第15話 生きてさえいれば

 思ったより元気そうだな俊。アクリル板越しに告げるのは、羽澄の父である羽澄清志(ハスミキヨシ)だ。


 久しぶりに見る父は、酷くやせ細っていた。別人のように削げ落ちた頬、暗く澱んだ瞳。とても壮年の男とは思えず、もはや老人の域に到達しているようだった。



「この島は、結構遠いんだな。座りっぱなしで腰が痛いよ。でも船酔いしなかったのはラッキーだった。ほら、昔から乗り物が苦手だからね」



 父はやたら饒舌だった。元々話し好きな性質ではあるが、軽快な口調に比べて顔が暗い。きっと、話題を予め考えてきたのだろうと、羽澄は思う。



「物騒な噂と違って、良さげな施設だな。リゾート地みたいじゃないか。父さんも許されるなら、2〜3日くらい厄介になりたいもんだ。アッハッハ」



 父の笑い声は渇いていた。頻繁に目は泳いでおり、辺りを見渡してばかりだ。


 最初は、無言で聞き流していた羽澄も、次第に堪えが効かなくなる。


 無意味としか思えない雑談、そして渇ききった笑い声。とにかく不快だった。今は再会の喜びよりも、苛立ちのほうが遥かに勝っている。



「いやぁホント。海もすぐ近くだし、泳げたりするのかな。でもタイミングが悪かったか。最近は随分と涼しくなったし、次の夏までだいぶある……」


「何しに来たんだよ」


「……え?」


「そんな事を言うために来た訳じゃないだろ! ハッキリ言えよ!」



 胸の奥で沈殿していた苦痛が、嘆きが、雪崩をうって押し寄せてきた。


 すでに羽澄の心は限界を越えた。家族への負い目、理不尽でしかない冤罪を認めた社会、そして凄惨な世間の私刑。どれ1つをとっても、若年が抱えるには重すぎた。


 もはや冷静では居られない。羽澄は喉を嗄らし、激情のままに喚く以外、何も出来なかった。



「早く本題に入っちまえよ。恨み言でもぶつけに来たんだろ、オレのせいで家族全員が不幸になったって! オレみたいな出来損ないは、産まなきゃよかったって!」


「俊……」


「迷惑をかけた自覚はあるよ、酷いことに巻き込んだって! だから謝れって言うなら何度でも謝る! 死んで詫びろってんなら今すぐ死んでやる! だからグダグタ言ってないで、さっさと用件を言えよッ!」



 荒々しい声で一気にまくしたてた羽澄は、激しく息をついた。弾みで浮きあがった腰はゆるやかに沈み、パイプ椅子へと落ちる。そして両手で顔を覆ったかと思えば、痒くもない頭を掻きむしりと、忙しなくなる。


 それから互いに黙り込んでしまう。静寂が耳に痛い。羽澄などは、断頭台の刃が冷たく輝く様を思い浮かべる程だった。


 そんな最中に重たい口を開いたのは、父の方だった。



「やめてくれよ、俊。父さんは、そんな事を望んじゃいないんだ。母さんも、穂乃香(ホノカ)だって、気持ちは同じだ」


「だってオレは、皆に取り返しのつかない事を……」


「お前のことを見捨てられる訳が無い。親にとって我が子というのは、特別な存在なんだ。だからオギャアと生まれてから、これまで大切に大切に育ててきた。生半可な想いじゃない。お前を心から愛してるんだ、それは今だって変わりはしない!」


「だけど」


「一度だけだって見捨ててやるもんか! どんな運命が待ち受けていようと、オレはお前に手を差し伸べるし、必ず守り通してみせる!」


「父さん……」


「だからお願いだ。どうか希望を捨てないで欲しい。生き延びることを諦めないでくれ。お前も、穂乃香も、父さんと母さんの宝物なんだよ」



 父は、嗚咽を漏らすと泣き崩れた。生まれて始めて見る、父の泣き顔だった。


 羽澄も直視出来ない。目頭が熱くて堪らなくなり、やがて顔面を両手で覆った。


 それからしばらくの間、親子揃って泣き続ける。肉親の繋がりは断ち難い。たとえ離れて暮らす運命で、再会がアクリル板越しであっても、彼らの縁を引き裂く事は叶わなかった。


