?』
『では、カトルと』
優雅なお辞儀をしたカトルに、シルフィールは思い切って尋ねてみることにした。
『カトルさん……は、ローズレイ公爵にお仕えされているんですよね。そういえば、昨夜から他の使用人の方々の姿を見ていないのですが』
ああ、そのことですか、とカトルはこともなげに言った。
『実はこの城、現在、深刻な人員不足でして』
『人員不足……』
思わず繰り返してしまった。高位貴族の屋敷ではほとんど耳にしなさそうな単語である。
『大体のことはとりあえず私がやっているのです。こちらの朝食も私がご用意いたしました』
『えっ⁉ カトルさんが、ですか……?』
なみなみに注がれた野菜の煮汁と、申し訳なさそうに眉尻を下げたカトルを見比べる。
『力仕事や、掃除に洗濯、そういったことには慣れているのですが、私、どうも料理の才能がないようでして。以前も、お客様からお叱りを受けたことがあるのです」
それほどとは。さすがに予想していなかった。臨時とはいえ調理担当が料理がド下手で公爵邸は大丈夫なのだろうか。来たばかりの嫁が心配することではないかもしれないが。
「【蕾姫】様には申し訳ない限り……すぐにとは参りませんが、いずれ人員は補充されるはずですので、しばらく我慢していただければ』
カトルが言い終わるより早く、シルフィールは決意していた。
『私、やります』
『え?』
『私が食事、用意します。何人分、ご用意すればいいですか?』
『いえいえ、そのようなことを【蕾姫】様にお願いするわけには参りません』
『大丈夫です。私の腕がご不安かもしれませんが、少しなら覚えがあります。以前、私は厨房で手伝……いえ、貴婦人のたしなみの一環として料理を教えてもらったことがあるのです。何より私の! 豊かな食生活のためです!』
そんなこんなで押し切って、シルフィールはヴェリテ城の調理担当(臨時)となった。
厨房への食材の補充はカトルが行っているので、その素材を見て、自分でも作れそうな献立を考える。ローズレイ公爵もカトルも多忙で、別で済ませることが多いから基本的にはシルフィールの分だけ用意すればいいのだが、たまに予定が合えば公爵と共に食事をすることがあった。
ちょうど出先から戻って来るらしく「私の分も頼む」とカトルを通して連絡があった。
最初にカトルが調理した謎の根菜は、しっかりと煮込めば旨味がよく出るがことが判明した。皮を剥いて薄切りにした根菜を水にさらして灰汁を抜く。カトルが作ってくれたスープで感じた壮絶な苦みを取り除きさえすれば、この根っこはかなり旨味が豊富な野菜であると何度目かの失敗の後にシルフィールは気づいた。
貯蔵庫の中から干し肉を取り出し、鍋を火にかける。肉からにじみでてきた油で根菜を炒めてから水と一緒に香草を入れた。
この島周辺に自生する植物を掲載した図鑑で見つけた植物だが、生のままでも香りがいい。加熱してもその食欲を誘う香りが消えず、他の食材とも喧嘩しないので重宝している。
スープを煮込んでいる間、シルフィールは魚の下拵えを始めた。スープに一緒に入れてもよかったのだが、ローズレイ公爵もいるならもう一品あった方が見栄えがする。捌いた魚の身に塩を振ってよくもみ込んだものに小麦粉をつけ、焼く。凝った調理法ではないが、魚の皮がぱりっとさせ、仕上げのバターで風味を付ければとっておきのごちそうになる。
イヴェル邸のキッチンメイドほど手際よくは出来なかったが、だんだん慣れてきたので様にはなってきたようだ。最初ははらはらしながら見守っていたカトルだったが、興味深そうにメモを取ってさえいた。
完成した料理を持って食堂に向かうと、既にローズレイ公爵が席についていた。
「ああ、今日はあれのスープだね?」
ローズレイ公爵は一見するとただの木の根のようにしか見えない野菜がお気に入りのようだった。皿を見た途端、頬を緩めている。
公爵の分、自分とカトルの分を用意して、シルフィールは座った。
この三人と、眠り続けているルイがいま城にいるすべての者だという。カトルはローズレイ公爵にとって家族のような存在で、こうして食事を共にすることも多いようだった。
シルフィールが食前の祈りを捧げているあいだ、公爵とカトルは黙ったまま何かを噛みしめるように目を閉じている。公爵家の作法なのかもしれないが、シルフィールに強制するようなことはなかった。
「さあ、いただくとしよう」
公爵の一声で、食事が始まった。
仕上げにスープへ振りかけた香辛料がぴりりと辛い。根菜の旨味が染み出たスープのアクセントにもなっている。
「それにしてもイヴェル家の淑女教育は素晴らしい」
あっというまにスープを飲み干したローズレイ公爵が唸るようにして言った。真っ白な丸皿に盛りつけた魚のムニエルにもいそいそと手を伸ばしていた。
「昔は料理人にすべてを任せていたものだが、私がヴェリテ領に引きこもっていたうちに時代は変わったのだな。料理も【蕾姫】が習得済とは。おかげで久々に食事の愉しみを見出せたよ」
「主君……不味いと思っているのなら早く言ってください」
むっとしたように糸目を吊り上げたカトルを見て、公爵がからからと笑った。
「じきにアンも復職しますので、それまで申し訳ありませんがシルフィール様にご協力いただけると有難いです」
「はいっ、承知しました。ですが私は自分の食事を充実させたかっただけなので、どうかそんな、畏まらないでください」
恐縮したシルフィールを前に、カトルが頭を掻いた。こうして料理が出来るのも彼が材料を揃えてくれるおかげだ。むしろ感謝しているのはシルフィールの方だった。
「ところで……アンさん、というのが以前、カトルさんがおっしゃっていた補充人員ですか?」
「ええ。現在、長期休暇中なのですが周期的にはそろそろ復帰できる頃合いかと。同様に、ローズレイにお仕えする者があと何人か増員できる見込みです。【蕾姫】様もお越しくださったことですし、この城もにぎやかになることでしょう」
実質、三人で暮らしているヴェリテ城がにぎやかになるところなど想像もつかない。葡萄酒を浴びるように飲み、カトルと肩を組んでどんちゃん騒ぎをしているローズレイ公爵の姿を思い浮かべると、なんだか笑えた。
「――あ、そうだ。今度、カトルさんが食材を調達しに行くのについていっても良いですか?」
来てしばらく経つが、まだ一度もシルフィールは城を出たことがない。
図書室で見つけた地図や図鑑でなんとなくの地形や風土は学んだが、実際に見にいきたい、とずっと思っていたのだ。ちょうど公爵も同席していることだし、ここで了解を取ればいいだろう、そんな軽い気持ちだった。
「シルフィール様……」
ちら、とカトルがローズレイ公爵の表情をうかがった。
「すまないが、それは許可できない」
公爵は断固とした口調で言い切った。
微笑みを浮かべてはいるが、いつもの春の夜風のような穏やかさとは、まるで異なる雰囲気を身にまとっている。
その瞬間、自分が間違えてしまったことをシルフィールは理解した。
「あ……も、申し訳ありません。勝手なことを言ってしまって」
「いや、気にすることはないよ。いずれはきみを案内しようとは思っていたんだ。時期がまだ来ていないというだけさ――ルイが、目覚めさえすれば、共にこの地を見て回って欲しいと思っている」
「ルイ公子様、ですか」
本当に目覚めるのでしょうか、という疑問が喉のところまでせりあがって来たが、なんとか押しとどめた。
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