 お互いに泣き止むと、今度はむず痒さに苛まれた。照れくささのあまり、2人の視線は重なりにくくなる。さながら同極の磁石であるかのように。



「いや、その、なんだ。ここまで大泣きしたのはいつ以来だろう。お前のお祖母ちゃんが死んだ時かな、アハハ」


「オレも、いつぶりか思い出せない。それより本当に良いのかよ。親子の縁を切っちまえば、色々と楽だろうに」


「楽って、どういう事だ?」



 羽澄は無言で写真を突きつけた。父は唸りながらも、小さく頷いてしまう。



「毎日大変なんだろ? マスコミ相手に、縁を切ったとか言えば、騒ぎも下火になるんじゃないか」


「この現状は伏せておきたかったんだが、知られてしまったなら仕方ない。確かに電話が鳴りっぱなしで、嫌がらせだの無視だのと、色々ある」


「だったらオレと――」


「縁を切る、というのはナシだ。絶対に有り得ない」


「強情者だな」


「その辺りはどうにか対処する。幸い、父さんは一応働けているよ。閑職に追いやられたがね。ただ、母さんと穂乃香が、ちょっとな……」



 今、羽澄にとって気がかりなのは、妹の穂乃香である。父や母は、どうにか堪えられるかもしれない。しかし妹は危ういのではないか。世間の暴風を浴びるには、まだ幼すぎる。



「2人とも、すっかり家に閉じこもってしまった。買い物ですら宅配に頼りきりだし、穂乃香も中学に通えてない。学校で色々あったようでな」


「クソッ。妹は何も悪く無いのに……!」


「俊。それらを踏まえた上で、教えて欲しい事がある」



 ここで父が前のめりになる。その瞳は生気を取り戻しており、猛々しい光が宿っていた。


 羽澄も自然と唇を引き結び、父の言葉を待つ。



「あの事件は、本当にお前がやったのか? あんな大それた事、いまだに信じられないんだ。どんな答えでも絶対に受け止めてやる。だから真実を話してくれないか」


「事件の真相……?」


「そうだ。どんな荒唐無稽だって構わない。お前の口から、ハッキリと教えて欲しいんだ」



 羽澄は、この期に及んで言葉に詰まる。迂闊に口を滑らせれば、真実を知られてしまえば、何か悲劇が起きるかもしれない。例えば口封じ。もし父が冤罪を証明しようと奔走したなら、その危険度は一気に跳ね上がる。


 だが、嘘はつけなかった。この真剣な眼差しを前に、偽るなど許されない。それと同時に信じた。この父ならば、と。



「オレは、あの事件とは無関係だ。無理やり罪を擦り付けられた結果、ここに居る」


「やっぱり……! それで、犯人は知り合いなのか?」


「真犯人は蔵井戸(クライド)だ」



 その言葉に、父は1度両目を見開いた。しかし、大きく頷くと、先程の表情を取り戻した。


 詳細を尋ねられた事で、羽澄は記憶の扉を押し開いた。凶々しく心中で猛毒を吐き続ける、忌まわしき記憶を引きずり出すのだ。



◆ ◆ ◆



 あれは夏の終わりのこと。その時は部屋で1人、問題集と格闘していた。宿題とは言えやる気になれず、解答欄は白紙のまま。延々とペン回しばかりが捗る有様だった。


 そこへスマホの通知が鳴る。グループチャットで、送信元に『蔵井戸猛(クライド タケル)』と出て身構えた。用件は呼び出しで、今すぐに来いという主旨だった。


 羽澄は仕方なく身支度を整え、指定された場所へと向かった。行き先は繁華街の路地裏。土地勘のある地元だが、行き慣れない場所でもある。



「おせぇぞ羽澄! ダラダラしやがって」



 開口一番に怒鳴るのは、呼び出した本人だ。黒の短髪で、筋骨隆々の大男。一見して好青年であるが、心根が邪悪である事を羽澄は知っている。


 その認識を裏付けるように、取り巻きの男たちは陰湿な笑いを零している。皆が皆、弱者をいたぶるような顔つきを隠しもしなかった。



「急に呼び出されたんだ。すぐに来れるわけ無いだろろ……ッ!?」



 その時になって羽澄は、ようやく気付かされる。取り巻き共の背後で、力なく倒れる男性の姿に。暗がりでも分かるほど、男のシャツは赤黒く汚されている。世代も若年層ではなく、スーツを着込む初老であった。


 血と酒が混じるむせ返る匂い。そして、隠しようのない死の気配が、羽澄に後ずさりを強いた。



「何がどうしたんだよ。そいつ、もしかして、死んでる……?」


「さぁな。まだ生きてんじゃねぇの。そのうちクタばるだろうが


「笑ってる場合かよ、蔵井戸! お前、とうとう人殺しまで!」


「オレじゃねぇ。お前が殺したんだよ、羽澄」


「ハァ?」



 そこで強引に押し付けられたのは、見慣れない財布と刃物。特にナイフには、血と脂に塗れていた。



「おい、これは何の真似だよ!」


「はい凶器に指紋べったり、ここに目撃者多数。真犯人おめでとう」



 すると、取り巻き達が弾けたように嗤い出す。皆が皆、下卑た声で嘲笑うばかりだ。この身代わり劇が、心底おかしくて堪らないといった様子である。


 周囲は口々に『蔵井戸さんマジで鬼畜』だとか言うものの、決して止めはしない。むしろ最高の娯楽であるかのように、囃し立て、煽る一方だ。



「そんな訳だから、羽澄。さっさと自首しろ。間違ってもオレ達の事をバラすなよ」


「こんな事が許される訳がないだろ! 警察には全部話すからな。お前たちを絶対に、法のもとに引きずり出してやる」


「そう言や羽澄には妹が居たな。名前は穂乃香、14歳だっけ? 可哀想だよなマジで。そんな歳で、手足を裂かれた後に殺されるとか」


「オイ待てよ、突然何を……」



 問い詰めようとした羽澄の顔に、蔵井戸のスマホが突きつけられる。それはライブ映像のようで、夜道を1人歩く穂乃香の姿が見えた。


 映像は穂乃香と、付かず離れずの距離を保つ。追跡しているようだった。その瞬間、羽澄の胸に冷たいものが駆け抜けた。



「妹に何をする気だ! 言えよ!」


「あとさぁ、お前んちの親父やババアも可哀想だな。うっかり火事に見舞われて全焼、チンケな家ごと焼け死ぬとか。これはタバコの不始末かな、それとも、油に火をかけっぱなしだったか? どっちにしても、死んで当然のマヌケな奴らだ」



 羽澄は、腹の奥底が凍りつくのを感じた。悪魔の発想。そうとしか例えようがない。



「家族を人質に取るってのかよ……!」


「人聞きの悪いことを言うなよ。どっちも痛ましい事件だろ。最近は物騒だからな、いつどこで悲劇が起きるか分からねぇよな?」


「猛さん、オレやりますよ。14歳の女とオアソビしたいッス。今の話とは関係ねぇけど!」


「オレもオレも! どんな声で泣いてくれっか、想像しただけで堪んねぇわ。『お家に帰してぇ〜〜』なんて台詞、ナマで聴きたいッスよ。これも関係ねぇけど!」


「聞いたかよ羽澄ぃ。これが人望ってやつなんだろうな。人の上に立つ人生も忙しそうだろ?」



 羽澄を絶望の渦が飲み込んだ。悪い夢かと思える程に非現実的で、自分の正気すら疑った。


 しかし、蔵井戸に馴れ馴れしく肩を叩かれた感触だけは、酷く現実味があった。



「そんじゃ頼んだぞ、凶悪犯。人生賭けてキッチリ演じてこいや」



 高笑いとともに、蔵井戸が路地裏から消えていく。取り巻き達も、尾の長い嗤い声を残して立ち去った。


 間もなく、羽澄の耳にサイレンの音が聞こえだす。そして赤く点滅するランプの光が、彼の人生を大きく捻じ曲げていった。



◆ ◆ ◆



「蔵井戸の小倅め……! 人の息子を何だと思ってやがる!」



 父の眼が赤く燃え盛る。どこか血の色と似ていた。



「俊、辛かったな。悔しかったよな! 本当にすまない。こんな事になる前に、お前を守ってやれなかった……!」


「父さんが謝ることじゃない。悪いのは全部あの野郎だ」


「それにしても、よく堪えてくれた。お前の心労は生易しいものじゃ無かったはずだ。こうして持ちこたえてくれた事は、不幸中の幸いかもしれない」



 それこそ最近までは自殺を企み、一度だけ死にかけた事は伏せておく。



「俊。これからどうしたい? 乾坤一擲。蔵井戸の奴らに戦争を吹っ掛けてみるか?」


「無理だ無理。一介のサラリーマンが、まともに太刀打ちできるかよ。猛の方はさておき、父親は大企業の社長だ。揉み消されてお終いだろ」


「ウッ……。確かに、アリが恐竜に挑むようなものだ。でもな、正義はコチラにある。運が味方に付いてくれなら、万に1つ、勝てるかもしれない」



 羽澄は、申し出自体は嬉しく思う。父が見せた命懸けの覚悟が、胸にジワリと染み込むようである。


 それと同時に、ささいなズレを感じていた。果たして父に泣きつき、想いを託す事は正しいのか。それが本心なのかと、改めて問いかける。



(蔵井戸にやり返したい気持ちはある。このままで終わらせる気もない。だが、父さんに任せるべき事なのか……?)



 その時、不意に脳裏を掠めたのは、笑顔である。家族全員が浮かべる穏やかな笑みだ。それが見えた瞬間、羽澄は己の本心を理解した。



「父さん。頼みがある」


「なんだ。出来るだけの事はするぞ」


「生き延びてくれ」


「んんっ? ええと、もう少し詳しく」


「絶対に死ぬな。父さんだけじゃなく、母さんも穂乃香も、誰一人欠けること無く。全員が生き延びてくれ。逃げ回って良い。破産して家を捨ててホームレスになっても構わない。だけど全員が生きて残れるよう、どうにか頑張ってくれないか」


「蔵井戸の方はどうするんだ? アイツらに制裁を加えるべきだろう?」


「そっちも考える。だが最優先じゃない。一番は家族の命だ。父さんも肝に命じてくれ」


「……分かった。必ず成し遂げてみせる。いや、元よりそのつもりだったが」


「任せたぞ。生きてさえいたら、どうにかなる。死んだらそれまでだと思う」



 羽澄の脳裏に『お前が言うな』という自嘲が過ぎった。


 それでも、ひとまずは親子のわだかまりが消えた。改めて親子の絆を確認出来たことは、何よりも大きい。



「それにしても、俊は随分とたくましくなったな。まるで別人みたいじゃないか」


「オレはオレなりに、色々あった」


「……その右手のヤツもか?」



 父が、少し寂し気な顔になる。羽澄は、左手で庇う仕草を見せるが、今更だった。



「これは、必要だったんだ。オレが前へ進むために」


「そんな入れ墨に、大した意味があるとも思えないが」


「今は上手く説明できない。でも、いつかは話せる日が来ると思う」


「父さんはまぁ、許容範囲だよ。でも母さんが何て言うかなぁ。ショックで泡吹いて倒れるかも」


「さすがにそれは……。いや、有り得なくも無いか」


「だが、入れてしまったものは仕方ないさ」



 ここで父が、人差し指を突き立てた。それを口先に添える、顔もどこか冗談めかしたように緩める。


 少しだけ子供染みた仕草であった。



「母さんには内緒だぞ。穂乃香にもな」



 羽澄は思わず目を見開いた。そして古い記憶が、閃光のように脳裏を駆け巡る。


 潰れかけの駄菓子屋。傾いて軋むベンチ。季節外れのアブラゼミ。父からチョコバーを手渡され、その本人は、カップ麺が出来上がるのを今か今かと待ちわびる。


 遠い記憶だった。しかし父の仕草から、今でもありありと思い返す事が出来る。


 羽澄の胸に、夏の熱気よりも暖かなものが舞い込んできた。



「いつぶりだよ、それ。ガキ相手じゃあるまいし」


「おいおいナマイキ言うなよ。親にとって子供ってのはな、いくつになってもガキなんだよ。それこそ遠い未来、還暦を迎えたってな」


「腰がひん曲がった後でも、今のをやる気なのか?」


「あぁやるね、杖つきのジジイになってもやるね。お前が望むならな!」



 父は豪語する傍らで、大げさな表情をつくる。


 子供をあやすようであり、小馬鹿にするようにも見える。しかし羽澄は、懐かしさも手伝い、遂には吹き出してしまう。


 すると互いの笑い声が交差し、溶け合っては室内に響き渡った。含みのない、純粋な笑いだった。



「さてと。そろそろ面会時間が終わりらしい。名残惜しいが」



 父の手元で端末が振動した。アラームが起動した為だ。



「また来るよ。出来れば次は、母さんや穂乃香も連れて」


「無理しないで良い。さっきも頼んだとおり、家族の安全が最優先だ」


「分かってる。ともかく元気でな、俊」


「父さんも」



 言い終えるなり、羽澄は退室を促された。背中に父の視線を感じる。しかし振り向かない。お互いに腹の中で理解し合えたのだ。その感覚は、百万の言葉より信じるに値する。


 それからは予定など無い。長い渡り廊下を歩き、中央棟へと戻る。



「あれっ、篠束だ。何をしてんだ?」



 昇降口の傍には、独り佇む篠束結姫の姿がある。彼女は羽澄を見つけるなり、小走りで駆け寄ってきた。


 手ぶらではない。小洒落た布に包んだ手荷物を、両手で捧げ持っている。そんな姿勢のため、短い距離ですら足取りが覚束ない。


 それから羽澄の前に立つなり、早口で喋りだす。その猛威たるや爆炎の如く、言葉の熱風を撒き散らすのだ。



「面会お疲れ様でした! あれからお加減はどうですかご飯を食べられてないとの事で大切な面会前に手渡したかったのですが炊飯器の調子が悪く間も悪く料理の腕も悪いの三拍子でハラキリも辞さない覚悟を抱くに至りましたがせめてお腹に溜まるものをと思う一心で恥を偲んで参上したという次第でございまして」


「落ち着け、落ち着け。まずは心配をかけて悪かった」


「とんでもないです! 完徹は得意ジャンルですし!」


「いや、気がかりがあっても、ちゃんと寝てくれ……」


「ちなみに面接はいかがでした? 所員さんに尋ねました所、ご家族がいらっしゃったとか」


「寝てないのにフットワークが軽いな。もうそこまで掴んだのか」


「お顔を拝見する限り、良いお話だったようですね」


「そう見えるか?」


「はい。昨日とは別人みたい。ともかく良かった、私も嬉しいです!」



 篠束が緊張を解き、穏やかに微笑んだ。


 まるで自分ごとの様に喜ぶ知人を相手に、詳細を伏せておくべきだろうか。迷ったのは一瞬だけだった。



「篠束、ちょっと聞いてくれるか」


「はい! 少しと言わず何時間でも!」


「オレはこの施設には、犯罪者として収監されたんだ。罪状は強盗、それと殺人未遂」


「なるほど。冤罪ですね」


「正式な手続きがあり、裁判でも有罪判決が出された」


「では判決が誤りですね」


「頑なだな。どうしてそこまで信用出来るんだ」


「だって羽澄さんは、私の知る限り世界で一番善良な人ですから! 悪いやつをズビャア、バシィってやっつけちゃう――」



 篠束は興奮してか、身振り手振りを激しくした。


 だがそれが良くなかった。手元の包みから何かがこぼれ落ちてしまう。形の美しいオニギリだった。


 それは篠束の手元から落ちる拍子に、ラップまでも剥がれ、そのまま床に落下。正三角形から台形にひしゃげたオニギリは、土埃を身にまとう悲劇を迎えた。


 それと同時に、篠束の絹を割くような悲鳴が響き渡った。



「アアァアア! バカバカ私のバカーーッ! ドジっ子界のリーサルウェポンンンン!」


「落としたくらいで、そこまで騒ぐなって」


「えっ、ちょっと羽澄さん!? 汚いですよ!」


「美味い。ちょうど良い塩味。中身もツナマヨか。美味い」


「あの、落ちた方は私が食べますから! だからコッチのキレイな方を」


「嫌だね。これはオレんだ。残りも全部貰う」


「あぁ、羽澄さん。そんな男気見せつけられたら、私はどうにかなっちゃいます……!」


「大げさなんだよ。ちょっと汚れたくらいで、台無しになるもんか」



 その時、羽澄は思う。人生も同じなのではないかと。失敗したら終わりではない、やり直しがきく。辛い険しいは、また別の問題だ。


 生きている限りは、何度だって再挑戦ができる。たとえ奈落の底に落ちて、出口が見えなくとも、いつかは這い上がる事だって不可能ではないのだ。



「生きてこそ。生きてさえいれば、の話だよな……」


「あの、羽澄さん。一旦ラウンジ辺りに行きませんか? 立ったままでお食事と言うのは」


「いやここで良い。それよりもっと食いたい」



 羽澄は残りのオニギリも回収した。いずれも速やかにラップを剥がし、各々の手に持つと、交互に食らいつく。


 欲求の気配が濃い。彼自身が驚いてしまうほどに食欲は猛り狂い、終わりを見せなかった。



「美味い美味い。昆布と梅干だな。中身で塩加減も変えてんのか。細かいな」


「羽澄さん、そんな……。わんぱく少年みたいに両手持ちだなんて」


「オレもよく分からんが、腹が減って仕方ないんだ。ともかく美味い」


「あっ……どうしましょう。何だか私、新しい扉を開いたような気分です」



 新しい扉。その言葉には、羽澄も同意したくなる。篠束が注ぐ、熱っぽい視線は理解しかねるものの、似た心境なのだと思った。


 ここから始めよう。歪んでしまった人生を正し、失ったものを取り戻す。そんな決意を胸に、窓の向こうを眺めた。


 木々は紅葉に染まり、落ち葉も地面を埋め尽くす程に積もっている。次の紅葉は本土で見る。そう心に誓うのだった。



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